「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは

「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは

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「大阪での評価は非常に低かったんです」 ?“芸なし”と評された明石家さんまが一躍人気を集めるようになった“意外な助言” から続く

 1996年より「明石家さんま研究」を開始し、以降、ラジオやテレビ、雑誌などでの明石家さんまの発言をすべて記録し始めた“明石家さんま研究家”のエムカク氏。

 同氏が上梓した『 明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生 』(新潮社)はお笑いファン以外も巻き込み、大きな話題を集めた。

 ここでは、同書の続編『 明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ 』(新潮社)の一部を抜粋。売れっ子となった明石家さんまが抱えていた思いについて紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■初のテレビ冠番組

 1984年6月10日、さんまにとってテレビ番組としては初の冠番組となる『明石家さんまのフットワークスタジオ』(朝日放送)が放送された。吉本興業の大ア洋、放送作家の萩原芳樹が共同で企画したこの特番は、断続的にシリーズ化されることになった。

さんま「俺は遅刻することで有名だった時代がありますからねぇ。今の子は俺が遅刻しないっていうイメージなんだ? 不思議やなぁ」

村上ショージ「昔は、ほんとに忙しかったからね。寝んと」

さんま「そうそう。毎朝、芸能界やめようと思った時代がありましたからね。有名な話では、京都に11時入りのロケの仕事があって、東京から朝6時の新幹線で行こうと思ってたら、寝坊してしまって。ほんだら、11時にマネージャーの玉利君から電話がかかってきたんですよ。“今、赤坂東急ホテルや”とか言うて。“いや、網野まで来ていただかなくては困るんですけど”“困るっていうても行かれへんやないかい”“わかりました。今からヘリコプター飛ばします!”って言われてんけど、“もうええわ、そっちでやっとってぇ”言うて切ったんですよ。ほいで、現場でショージらが待っててくれたんですけど、大アっていうのがその番組のプロデューサーで」

ショージ「みんな、てんてこ舞い。朝日放送の番組で、向こうの偉いさんも、“これは大変やわ、ヘリコプター飛ばそう”とか言うて、吉本の関係者が必死になって」

さんま「着いたのが夜ですよ」

ショージ「さんまさんの特番やからね」

さんま「“そっちでやっとってぇ”どころじゃなかったんですけどね。そういうのは多々ありましたねぇ。しゃあないやんか。行く気はマンマンやねんけど、寝てしもてんから」(『MBSヤングタウン』2008年4月12日)

さんま「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ。なんでこんなはよ起きて、なんでこんな無理せなアカンねやろと思って、いっつも2度寝してしまうわけよ。いっつもそれでマネージャーとかともケンカすんねんけどもやねぇ。“もう芸能界やめるから、向こう行け”って言うて、2回目起こされてやっとの思いで行ってた」(フジテレビ『コケッコ!?』1994年1月9日)

■伝説の「テレフォンショッキング」

 1984年6月22日、『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのゲストとして、作家の有吉佐和子が、池田満寿夫デザインの煌びやかな着物に身を包み、登場した。司会のタモリは、前日、俳優の有島一郎から紹介され、電話口に出た有吉から、「あなたのそのシャツと蝶ネクタイ、3流のホテルのボーイみたいで似合わないわよ。おやめになって」と指摘されたことを受け、正装で有吉を迎える。

 ?とした有吉に、懐深く対応するタモリ。コーナーは滞りなく進行していくが、有吉が翌日のゲスト、橋本治を紹介した後から、様子が変わる。

「あなたの先祖には有名な国学者がいるの。あなたに文学的な素養があるのはその末裔だからじゃないかしら。あなた、作詞をしているでしょ?」

 有吉はそう告げると、持参していたラジカセを取り出し、タモリが作詞した早稲田大学の応援歌「ザ・チャンス」をかけて、タモリと唄い始めた。

 キリのいいところでタモリは有吉を送り出すため、「ありがとうございました!」と、拍手を促したその瞬間、次のコーナーに登場するさんまが飛び入り参加し、客席から大歓声があがる。タモリはすかさず、着ていたジャケットを脱ぎ、さんまの肩にかけた。するとさんまは『オレたちひょうきん族』の「タケちゃんマン」のコーナーで、ビートたけしとの掛け合いから誕生したギャグ「帰ってよ!」(甘えん坊で短気な“ややこしい女”になりきり、布団の中から「帰ってよ!」と男に言い放つ)を披露し、スタジオは大爆笑。さんまはすぐに退場する。

 この時点で、テレフォンショッキングのコーナーは35分が経過していた。当時の歴代最長時間は、同年3月14日に黒柳徹子が記録した43分。「テレフォンショッキングのコーナーは、おもしろく転がりそうならば、後のコーナーを潰してでもそのまま続ける」。タモリとスタッフの意向は一致していた。

関根勤「テレフォンショッキングで、黒柳さんと、有吉佐和子さんが長々としゃべりましたよねぇ。あのとき、タモリさんはどういう気持ちで話してるんですか?」

■「予想のつかないことが起きる。それに対応したさんまさんがいる」

タモリ「あれはねぇ、おもしろくなってきてねぇ。“あ、これはこのまま、この番組がぶっ壊れるといいな”と思った」(『FNS27時間テレビ 笑っていいとも!真夏の超団結特大号?徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』2012年7月21日〜22日)

 有吉は、さんまを呼び戻し、一緒に唄おうと提案する。タモリは再びジャケットをさんまにかけ、「帰ってよ!」をやらせる。会場は爆笑の渦に包まれ、スタッフルームにも笑い声が響き渡る。

