「大阪での評価は非常に低かったんです」 ?“芸なし”と評された明石家さんまが一躍人気を集めるようになった“意外な助言”

「大阪での評価は非常に低かったんです」 ?“芸なし”と評された明石家さんまが一躍人気を集めるようになった“意外な助言”

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 いまや押しも押されもせぬ人気芸人として、お茶の間に笑いを届け続ける明石家さんま氏。しかし、『オレたちひょうきん族』でプロデューサーを務めていた横澤彪氏によると、大阪時代の彼の評価は「非常に低かった」という。では、いったいどのようにして支持を集めたのだろうか。

 ここでは明石家さんま研究家のエムカク氏の著書『 明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ 』(新潮社)の一部を抜粋。関係者の証言を交えながら飛躍のきっかけを振り返る。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■“漫談”から“雑談”へ―“笑わせ屋”として

 さんまは、テレビやラジオの仕事でどんなに忙しくなろうとも、毎年200日以上、吉本興業が運営する花月劇場(なんば花月、うめだ花月、京都花月)の舞台に出演する努力を続けていた。吉本興業がダブルブッキングをしてしまったときなどは、仕方なしに仲間の芸人に代演を頼むこともあったが、できる限り舞台に立ち、漫談を披露していた。そして花月の楽屋に集う芸人仲間やスタッフたちといつも雑談を繰り広げ、率先して楽屋を盛り上げていた。

「さんまは劇場よりも楽屋のほうが面白い」

 芸人仲間の誰もがそう思っており、さんま自身も漫談ネタを演っているときよりも、楽屋で思うがままにしゃべっているときのほうが大きな笑いがとれることはわかっていた。

 そしてさんまは、“雑談”の可能性について深く考えるようになる。月曜日に移った『ヤングタウン』では、共演者のあさみあきお、堀江美都子と楽屋で話しているような感じで、内輪ネタを織り込みながら自由にトークを展開させ、試行錯誤を重ねていく。

 さんま「うちの師匠(笑福亭松之助)が、『さんま、雑談を芸に出来たらすごいぞ』と口癖のようにおっしゃってて、オレはいつかそれをやってやろうと思い続けてたんですね。“内輪ネタ”も意識的に、積極的に扱いました。(中略)リスナーにとってはほんとどうでもいい話を延々して、力づくで笑わせることによって、リスナーも“内輪”に取り込もうとしたわけです」(「クイックジャパン」Vol.63)

■「悪い面は全部、先に出します、人前で」

 さんまの楽屋トークのおもしろさは、東京の番組でも共演者やスタッフから評判となっていた。

「秘密を作るな。恥ずかしくても、不恰好でも、すべて世間にバラしてまえ。隙だらけにしておくと楽になるぞ」

 さんまはこの松之助の助言に従い、これまで表舞台ではオブラートに包みながら話していた恋愛話や私生活での失敗談、仲間たちとの内輪話などを、どのような場所でも、脚色を交えながらなんでも話すようになっていく。

さんま「自分は菊なんだ、花なんだと飾っても、どうせ枯れていくのやから。いつまでも自分がドライフラワーのようにカッコつけても、しゃーない。悪い面は全部、先に出します、人前で。カゲ口をたたかさんように、自分でさらけ出してしまう。これは師匠がそう生きてきたっていうことだったし。自分もそういうふうに出せばラクなんですよ」(「MORE」1982年11月号)

ビートたけし「さんまは芸より人柄だね。番組の中より、楽屋のほうが面白いんですから」(同右)

さんま「開き直りましたんや。芸人やから私生活のことも放っといてもらえん。そんならぜーんぶ喋ってしまおう、それが芸人のサービス精神ちゅうもんやと」(「週刊現代」1983年3月5日号)

