「彼女は携帯も持っていない」中森明菜56歳が表舞台から姿を消して4年…実父との“断絶”、知られざる“現在のマンション生活”

中森明菜、都内マンションでひっそり暮らす現在の生活 今年はデビュー40周年目

記事まとめ

  • 中森明菜は今年デビュー40周年目で、6月にはボックスセットも発売された
  • 明菜は、所属事務所の社長の支援を受け、都内マンションでひっそり暮らしているという
  • 明菜の父は今年88歳で、東京都清瀬市の郊外にある古い2階建ての1軒家で暮らしている

「彼女は携帯も持っていない」中森明菜56歳が表舞台から姿を消して4年…実父との“断絶”、知られざる“現在のマンション生活”

「彼女は携帯も持っていない」中森明菜56歳が表舞台から姿を消して4年…実父との“断絶”、知られざる“現在のマンション生活”

©共同通信社

 中森明菜が、表舞台から姿を消して4年が経つ。今年は彼女のデビュー40周年目に入る。これを記念して6月には1980年代を中心とした初期の全シングルを収めたボックスセットも発売された。

 明菜の長きにわたる“沈黙”は、その才能が開花した80年代への郷愁をいやが上にも誘う。(「文藝春秋」2021年9月号より、全2回の1回目/ 後編 に続く)

◆ ◆ ◆

 80年代は、熱に浮かされた時代だった。

 校内暴力の嵐が吹き荒れ、若者はブランドブームを先取りした小説「なんとなく、クリスタル」に熱狂。その一方、マネーゲームに狂奔した男たちが引き起こした戦後最大の詐欺「豊田商事事件」が幕を開ける。

 そして85年のプラザ合意を機に、為替相場は急激な円高、ドル安へと向かい、バブル経済が始まった。株価は上昇を続け、89年には日経平均株価が3万8915円の史上最高値をつけた。その空前の好景気は、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”という言葉に象徴された。

■混沌と狂乱の時代に現れた中森明菜

 日本が混沌と狂乱の時代を迎えていた80年代。その不世出のアイドル、中森明菜は現れた??。

 昨年11月9日、明菜を世に送り出した元所属事務所「研音」の社長だった花見赫がこの世を去った。享年83。

 花見は、読売新聞の名物記者だった父親の影響で、日本テレビに入社。音楽ディレクターとして「シャボン玉ホリデー」や「スター誕生!」といった人気番組に関わり、81年に研音の社長として迎えられた。

 研音と言えば、今でこそ数多くの俳優を抱える大手事務所だが、もともとは競艇の予想紙を発行する研究出版の音楽部門としてスタートした。しかし、花見が加入すると、堀江淳のデビューシングル「メモリーグラス」が、70万枚の売上げを記録、ピンク・レディーからソロに転じた増田けい子(現在は惠子)が、中島みゆき作詞・作曲の「すずめ」でヒットを放ち、研音はたちまち上昇気流に乗った。そして、極めつけが、中森明菜のブレイクだった。

 花見の80年代は明菜とともにあったと言っても過言ではない。

 彼の晩年を、長男が明かす。

「父は5年前に癌を患い、再発を繰り返し、最後は入院先の病院で肺炎で亡くなりました。徐々に終活を始めていたようで、持ち物を整理したり、人との付き合いもごく限定的になっていました。父は病床で、自分がお世話になった方を20名ほどあげ、その方への想いなどを書き残しておりました」

 筆頭として名前があったのは、研音の創業者で、現在は研音グループの代表を務める野崎俊夫だった。

■遺品から明菜の写真

「野崎会長には会社を通じて連絡すると、ピンク・レディーのケイちゃん(増田惠子)と一緒に自宅に弔問に来て下さいました。父が残したリストには、明菜さんに関係するような連絡先はありませんでした」(前出・花見の長男)