 結局、有吉が退場したときの時刻は12時42分。黒柳に次ぐ歴代2位の出演時間を記録する。番組終了後もデスクの電話はクレームと称賛の声で鳴りっぱなし。この日の『笑っていいとも!』の視聴率は15パーセントを超えた。

三宅恵介「生放送の『いいとも!』に有吉佐和子さんが出て、ものすごく長引いたんですね。

 それで、さんまさんが『オレらのコーナー、つぶされるんやないか?』と言いながらの1時間になったんですよ。

 あれは、おばさんパワーがすごいんだということで、その後に、おばさんを集めようということになって『いただきます』が、はじまったんです。

 生放送のいちばんの利点って、ああいうことだと思ったんですね。

 予想のつかないことが起きる。それに対応したさんまさんがいる……という。だから、そこから生まれた番組は、ナマで起きてしまったことを、どうおかしく展開していくか、という作りかたになりまして。

 さんまさんと作るコントも、いつも『スタートだけは一緒にしておくんですが、それがどちらに行ってしまうかはわからない』というものなんです。

 100メートル走になるか、マラソンになるかはわからないけど、トラック競技であるということだけは決めて、スタートラインにはつく。

 トラックを走ることだけは守ってくれよ、という作りかたなのですが、そうすると、なにかが生まれてくるんですよね」(Webサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』「おもしろ魂。」糸井重里・三宅恵介・土屋敏男鼎談2004年9月)

■29歳の覚悟

 1984年7月1日、さんまは、コメディNo.1、若人あきら、ザ・ぼんち、宮川大助・花子らと共に、愛媛県宇和島市で開催されたイベントに参加する。

 この日がさんまの29歳の誕生日であることを知った共演者たちは、バースデーケーキと花束、プレゼントを用意し、ささやかなパーティーを開いた。

 さんまは29歳となってからも、9本のレギュラー番組に加え、準レギュラー番組『なるほど!ザ・ワールド』『ヤングプラザ』、ドラマやコンサート活動など、変わらず多忙な日々を送っていた。

さんま「この世界、一度走り出したらとまらない因果な商売なんですわ。でももうアカンやろな、そろそろピークですからね。ま、人気が落ちてきたら、そしたら今度は自分の好きなことができるからええけどネ」(「週刊明星」1984年5月24日号)

さんま「30歳まであといくらも残っていません。10代、20代とふり返ってみると、ようムチャをやりました。人を笑わかすこと、サッカー、パチンコ、片思い、かけおち、ギャグ付きのナンパ、そして弟子修業。いちいち考えんと、ともかく行動してしまう性格なもんで、本人はそう感じてなくても周りがハラハラするようなムチャがずいぶんあったんやないかと思います。

 けど好きなこと、興味あることにはトコトンのめり込んだおかげで、ふつうの人の5倍も6倍も密度の濃い青春を送れたような気がします。

 ケネディ大統領は父親から『なんでも1番になれ。2等以下になるな!』ときびしく育てられたらしいですけど、ぼくは何事もいうのはムリやけど、こと好きなジャンルに関しては人に負けるのが絶対イヤな性分でした。その強気いうか勝気なところでどれだけトクしたかわからん思うてます」(『こんな男でよかったら』)

■「なにがなんだかわからない時代でしたね」

 1984年8月24日、さんまは、うめだ花月で上演された舞台『ラジオが泣いた夜 放送されない公開生放送』に出演。うめだ花月の舞台を“ラジオ放送局”に見立て、架空のラジオ番組が放送される様子を出演者がすべてアドリブで演じ上げていく。ラジオパーソナリティ役として吉本興業の芸人が次々と登場し、フジテレビのディレクター、三宅恵介、山縣慎司、小林豊、佐藤義和、KBS京都のディレクター、岩崎小泉らをゲストに迎え、アドリブトークを繰り広げていった。

 さんまは、島田紳助、斉藤ゆう子と共に出演。レギュラー番組である『笑っていいとも!』『花の駐在さん』を遅刻した話や、さんまの祖父・音一の話、恋愛エピソードなどを包み隠さず披露し、紳助との雑談を楽しんだ。

さんま「『笑っていいとも!』なんかは、“なんで遅刻したんだ?”っていう、遅刻の言い訳がひとつの名物になってましたからね。“246の交差点で地底人とバッタリ会うてしまって”とか、そんなこと言ってましたねぇ。“火災が起きたビルから子供を助けてました”とか。今は芸能人で遅刻するイメージの人がいないね。昔は、たけしさんなんか、『オレたちひょうきん族』をよく休んだりしてましたからね。俺は遅刻は多かったなぁ。低血圧やし、忙しかったし、なにがなんだかわからない時代でしたね、あの頃は」(『MBSヤングタウン』2008年4月12日)

大ア洋「担当していた劇場でも、それまでやったことがなかった新しい挑戦をスタートさせている。うめだ花月で上演した『ラジオが泣いた夜』という舞台もそのひとつ。タイトルは好きだった片岡義男さんの小説から取ったもので、直接、片岡さんに電話を入れて使用の許可を取ったりもした。

 舞台はラジオ局の設定で、出演したのはさんまやのりお。それまでのカッチリとした台本がある舞台ではなく、アドリブや脱線はもちろん、舞台上で起きるハプニングも含めて全部見せてしまおうというコンセプトだ。今ではありふれた手法だが、大げさに言えば当時の花月で上演されていた『演芸』のスタイルを崩してやろうと企んでいた」(『笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大ア洋物語』)

(エムカク)

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