メリー喜多川氏が本当に愛したジャニーズの名前「マッチのために中森明菜に…」「田原俊彦とファンで“全裸監督”と大乱闘」

メリー喜多川氏が本当に愛したジャニーズの名前「マッチのために中森明菜に…」「田原俊彦とファンで“全裸監督”と大乱闘」

メリー喜多川氏 ©文藝春秋

 ジャニーズ事務所の“ゴッドマザー”藤島メリー泰子名誉会長が、8月14日に都内の病院で亡くなったことが、同月17日に発表された。死因は肺炎、享年93歳だった。メリー氏の訃報にあたって、芸能記者らはみな「見事だった」と口にした。

「2015年1月の『週刊文春』による取材の現場でSMAPの敏腕担当マネジャーだった飯島女史に激怒してその後退社させ、娘の藤島ジュリー景子社長(55)と滝沢秀明副社長(39)の体制が固まるまでを見届けましたから。一連の騒動を全てきれいに片付けてから亡くなったわけです。

 2019年7月に87歳で亡くなった弟のジャニー喜多川氏と二人三脚で『男性アイドル帝国』ジャニーズ事務所を築き上げてきた“女帝”の死で、ジャニーズは完全に次のフェーズへと移行しました。責任感の強いメリーさんらしいですよね」(芸能ジャーナリスト)

■経理、金銭面を担当して経営を支えた

 メリー氏は1927年に米国ロサンゼルスで生まれた。父親はリトルトーキョーの高野山真言宗米国別院の僧侶・喜多川諦道氏。弟は、言わずと知れたジャニー喜多川氏だ。1950年代から東京・四谷三丁目でカウンターバー「スポット」を経営していたメリー氏はその当時から芸能、マスコミ関係者に顔が広かった。夫は、明仁上皇(87)の学習院時代の学友として知られ、1997年に亡くなった作家の藤島泰輔氏(享年64)だった。

 1962年にジャニー氏がコーチをしていた野球チームの少年たちでアイドルグループ「ジャニーズ」を結成。1964年にジャニーズ事務所を立ち上げると、メリー氏は裏方として参画。独特の感性で少年たちをクリエートするジャニー氏に対し、メリー氏は経理、金銭面を担当して経営を支えた。

 1968年にデビューした4人組アイドルグループ「フォーリーブス」ではメリー氏がスタイリストとして衣装の製作に関わっている。1975年に「汚れなき悪戯」でデビューしたアイドル・豊川誕の芸名は、メリー氏が東京・赤坂の豊川稲荷東京別院から名付けた。

■郷ひろみのジャニーズからバーニングへの移籍

 根っからのクリエーターのジャニー氏を支えて、メリー氏は対外的な交渉も担当した。彼女の剛腕が最初に芸能界に轟いたのは、1975年の郷ひろみ(65)のジャニーズからバーニングへの移籍だろう。

 デビューわずか3年での移籍は物議をかもしたが、現在は芸能界のドンの地位に就いた若き日の周防郁雄バーニング社長(80)から「メリーさん、私に(郷ひろみを)やらせてくだい」と頼まれると、あっさりと「いいわよ」とOKしたという。この逸話は、周防氏自身が5年前の「週刊現代」(2016年11月26日号)のインタビューで明かしている。

「この移籍劇には、当時芸能界の大物が仲介に入っていました。そのため、郷に未練を残すジャニー氏を尻目に、メリーさんは冷静な判断を下して郷ひろみを手放したんです。移籍に関しては、それ相応の移籍金が払われたと聞いていますが、それ以上にジャニーズが手にいれたものは大きかった。

 この出来事以降、芸能界での発言力が高まり、男性アイドルはジャニーズが独占するという暗黙の了解が芸能界で形成されていったんです。結果、メリー氏はジャニーズ帝国を繁栄へと導くことになりました」(スポーツ紙芸能デスク)

 フォーリーブスの人気が衰え、郷を失ったジャニーズ事務所は一時期低迷期に入ったが、「たのきんトリオ」の登場で一気に盛り返す。田原俊彦(60)、近藤真彦(57)、野村義男(56)の3人は、1979年に始まった連続ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)の生徒役でデビュー。ジャニー氏が彼らをアーティストとしてプロデュースする一方、芸能界の“大人たち”から愛されるようにと、メリー氏が言葉遣いや礼儀作法を教えることでバックアップした。

