「恋愛も結婚もしなくてもいいのよ。でもね、つがいではいたほうがいい」浅田美代子が語った樹木希林の“人生観”

「恋愛も結婚もしなくてもいいのよ。でもね、つがいではいたほうがいい」浅田美代子が語った樹木希林の“人生観”

浅田美代子さん ©杉山秀樹/文藝春秋

 わたしたちは「樹木希林」依存症だ。生きていくおかしみも、哀しみも、すべてこの人から学ぼうとした──小誌は2018年12月発売の創刊号で、同年9月に逝去した樹木希林さんをこう追悼した。そのおかしみや哀しみをいちばん近くで学んでいたのが浅田美代子さんだ。

 浅田さんは希林さんの3回目の命日に当たる9月15日、初の著書 『ひとりじめ』 (文藝春秋)を上梓。ずっと“ひとりじめ”してきた希林さんとの思い出を自らの半生とともに綴った。

◆ ◆ ◆

■希林さんが繰り返した、「私の責任もあるから」

 1973年、私はTBSの国民的人気ドラマ『時間ですよ』でデビューしました。これは銭湯が舞台で、おかみさんが森光子さん、従業員は希林さん(当時の芸名は悠木千帆)とマチャアキさん(堺正章)という曲者2人。毎年新人を登用していて、私の前年は天地真理さんで「2階のマリちゃん」として人気でした。

 その新人オーディションで私は初めて希林さんに出会ったんです。希林さんは審査員のひとり、私は演技の経験もない女子高生。控室には綺麗な女の子ばかりいたから、ああ、私は落ちたなと思っていました。

 それがなぜか合格してしまい、私は両親の反対を押し切って、すぐに高校を中退しました。合格しなければ、成城大学に入りたいと思っているひとりの女子高生に戻り、芸能界に入ることはなかったはずです。希林さんは後々までよく言っていました。

「浅田美代子は私が関わったオーディションで芸能界に入ったから、ここでやっていけるかどうかは私の責任もあるから」

■「普通の感覚を大切にしなさい」それをわからせるために…

 希林さんの厳しい指導はすぐに始まり、例えば、私が自分のセリフにマーカーで線を引いて覚えようとしていると、希林さんはそれを禁じました。

「やめなさい。そういうふうにすると、自分のセリフしか見えなくなるでしょう? 芝居は人のセリフがあって成り立つものなんだから」

 それから今日に至るまで、私は台本に線を引いたことがありません。後年、私の台本を見た俳優から、「ちっとも勉強していないんだな」と呆れられたことがありましたが、台本との向き合い方は希林さん仕込みの私のほうが正しいんだという自信がありました。

 私は田舎から出てきて銭湯の従業員になるミヨちゃんの役で、希林さんからは「普通の人を演じるのだから、普通の感覚を大切にしなさい」「技術を磨くより、まずは気持ちだよ」とよく言われました。それはどういうことなのか私にわからせるために、希林さんは本番中に突然、私のスカートをめくるんです。私が思わず、「きゃー!やめてよっ!!」と叫ぶと、それがリアルでいい芝居だと、ほくそ笑んでいたんですよ。

 希林さんは芝居のことだけでなく人としての生き方についても、アドバイスしてくれました。だから私は自然に、胸に抱えていた父への嫌悪感や幸せとはいえない家庭の事情を打ち明けるようになったんです。

■家族の悩みを打ち明けたとき、希林さんがくれた言葉

 私の父は自動車関連の会社を経営していましたが、「飲む・打つ・買う」のやりたい放題で、母に暴力を振るうのも物を投げて壊すのもわが家では日常の光景でした。父には常に別の女性がいて、平気で私たちが暮らす家に出入りするような人もいました。

 デビューの翌年は、ドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS)でまた希林さんと共演しました。『寺内貫太郎一家』で小林亜星さんが演じた主人公の貫太郎は、短気でちゃぶ台をひっくり返したり、息子を投げ飛ばしたりします。

「私の父は、寺内貫太郎以上に、怒鳴り散らしたり暴れたりするから、こんな風景に慣れているんだよね……」

 私は撮影現場で希林さんに、父の行状について時には悪態をつきながらこぼしました。

 希林さんは、父をかわいそうな人だと言いました。

「お父さんは人生がうまくいかないことや、自分の不甲斐なさを、怒りや暴力でしか表現できないんだろうね」

 18歳の私には、なかなか父をそのように理解することはできなかったのですが、希林さんが親身になってくれることがうれしくて、ますます希林さんに懐いていきました。

■「(専業主婦は)すごい仕事だよ。美代ちゃん、やってごらんよ」

 私は21歳でフォークシンガーの吉田拓郎さんと結婚して専業主婦になります。芸能界を引退して結婚することを選んだいきさつは本に詳しく書いたつもりでしたが、そういえばこんなこともありました。

 その頃、私は交通事故に遭って手首を骨折し、決まっていた舞台を降板しました。周囲に迷惑をかけてしまったことに落ち込んでいたところ、吉田さんが毎日のようにお見舞いに来てくれたんです。そしてずっと一緒にいてくれたので、とても救われた。結婚を決めた理由はいくつかありますが、このことはとても大きな理由になりました。