■「さんまさんの情報収集能力はすごいですよ。あの人に盗聴器はいらない」

横澤彪(『オレたちひょうきん族』プロデューサー)「彼の大阪での評価は非常に低かったんです。さんまは芸なしだ、なんていわれてね。(中略)とにかく楽屋話がめちゃくちゃ面白い。ちょっと差し障りがあるんで名はいえないんですが、芸人としての序列の最高のところにいる人について、それをバカにするような話をふくらませたり、創作したりしてしゃべるのが実にうまいんです。その面白さが高座ではちっとも出ないんですね。ボクははじめて彼の楽屋話を聞いたとき、これは凄い才能だと思った」(「週刊現代」1985年1月19日号)

太平シロー「さんまさんの情報収集能力はすごいですよ。あの人に盗聴器はいらない。ありふれた世間話をしているだけなのに、いろんな人のことを何でもよう知っている。その事実を原形に、うまいことネタをこしらえるんです。『嫁はんがよう寝る』とひと言しゃべっただけでさっそくネタにされて、いつ行ってもシローの嫁はんは寝ている、シローがついにキレて寝ている嫁はんを引きずり回したと、そういうことになっている。でも、さんまさんの作ったネタはよくできていて、長く使えるからおいしい」(「アサヒ芸能」1999年9月2日号)

■「無尽蔵に話がずーっと尽きずに出てくる」

大平サブロー「初めて会ったときにねぇ、明石家さんまはんは、やっぱりねぇ、出てる匂いに負けたなっちゅうか、なんか、ちゃうなぁっていう。舞台出た瞬間からバーッとなってんねやったら別に、勝負してもええと思うけど、あの人は睡眠時間3、4時間で、あのテンションを、目ぇ開いてから閉じるまで20時間近く維持してる。

 なんば花月の楽屋で僕とシローちゃんがふたりでしゃべってて、“ほんで昨日な、飲みに行ったらこんな奴おってなぁ”って言うてたら、“おぉ〜、ほんまかいなぁ〜”から入ってくるんですよ。“おぉ〜、ほんまか〜い、ヒャー!(笑い声)”言うて。“ほいで、ほいで、ほいで?”言うて。“ほいでね”“あ〜、そうかいな〜”言うて、そっから自分の話にもっていくんですよ。

 普通やったら、横から“おはようございます”って言うといて、“うんうん”って話を聞いて、“いや、それやったら僕もな”って入るのが普通やのに、“おぉ〜! ほんまかいなぁ〜! ヒャー!(笑い声)”言うて。そのときに、“すごいな”と。ほいで、無尽蔵に話がずーっと尽きずに出てくる。それをずーっと維持してるし。

 負けたというより、これは勝てんやろなという。だから僕らはものまねしたり、漫才を一生懸命やっていくしか挑む道はないなぁと思ってました」(毎日放送『たかじんONE MAN』2000年10月18日)

■「ほんま、人を笑わせるいうのんは楽しいですよ」

さんま「まあ、ぼくは自分を落語家やのうて、“笑わせ屋”やと思うてますからね。そやから、いまは、人を笑わせるためならなんでもやりますわ。笑わせるためにパンツを脱げいわれたら脱ぎます。

 ほんま、人を笑わせるいうのんは楽しいですよ。そやからいま、レギュラー8本で、ふた晩寝てなくてもがんばれるんですわ。(中略)

 ぼくは、舞台へ出ると、客席にいい女の子がおらんか探すんですわ。いい女の子がおると、なんとかその子を笑わしたろ、そしてオレに好意をもつようにさせたろ、そう思うてがんばるんですわ。(中略)

 おしゃれすんのも、テレビに出て人を笑わせるのも、女の人がおるからですわ。そんなもん、女の人がおらんかったら、落語家なんかやめてルンペンになってますわ。

 体にゴザ巻いて、寝っころがって、そのほうが楽ですがな。(中略)

 結婚は30才までしないつもりですけど、子供はいますぐにでもほしいですね。もう、めちゃめちゃに子供が好きでね、ぼく。

 紳助の子供が、この前遊びにいったら、ぼくのことを『さんまのおじちゃん』いうんです。涙が出るほどうれしかったですわ。(中略)