■田原俊彦とセクシー女優のアバンチュール

 先陣を切って1980年に「哀愁でいと」で歌手デビューした田原俊彦はレコード大賞最優秀新人賞を受賞。一気にトップスターの座に上り詰めて、1987年の連続ドラマ「ラジオびんびん物語」(フジテレビ系)をはじめとする「びんびんシリーズ」で主演するなどわが世の春を謳歌した。

 そんな田原に大ピンチが訪れたのが、1988年にセクシー女優、梶原恭子との一夜のアバンチュールを「週刊ポスト」(小学館)に報じられた事件だ。この事件をうけて、「全裸監督」で話題の村西とおる監督(72)が、報道直後に「ごめんね! トシちゃん」と題した梶原主演AVを発売。当時、男性アイドルは“清廉潔白な王子様”であることが求められた時代。田原のファンたちは騒然となった。

「メリーさんは、田原と現社長のジュリーさんを引き連れて、小学館に乗り込んで、村西監督や梶原と全面対決しました。おろおろする田原を尻目に、相手を一喝。さらには田原のファンを“対決現場”に引き入れて、梶原に非難の声を浴びさせました。豪腕ぶりは当時から際立っていました」(女性誌編集者)

 田原は1994年にジャニーズ事務所から独立。その後はジャニーズのタレントとの共演を拒否されるなど、苦難の芸能活動を余儀なくされたが、メリー氏の訃報に接してこう振り返っている。

「厳しくて、優しくて、お母さんのような存在でした。感謝しかありません。僕が一番面倒くさいタレントだったと思う。いろいろ指導してもらって、ディスカッションもしたし、怒られた」

 いろいろと摩擦があった田原とは対照的に、メリー氏の寵愛(ちょうあい)を一身に受けたのが近藤真彦だった。

「田原に次いで、1980年暮れに『スニーカーぶる〜す』でデビューした近藤は、メリーさんの一番のお気に入りでした。王子様系が基本の典型的なジャニーズタレントとは違い、やんちゃなところがメリーさんの母性本能をくすぐったのでしょう。一時はジュリーさんと結婚させて、ジャニーズ事務所の後継者にするのではとも噂されてました」(ワイドショー関係者)

 だが、近藤はメリー氏の思惑から外れ、大スキャンダルを起こす。1985年公開の映画「愛・旅立ち」での共演をきっかけに中森明菜(56)と交際し、しかも中森のライバルである松田聖子(59)とのニューヨークデートを写真誌に撮られてしまった。

■マッチと明菜の金屏風事件の裏でメリー氏が暗躍

 ショックを受けた中森は、1989年7月に近藤の自宅で手首を切る自殺未遂事件を起こす。トップアイドル同士の交際だけでもご法度の時代に自殺未遂。しかしここでもメリー氏が暗躍した。

「大みそかの『NHK紅白歌合戦』の真裏で、金屏風を背景に中森が会見し、近藤がそこへ友人として同席して励ますという不思議な光景が繰り広げられました。この場へ出てくるように中森を説得したのがメリー氏です。どう説得したのかは闇の中ですが、中森は会見すれば近藤と結婚する道が開けると信じていたとも言われます」(ワイドショー関係者)

 だが2人がゴールインすることはなく、その後、中森が完全復活することもなかった。

 一方、近藤は1994年に一般女性と結婚したが、特別扱いは変わらなかった。メリー氏の庇護の下、自由気ままにレース活動をしながらタレント活動を行った。しかし「週刊文春」(2020年11月19日号)で、アパレル会社社長との不倫が報じられる。

 芸能ジャーナリストが語る。

「メリーさんは2019年7月にジャニーさんが亡くなった後、副社長から会長に、そして2020年9月には代表権のない名誉会長に就いていました。この時期くらいからでしょうか。芸能記者の間ではメリーさんの体調不良が話題にたびたびのぼるようになってきました」

 そんな中、近藤の不倫騒動が起きる。ここでメリー氏は、これまで寵愛してきた近藤への態度を一変させたのだという――。( #2 へ続く)

メリー喜多川氏が「SMAP追放」と「マッチへの愛のムチ」でつけた“後始末”「可愛がっている工藤静香が…」 へ続く

(川田 南雲/Webオリジナル(特集班))

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