 私の親にしてみれば、吉田さんは再婚だし、ミュージシャンは不安定だし、何より私はまだ若過ぎるからと結婚には大反対でした。事務所にも仕事仲間にも反対されましたが、希林さんだけは違いました。

 希林さんと内田裕也さんは吉田さん行きつけのバー「ペニーレイン」に乗り込み、私とどういうつもりで付き合っているのかと詰め寄ったんです。

 吉田さんが「真剣に付き合っています」と答えたので、希林さんは私の両親の説得に家まで来てくれました。そして芸能界をやめようかどうしようかと悩んでいた私には、こう言ってくれました。

「専業主婦をちゃんとやれたら、人間として何でもできるようになるわよ。報酬もないのに、家族のために尽くせるなんてすごい仕事だよ。美代ちゃん、やってごらんよ」

 若い結婚についてもむしろ賛成していました。

■「結婚は分別がつかないうちにしたほうがいいよ」

「結婚は分別がつかないうちにしたほうがいいよ。今は一度も結婚しない人が増えているでしょう。あれは、年齢と経験を重ねて分別がつき過ぎちゃったからだろうね」

 後に、娘の也哉子ちゃんが19歳の若さで本木雅弘さんと結婚した時も全く反対しなかったそうです。

 裕也さんは私の結婚後も「気に入らないんだよなぁ」とぶつぶつ言っていたようです。家庭を顧みない自分のことを棚に上げて何を言っているんだと思いましたが、裕也さんには裕也さんの言い分があったんでしょう。よくわかりませんが、実はとてもまじめな人ですから。

 結婚後は時々母が手伝いに来てくれました。ピンポーンとインターホンを鳴らして「浅田家政婦協会から参りました」と名乗るんです。希林さんも二世帯住宅の娘の也哉子ちゃんと本木雅弘さん一家の部屋を訪ねる時、インターホンで「内田家政婦協会から参りました」と言ったとか。希林さん、母のセリフをパクりましたね。

 私の結婚は7年ほどでピリオドを打ちました。理由は墓場まで持っていくつもりですが、離婚後、希林さんに褒められたんです。

「美代ちゃんは、元夫の悪口を言わないところがいいよね」

 それは希林さんから学んだんです。希林さんこそ裕也さんが恋をしようが喧嘩をしようが借金をしようが、その後始末を引き受け、決して裕也さんの悪口を言うことはありませんでした。

 希林さんは裕也さんを「私の重し」と言いました。希林さんは仕事にも恵まれ、不動産もたくさん所有し、娘家族とも仲良く、孫もいる。

「一つくらいは重しがないと、人生バランスが取れない。何だか申し訳ないとも思う。すべては手に入らないっていうのが、まっとうな人生じゃない?」

 一方、私の人生と私の芝居に関しては手厳しいことを言われちゃいました。

「あんたって、人知れず苦労しているのにね。それが全然、芝居に出てこないわよね」

 それは、私がなかなかありのままの自分を受け入れることができなかったからかもしれません。私は、老いることが怖かったのかもしれないです。

 希林さんのモットーは、「歳をとることを面白がらなきゃ!」でした。

「若い頃の美しさに固執している人は面白くないし、50歳を過ぎたら50歳を過ぎたなりの、60歳を過ぎたら60歳を過ぎたなりの、何かいい意味での人間の美しさっていうのがあると思う」

 だから、過度なエイジング対策や整形を嫌いました。白髪を染めることもしていませんでした。綺麗な顔や若さを作りこむと、その人なりの個性が消えてしまうからです。

■「眉毛をいじっては絶対だめだよ」と盛んに言っていた理由

 さまざまな人生を演じる役者を生業としないのであれば、各々の価値基準にしたがって、いくらでも顔や体をいじればいい。ただ、役者であろうがなかろうが眉毛はいじってはだめだと盛んに言っていました。

「眉毛というものはね、陰でその人の顔を表すものなんだよ。その人なりの表情を作ってくれるのに、細くしたら、台無しじゃない? みんな同じ顔になっちゃうよ」

 希林さんの教えを守り、思春期にも大人になってからも眉毛をいじらなかった也哉子ちゃんは、ナチュラルに美しい大人の女性になりました。私は若い頃、教えを無視してさんざん眉毛を剃ったり抜いたりしてしまいました。自前の眉毛に戻そうとしたのですが、元の通りには生えてくれません。とても後悔しています。

 也哉子ちゃんといえば、彼女は希林さんの方針で幼い頃からおコメは玄米で育ちました。ところがある日、お友だちの家に遊びに行った際に白米のご飯が出たのです。家に帰った也哉子ちゃんが興奮気味に言ったそうです。