 しかし、遺品を整理していると、明菜と写った数枚の写真のほかに、特別装丁の国語辞典を見つけたという。

〈Eternal Memory AKINA NAKAMORI〉

 濃紺の革張りの表紙に、そう刻印された辞書の奥付には、83年発行と書かれてある。明菜がトップスターへの階段を一気に駆け上がっていた頃だ。

「父は明菜さんに翻弄され、矢面に立たされていたような印象がありますが、意外に本人は気にしている様子もなく、恨み言は聞いたこともありませんでした。彼女が所属を離れてからも陰ながら応援している様子でした。父は書き物が好きで、自費出版などもしていましたが、この辞書がどんな経緯で発注されたのかは分かりません。ただ、大事にとってありました」(同前)

 デビュー当時、明菜は1度だけ、花見の自宅を訪れている。アイドル雑誌で、彼女の自宅を公開する企画が組まれ、撮影用に用意されたのが花見の自宅マンションだった。休日は、最上階にある部屋から屋上にサマーベッドを出して過ごすという、取ってつけたような設定で、その撮影の様子を花見の家族も苦笑いで見守った。40代で転身を遂げた花見は、明菜に振り回されながら、それをどこかで面白がり、彼女が放つ一瞬の輝きを〈永遠の記憶〉として心に留めたのだ。

 アイドルとして一時代を作った中森明菜も、今年で56歳を迎えた。彼女は、その半生で、たくさんの物を手に入れ、そして失ってきた。

■実父は「会わなくてもいい」

 東京都清瀬市の郊外。田園風景が残る住宅街に建つ古い2階建ての1軒家。ここに今年88歳になる明菜の父、明男が1人で暮らしている。

 明菜はこの家で、6人兄弟姉妹の5番目、三女として育った。彼女の歌い手としての人生の始まりに、多大な影響を与えた最愛の母、千恵子は1995年6月にこの世を去り、それから26年、彼女は家族と断絶状態にある。

 平日の昼下がり、黒い麦わら帽子を被り、臙脂色のトレーナーを着た明男が、庭先に姿をみせた。声を掛けると、「耳が遠くなって、聞こえないんです」と補聴器を取りに戻り、庭先のイスに腰かけながら、ぽつりと零した。

「明菜が会いたくないのなら、もう会わなくてもいい。もういいです」

 かつて明菜との再会を切望していた明男は、力なく笑った。

■「彼女は携帯も持っていない」

 親族の一人は、明男の心境の変化をこう代弁する。

「物忘れが酷くなってきたことも影響していると思います。身内もみんな明菜には会いたいですよ。ただ、彼女は携帯も持っていないし、直接連絡を取る方法もないんです」

 明菜は現在、所属事務所の社長兼マネージャーの支援を受け、都内のマンションでひっそりと暮らす。外部との接触はレコード会社の関係者らとメールでやりとりする程度だ。

 彼女は血を分けた肉親であっても、自分の意に沿わないものは遠ざけてきた。世間が作り上げた“虚像”を受け入れ、孤独の淵を歩いてきた。

 彼女はなぜ消えたのか??。

 16歳でデビューした明菜は当初から“ドラマがある”アイドルだった。当時の歌謡界は、目に見える形で時代の“周波数”が切り替わる変革期にあった。80年4月に松田聖子がデビューし、半年後に山口百恵が引退、翌年3月にはピンク・レディーが後楽園球場で解散コンサートを行ない、大きく勢力図が変わろうとしていた。

 82年は2月に、史上最悪の“人災”と呼ばれた赤坂のホテルニュージャパン火災、そして翌日には羽田沖で、機長が“逆噴射”させた日航機が墜落する昭和史に残る衝撃的な事件が相次いで発生。そして9月に火を噴くことになる三越のワンマン社長解任のクーデター計画が、水面下で静かに進行し始めていた春のことだった。

■「こんなの着て歌うなら歌手になりたくない!」

 明菜のデビューからわずか4日後の5月5日。今は閉園となった「としまえん」の野外ステージで、デビュー発表のミニコンサートが開催された。午前中は晴れていた空に、次第に雲がかかり、午後からは雨がパラつき始めていた。

