「親も金もなく、弟ジャニーとも離れ離れに!」メリー喜多川の知られざる《LA家政婦暮らし》現地証言

「親も金もなく、弟ジャニーとも離れ離れに!」メリー喜多川の知られざる《LA家政婦暮らし》現地証言

アメリカ生まれのメリー、ジャニー両氏と幼なじみのシカコ・ソカ?へ?さん(100)。ロサンゼルス在住

《追悼メリー喜多川》旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」 から続く

■おとぎ話のようなハリウッドの大邸宅で

 タエミさんは、「喜多川家とは親戚づきあいだった」と言うが、メリーやジャニー姉弟としてはいつまでも他人を頼るわけにもいかなかったのだろう。家賃がかからず、勉学にも励めるハウスガール(住み込みの家政婦)はうってつけの行き先だった。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

「私が、泰子ねえちゃん(メリー)が逝ったと聞いて、真っ先に思い出したのがハウスガール時代のこと。泰子ねえちゃんが住み込んだのは、ハリウッドの大邸宅でした。裕福な家庭だったから家族が旅行に出ることも多くて、そんな時には『泊まりにお出で』って。1週間くらい泊まったこともありますよ。

 リトル東京の日系社会とはまったく別の、未知で素敵な世界がそこにはありました。泰子ねえちゃんはてきぱきと料理をこさえてくれて、お城のような館で好きなことをして過ごす。まるでおとぎ話の中にいるようで、泰子ねえちゃんから誘われるたびに飛び上がって喜んだものです」

 とはいえ、ハリウッドの豪邸に弟2人の姿はなかった。ハウスガールの立場で、弟たちを居候させることなど叶うべくもないことだった。

「ヒー坊(ジャニー)もマー坊(ジャニーの兄、真一)も、結局ハウスボーイになって3人は別々に暮らしていました。ハードライフですよね。親もいなくて、お金もなくて、離れ離れで……。寂しくつらかったことでしょう」

■泰子ねえちゃんの英語は、日本訛りが強かった

 その上、英語の壁も立ちはだかったはずだ。いったい、メリーやジャニーの語学力はどのようなレベルだったのだろうか。

「泰子ねえちゃんにとって、いちばん話しやすいのはもちろん日本語ですよ。ヒー坊もそうでしたが、2人にとって英語はあくまで第2言語。だから、日英両語が堪能な私の母と泰子ねえちゃんは、常に日本語で話していましたね。反対に、日本語をほとんど話せない私とはいつも英語でした。泰子ねえちゃんの英語は、日本訛りが強かったし流暢ではなかったけれど、日常生活は十二分にこなせました。アメリカ生まれというものの5歳で日本に行き、20歳を過ぎてからアメリカに戻って英語を学んだことを考えれば、大変な努力だと感心します」

■アメリカの香りを日本の芸能界に

「語学もそうですが、とにかく泰子ねえちゃんは前向きなんです。フレンドリーで話上手な社交家。反対に無口だったのがマー坊で、小柄なヒー坊とは違い背の高い人でした。社交性という点では、ヒー坊は2人のちょうど中間かな。ヒー坊は、いつだって柔らかくフェミニンな雰囲気だったわね」

 ロサンゼルスでそれぞれの青春を送る姉弟に、渡米翌年の1950年(昭和25)、突然の転機が訪れる。朝鮮戦争が勃発したのだ。アメリカでは若者たちが徴兵されたが、米国籍を持つ喜多川兄弟も例外ではなかった。米兵たちは、アメリカ占領下の日本経由で故国と朝鮮半島を往還した。戦火の半島から日本に戻ったジャニーは、アメリカには帰らず、米軍や在日アメリカ大使館関連の施設に勤務する道を選ぶ。

 一方、兄の真一はアメリカに帰国。理系の大学に進み、卒業後は宇宙航空開発製造のノースアメリカン・ロックウエルでエンジニアの職に就いた。ロサンゼルスで家庭も築いた彼は、喜多川姉弟ではただひとりアメリカで半生を送った人である(1986年[昭和61]逝去)。