 男の子が3人ぐらいほしいですわ。女の子はダメ。兄貴に娘がいるんですけど、見てて、この子が将来知らん男に抱かれんのか思うと、オジとしていたたまれなくなるんですわ。(中略)

 いまでも、実際に女の子は何人かいますしね。2か月後には、また増えるかもしれへん。そうすると、はずみで結婚約束したりしますからね。それやから、30才になって、そのときにつきあってる女と結婚しようときめたんです。(中略)

 ぼくら芸人は果物屋のミカンですからね。古くなったらポイですわ。

 そやから、新しい感覚でいくために、結婚してからも浮気するでしょうし、体の続くかぎりは休みません。(中略)

 そしてね、それでも芸人として売れんようになったら、今度は、お笑いの演出家か、シナリオライターになります。そうやって、死ぬまで人を笑わせたりますわ」(「女性セブン」1982年5月6日号)

■自らのスキャンダルもすかさずネタに

 週刊誌「女性自身」(1982年5月25日号)で、Kとのスキャンダル記事の続報記事(見出しは「明石家さんま愛人問題で苦境に! タケちゃんマン助けてェ〜」)が掲載された際には、すかさず漫談ネタの中に取り込んだ。

「もう、何が辛いて、週刊誌っていうのはねぇ、まず電車の中吊りになるんですよね。あれがたまらん。何気なしに電車に乗ってまして、ほっと見たら大きな太い字で、“さんま泥沼”と書いてあるんですよ。“愛人問題慰謝料1000万”感嘆符がボーン! ここまではまだ我慢できるんですけども、その横に小さい字で、“タケちゃんマン助けて”て、どついたろかアホんだらぁと思うんですよね。人の不幸をああしてペンで遊びよるんです。

 その次に載ったんがですねぇ、『女性セブン』だ。“さんま、外人モデルにプロポーズ”、その次が『微笑』。“さんま、おすぎと同棲か?”……人をなんでもこいみたいに書きやがってですねぇ、もうたまらん。

 うちの親なんか奈良の田舎もんやから、“どないなっとんねん?”言うて、すぐに電話かかってきますからねぇ、親のために載らんとこうと思って、2か月間、まっすぐマンションに帰って、どこにも遊びに行かなかった。どっかへ遊びに行ったら、なんか書きよるからですねぇ、2か月じーっとして、もうこれで週刊誌に載らない思て、安心した矢先だ。

 女性誌をパッとめくったら、私の顔写真がボーンあって、“あれ? 俺、なにしたんかな?”思たら、“こんなに働いて貯金ゼロ!”って、ほっとけっちゅうねん!」

 さんまは、たしかな手応えを感じていた。

 劇場で漫談をするときは、スーツやタキシードを着るのをやめて私服のまま出演し、ラジオに出演するときには、己のすべてをさらけ出すことで、リスナーとの距離を縮めていった。

 吉本興業東京事務所の社員(当時)である大ア洋は、1枚のはがきをネタに1時間近くしゃべりまくり、面識のないリスナーと延々と楽しく会話できるさんまの姿を間近で見て、「これこそがさんまの芸。新しい芸だ」と感じていた。

■「2年前のネタでも、昨日のことのようにしゃべりますもんね」

上岡龍太郎「そのうち、さんまちゃんとか鶴瓶ちゃんといった素人話芸の達人が出てきだした。あれはうまいもんです。2年前のネタでも、昨日のことのようにしゃべりますもんね。ぼくらやとね、無駄な言葉を省いて、わかりやすい表現で伝える工夫をしてしまうんです。

『春まだ浅き早春の、まだ風は寒いころでしたが』

 とぼくやったら、詰まらずに言おうとするところを、鶴瓶ちゃんは、

『あのう、あれですわ、あの、おとついとちゃう、3日前ですわ。ほれっ、あのー』

 てな調子で言うと、ものすごくリアルなんですよね。ぼくらが、きちーんとしゃべってしまうと、かえって信用がなくなるんです。聞いてる人も『うっそお』と言うて感動を与えないんです。