 3000人を収容できる会場には、続々と観客が押し寄せ、13時半からの開演を待っていた。開演15分前。バックステージにいた明菜のもとに、ブルーのワンピースにピンクの胸当てをあしらった衣装が届けられると、彼女の表情は一変した。

「こんなの着て歌うなら歌手になりたくない!」

 彼女はそう叫んで、泣きじゃくった。開演時間は刻々と迫り、スタッフが必死で説得を試みるが、彼女は頑として譲らない。そこにマネージャーに伴われた明菜の母、千恵子が現れた。

 最初こそ諭すように話していた千恵子だったが、終いには堪忍袋の緒が切れ、こう怒鳴り上げた。

「じゃあ今すぐ辞めろ。一生歌手になるんじゃない」

■「この子凄い。ビッグになるよ」

 外まで響く怒声。周囲はその母娘喧嘩を固唾を飲んで見守った。そして開演ギリギリ、ようやく明菜は泣き止み、化粧を整えてステージに向かった。

 しかし、公演中に雨脚が強まり、観客のなかには足早に会場を後にしようとする者もいた。告知ポスターには〈雨天中止〉と謳ってある。

 明菜は、どしゃ降りのなか、ステージの前まで進み、ずぶ濡れになりながら、デビュー曲の「スローモーション」を歌った。その迫力に観客は帰る足を止め、釘付けとなった。彼女は感極まり、最後は涙声になっていた。

 舞台上では、司会の徳光和夫が興奮気味に「この子凄い。ビッグになるよ」としきりに彼女を讃えていた。

 ここから彼女の伝説は始まった。

 この日、“教え子”の晴れ姿を見るために会場に駆け付けていたヴォイス・トレーナーの大本恭敬も、隣にいた研音の花見に、思わずこう呟いた。

「凄いね、大したもんだよ」

 大本は、西城秀樹や岩崎宏美など、1000人を優に超える歌い手を育てた、日本初のヴォイス・トレーナーとして知られている。今年で、齢86を迎える彼は、明菜の類まれなる素質をいち早く評価し、育ててきた一人だ。

■ベテラン審査員に抗議

 雨の初ライブの約1年前、有楽町のよみうりホールで「スター誕生!」の予選会が行なわれていた。

 スターへの登竜門として知られたスタ誕は予選会、テレビ収録がある本選に合格した者だけが、レコード会社や芸能プロのスカウトが集まる決戦大会に臨むことができた。

 そこに審査員兼ピアノ伴奏として参加していたのが大本である。彼は審査が進むなか、見覚えのある少女に目を止めた。それが明菜だった。

「それまで彼女は本選で2度落選していました。審査員だった声楽家の松田トシさんが彼女を嫌って、厳しい点数をつけていたという話は聞いていた。ただ、僕は明菜をいいと思った。彼女の鼻にかかった声は上顎部にあたる艶っぽく、単に鼻に抜けた声とは違い、憂いがありました」

 明菜は79年の1度目の本選で、岩崎宏美の「夏に抱かれて」を唄い、審査員の松田から「中2ですよね? 年のわりには大人すぎて、若々しさに欠けますね」と酷評されていた。翌年、今度は松田聖子の「青い珊瑚礁」で挑んだが、審査員席の松田は、またしても辛辣だった。

「あなた、歌は上手いけど顔が子供っぽいから無理ね。童謡でも唄っていた方がいいんじゃない?」

 これに明菜は壇上から猛然と噛みついた。

■「明菜、止めなさい!」と母が一喝

「童謡を唄えとおっしゃいますが、スタ誕では童謡を受け付けてくれないんじゃないですか?」

 当時、中学3年生の明菜と藍綬褒章も受章したベテラン審査員との激しいやり取りに、会場は騒然となった。客席にいた母親が「明菜、止めなさい!」と一喝し、辛うじて事態は収束したが、それでも彼女は懲りなかった。