 メリーが日本に戻り、ジャニーが住まう東京に根を下ろしたのは1959年(昭和34)頃。日本を出た時は21歳だったメリーも、すでに三十路を越えていた。当初は四谷でバーを経営したが、アメリカ大使館関連施設に勤めるかたわら、歌って踊れる4人グループ、「ジャニーズ」のマネージメントに多忙となった弟を補佐するためにバーを閉店する。1962年(昭和37)、ジャニーズ事務所創業。2人がその後、大成功をおさめたことは承知のとおりだ。

 メリーが頻繁にロサンゼルスを訪ねるようになるのは、ジャニーズ事務所が軌道に乗った後のことである。

「泰子ねえちゃんは、来るたびに必ず私や母を訪ねてくれました。フォーリーブスと一緒のことも多かったですね。彼らは、高野山米國別院の本堂でコンサートを開いたこともあるんですよ。フォーリーブスといえば、ター坊(青山孝)がロサンゼルスで結婚式を挙げた時には、うちの子どもたちがフラワーガールやページボーイを頼まれたりして。そうこうするうちに、泰子ねえちゃんは、ニューヨークの一等地やコロラドのリゾート地に豪華な別宅を購入して、みるみる階段を昇っていく姿が華やかでした」

 しばしばロサンゼルスに足を運んだメリーは、テレビやショーからタレント衣装のヒントを得るなど、アメリカの香りを日本の芸能界に移植した。ノンフィクション作家、秋尾沙戸子の『ワシントンハイツ』には、高野山米國別院の年配信徒によるこんな証言が紹介されている。

「ヤッちゃんも、なんだか若い男の子を日本から連れてきていました。近くのベニスビーチでローラースケートを練習させていたことがあったわ」

 デビュー前の光GENJIのことであろう。

■歌舞伎座に特設席を作らせたメリー氏

 タエミさんの「泰子ねえちゃんとの楽しい想い出」には、メリー晩年の仰天エピソードも含まれている。2005年(平成17)に、母のシカコさん他、親戚10名で日本を訪ねた時のこと。メリーが迎えに来るというのでホテルのロビーで待っていると、

「いきなりドーンとリムジンが着いたんです。私たちのために、泰子ねえちゃんが手配したという。それが特別車体が長いリムジンでね。東京は道が狭いから、警察が交通整理したり大騒ぎでした(笑)。で、そのリムジンが着いた先が超高級鮨店。しかも、泰子ねえちゃんがお店を貸切にさせたもんだから、お客は私たちだけ。アワビが好物の泰子ねえちゃんを真似て、私もアワビを食べまくりました。あんな豪勢なお鮨は後にも先にも!」

 しかし、タエミさんたちには、さらなる驚きの出来事が待っていた。滞日中に歌舞伎を見ようということになったのだが、ちょうど中村勘三郎の襲名披露中でチケットは全席完売。あきらめていた彼女たちを前に、メリーはなんと天下の歌舞伎座を動かしたのだ。

「中央の通路に、急遽、椅子を10脚ほど特別に縦列にして並べさせたんです。いきなりの特設席ですよ。泰子ねえちゃんが、日本の芸能界で成功したことはもちろん知っていましたが、あれほどとは! でもねえ、他の観客たちにとっては奇異な光景でしょ。人々は目を点にして私たちを見るし、私たちだってうれしいやら恥ずかしいやらで、今でも親戚中の語り草になっています」

■私がリタイアしたと伝えた時には「オー、ノー!」

 タエミさんはメリーについて、「エネルギッシュできらびやか。今、この場で、何をどうすればいいかを判断する能力と、決めたことを即、実行する強さのある人」と、賛辞を惜しまない。

「それに、仕事がとことん好きでした。63歳になった私がリタイアしたと伝えた時には、即座に『オー、ノー!』(笑)。私は、リタイアメントをエンジョイしていると言ったんだけど、もう全然ダメなの。『自分は死ぬまで働く』と断言していましたが、そのとおりになりましたね。

 あんなに懸命に生きた人だから、今はきっとニルヴァーナ、涅槃にいると私は信じています。そしてようやく、アメリカでは叶わなかった姉弟3人一緒の平穏で幸せな時を送っていることでしょう。本当にようやくね。泰子ねえちゃん、レスト・イン・ピース、どうぞ安らかに」

(文中敬称略)

(柳田 由紀子/文藝春秋)

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