 さんまちゃんでも、昔、ぼくと『ポップ対歌謡曲』という番組でやってたころのネタを今だにやってるんです。けど、リアルなんですよ。それこそ、マンションのドアを女がたたいてたというのを、昨日か一昨日のことみたいにしゃべりますもんね。あれは一種のラジオやテレビの素人芸というか、リアリティ芸なんでしょうね。

■「“お笑い何でも引き受けます”それがボクの商売や」

 そう考えりゃ、われわれが舞台でしゃべる話術というのは、リアルやないほうが良しとされる部分があったんでしょうね。できるだけきれいに、流暢にしゃべるのがいいということだったんです。『言葉を選んで強弱をつけて』という工夫は?になってしまうんですね。?は?として、より良い?をついてくれる人を良しとしたわけですから、ぼくらもそれを目指して一所懸命に練習したわけです。

 ところが、テレビというのはリアルを良しとするもんやから『立て板に水』よりも『横板にトリモチ』でええんです。なんぼ口慣れてても、流暢にしゃべったらあかんのです」(上岡龍太郎『上岡龍太郎かく語りき 私の上方芸能史』筑摩書房、1995年)

さんま「芸なんていえるもんやないですが、ボクは律気(原文ママ)なんです。ボクの漫談は軽卒(原文ママ)かもしれませんが、真実があると思ってます。ネタは町を歩いていてさがすんですわ、おもろいことばかりいろいろころがってまっせ」(「平凡」1981年2月号)

さんま「ボクの芸? 素人みたいモンや。(中略)だけどやね、芸人としては日本一ですよ。そう思わなんだら、やってけしまへん。何が何でも、ボクは笑わせますよ。笑わすためには手段を選びません。

 でもネ、お年寄りばっかりの舞台、アレはダメ。ぜーんぜん受けないときがある。そんなときは、これは相手が悪いと、ま、あきらめることにしてます、ハハハ」(「アサヒ芸能」1982年9月9日号)

さんま「タレントでっしゃろな、今、ボクにピッタシの肩書きは。ほならどういうタレントかというと、笑わせ屋。かというて笑われ屋、失笑されとんのとはちゃいますよ(笑)。間と、言葉のセンスのふたーつだけで、こっちから笑わすわけや。自分は凄いと、自己暗示をかけながらね。(中略)

 コレッというて売るもんはない。そやからアクがのうて、顔も中途半端で、さわやかなだけやと思われてしまう。間とセンスだけいうボクの芸は、認めてもらいにくいんでっしゃろね、しゃあないことやけど」(「週刊現代」1983年3月5日号)

横澤彪「彼は、芸がないところがいいんですよ。少なくとも『これが芸ですよ』と見せないところがいい。決め技がないところがいいんだな。しかし、センスはいいですよ」(「アサヒ芸能」1982年9月9日号)

さんま「この世界、一流の人は名人上手や言われる人のテープ聞いたりネタ帳作ったり、よう勉強してますけど、ボクは、こんな商売そんな大そうに思ってへんのです。(中略)

 ボクが演芸に凝ったらファンに飽きられます。(中略)

 落語家とか漫談家の名刺は欲しくないんや。目の前にいる客を自分の持っているもので笑わせることができたらええと思ってるんです。ま、しいて言うならスタンディング・ジョッキー言うとこですか。笑わせ屋、笑われ屋でええ思うとるんです。“お笑い何でも引き受けます”それがボクの商売や。とにかくおもろかったらそれでええやないか。人生かてそうですネン―(中略)

 一応ギャラもろうてんねんやから、いつも80点はとろうと思うとるんです。ホンマは世間話や雑談でウケるようになれたら芸人として最高になれるでしょうネ」(「週刊明星」1983年7月28日号)

「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは へ続く

(エムカク)

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