 3度目の挑戦。明菜は翌81年7月の本選で、山口百恵の「夢先案内人」を唄い、スタ誕史上最高得点を獲得して合格する。そして、続く11月11日(放送は12月6日)の決戦大会では、11社のスカウトからプラカードが上がり、歌手デビューへの切符を手にするのだ。

 この時、明菜を巡る争奪戦で一歩先んじていたのが、新興のレコード会社、ワーナー・パイオニアの小田洋雄である。当時、邦楽部門で、制作の取り纏め役を担っていた小田が語る。

「最初に明菜の歌を聴いた時には鳥肌が立ちました。アイドルの域を超えた個性があり、歌に説得力がありました。何としても彼女を獲得したいと思い、スタ誕を制作する日テレ側に熱意をアピールする方法を考えました。その頃のスタ誕は、70年代を席巻した全盛期の勢いに陰りが見え始めていました。そこで後楽園ホールでの本選だけでなく、敢えて地方の予選会にも何カ所も足を運びました。もしかしたら、明菜以上の才能に出会えるかもしれないという淡い期待もありました」

 ワーナー側には必死にならざるを得ない事情があった。

 ワーナー・パイオニアは、米国のワーナー・ブラザース社と日本の音響メーカー、パイオニア、そして芸能プロダクション大手の渡辺プロダクションが出資した合弁会社として70年に設立。

 しかし、78年に渡辺プロが合弁から離脱すると、環境は一変した。ワーナーの邦楽部門を支えていた小柳ルミ子、アグネス・チャンら主力歌手やディレクターの大半が渡辺プロが新設したレコード会社に移籍。稼ぎ頭を失った当時のワーナーはジリ貧に陥り、窮地に喘いでいた。

 もはや選択肢は明菜しかなかった。

 ただ、小田には妙案もあった。

「うちと研音が組めば、日テレは“ご祝儀”として明菜の獲得を調整してくれるのではないか。スタ誕の決戦大会では、他社も手を上げることは間違いない。事前に野崎会長に打診し、話を固めればうちが獲れると思ったのです」

 本来は、出場者本人が決戦大会で札を上げた中から所属先を選ぶルールだが、明菜獲得に向けた水面下の交渉はすでに始まっていた。そして、小田の目論見通り、明菜は研音とワーナーが引き受けることになった。

 翌年5月のデビューに向け、残された時間は限られていた。小田は部下だった制作ディレクターの島田雄三に明菜を担当するよう指示した。島田は学生時代にフォークデュオとしてデビューした経験があり、卒業後はワーナーの1期生として入社。それ以後、ディレクターとして経験は積んできたが、ライバル社の強力な布陣に圧倒されていた。

 のちに「花の82年組」と呼ばれる明菜の同期デビューには、大手芸能プロと実績あるレコード会社がタッグを組んだ一線級がズラリと顔を揃えていた。バーニングとビクターが組んだ小泉今日子、ホリプロとキャニオンの堀ちえみ、芸映とRCAの石川秀美……。島田は開き直るしかなかった。

「当時の研音とワーナーは二流、三流の弱小勢力に過ぎず、とても正攻法では太刀打ちできないと感じていました。明菜のことはスタ誕の下見会(各プロダクションの下見用に開かれた大会)で初めてみて、歌もしっかりしているし、可愛いなと思っていました。ただ、実際に会ってみると、人見知りで、無口な印象しかなかった。最初は日テレで会ったと記憶していますが、付き添いの母親がほとんど喋って、明菜はただ頷いているだけでした」

( 後編 に続く、文中敬称略)

「嫌だ!絶対に唄いたくない!」激しく泣き叫んだ中森明菜「少女A」誕生秘話 “じれったい、じれったい”に変えたら… へ続く

(西崎 伸彦/文藝春秋 2021年9月号)

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