「お母ちゃん、白いご飯ってとってもおいしいね」

 これには希林さんも参ったようで、それからは時々、白米を炊くようになりました。

■『さんまのスーパーからくりTV』で思わぬブレイク

 さて、離婚の少し前から仕事に復帰した私は、92年にドラマで明石家さんまさんと共演したことで思わぬ道が開けました。まもなくバラエティー番組の『さんまのスーパーからくりTV』(TBS)から声がかかり、それから22年間、この番組でさんまさんにいじられ、天然キャラの代表のようになっちゃいました。さんまさんがよくネタにしていますけど、私が「今度の火曜日って何曜日だっけ?」と言ったというのは本当の話なんです。

 希林さんも「新しい時代に乗れたじゃない」と喜んでくれました。トーク番組『さんまのまんま』(フジテレビ)にも、ただ「浅田美代子がお世話になりました」とお礼を言いたいがために出演してくれました。

 また、番組のスタッフに山田洋次監督のお嬢さんがいて、監督が毎週番組をご覧になっていた。それで私を映画『釣りバカ日誌』の西田敏行さんが演じる主人公ハマちゃんの妻みち子に指名してくれたんです。

 残念だったのは、私が復帰した時、『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』の演出・プロデューサーであり、希林さんの朋友であった久世光彦さんが希林さんと絶縁状態にあったこと。希林さんは、久世さん演出で希林さんも出演したドラマの打ち上げの席で、出演していた若手女優と久世さんの不倫を揶揄するスピーチをしたのです。それが原因で久世さんはTBSを退社し、2人の仲は決裂しました。

 希林さんは不実が許せない人でした。どれだけ親交が厚くても、人の道に反することを行った人を認めないし、希林さん自身も人の道というものを守る。私が人生で出会った誰よりも正義感が強く、根っからまっとうな人でした。

 久世さんと希林さんのわだかまりが解消するまでに25年かかりましたが、仲直りした後の2人は前にもまして信頼し合っていました。2005年に希林さんが乳がんの手術を受けた時は、なかなか男性が女性の病室を見舞いに訪れるということはしないと思うのですが、久世さんは頻繁に来ていました。

 久世さんは2回直木賞の候補になったものの受賞はできずに06年、70歳で亡くなりました。訃報に接したときに希林さんがつぶやきました。「直木賞、獲らせてあげたかったね」と。

■「恋愛も結婚もしなくてもいい。でも、つがいでいたほうがいい」

 私が離婚した当時と違い、いまや離婚にもおひとりさまにもネガティブな印象はなくなりました。希林さんは結婚もして子どももいましたが、裕也さんとは結婚して間もない時期から別居したままでしたし、也哉子ちゃんは9歳から留学して19歳で結婚したので、希林さんはほとんどひとりで暮らし、仕事でもマネージャーを置かず、どこに行くにも何をするにもすべてひとりで決めてきました。家族はいても、本質的にはいつも“ひとり”を楽しんで生きていたと思いますね。

 ただし、いろいろな意味で「つがい」がいいと言っていました。

「恋愛も結婚もしたくない人はしなくてもいいのよ。そんなのは自由。でもね、つがいではいたほうがいいとは思うなぁ。人生はひとりで歩むよりも、つがいになって歩んだほうが面白いからね。歳とってからも、一緒にお茶を飲めるような……。いつかそういう人が見つかるといいね」

 私の両親は離婚しました。母は私が結婚し、弟が大学を卒業するのを待って家を出ました。それ以来、私は父とは会っていません。父は家に出入りしていた女性とは身包み?がされるようにして別れ、70歳になる前に独り病院で最期を迎えたそうです。

 母は離婚後、やっと人生を楽しむようになりましたが、68歳で突然、急性リンパ性白血病を発症しました。すぐに抗がん剤治療を始めなければ余命は1カ月だという告知を受けた翌日、うろたえる私を希林さんはいつものように諭してくれました。

「治療する余地があるのなら、それは神様とお母さんが美代ちゃんのためにくれた時間よ。お別れまでの準備ができる時間なんだから」

 その通りだと思いました。それから母は辛い抗がん剤治療にも一切弱音を吐かず、2年間という私が看取る時間をくれました。

 お別れまでの準備ができる時間なんだから──同じ意味の言葉はこの後でまた聞くことになります。希林さん自身が癌になったときのことです。04年のことでした。

「癌は死ぬまでの準備期間があるところがいいよね」

 それから折に触れ、「美代ちゃんが私の人生の語り部になってね」と言われてきましたが、亡くなる少し前には「美代ちゃんが私の人生の語り部なんて、心配だねぇ」と私をからかうように言いました。

 希林さん、それはいちばん私が心配しているんです。でもこうして私なりに楽しかった希林さんとの時間を語って1冊の本にしましたよ。

※ 『週刊文春WOMAN』2021秋号 では、樹木希林さんの一人娘・内田也哉子さんと写真家・石内都さんの対談も掲載。希林さんの死から3年を迎えた也哉子さんが、実母の遺品を撮った『Mother’s』などで知られる石内さんと共に、「亡き母にさよなら、をするとき」をテーマに語り合います。

text:Atsuko Komine ?

(浅田 美代子/週刊文春WOMAN 2021年 秋号)

関連記事(外部サイト)