近藤真彦宅で自殺を図ったことを「なんて愚かな」と悔やみ…なぜ“金屏風会見”は中森明菜を表舞台から遠ざけたのか

近藤真彦宅で自殺を図ったことを「なんて愚かな」と悔やみ…なぜ“金屏風会見”は中森明菜を表舞台から遠ざけたのか

1989年末の金屏風会見での中森明菜(右)と近藤真彦(左) ©文藝春秋

「マッチと結婚すると思っていたのに」中森明菜は警察の調べに近藤には言及せず 自殺未遂後に守りたかった“最後の砦” から続く

 激動の80年代が、終わりを告げようとしていた89年12月、中森明菜の記者会見は急遽決まった。12月31日の大晦日、しかもNHKの紅白歌合戦が放映されている夜10時に設定され、その様子はテレビ朝日が生中継することになった。

 芸能史に残る“金屏風会見”だ。(「文藝春秋」2021年11月号より、全2回の2回目/ #5 から続く)

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■金屏風を用意したのは誰?

 中継を担ったテレビ朝日は当時制作三部長で、音楽班を仕切っていた皇すめらぎ達也が陣頭指揮をとった。皇はテレビ朝日の実力者として知られていたが、今年3月に逝去。この金屏風会見については、生前に「私がメリーと話をして決めた」と語っていた。

 事情を知るテレ朝関係者が明かす。

「大晦日の夜10時の枠は、ジャーナリストの田原総一朗の討論番組が予定されており、編成に話を通して、そこに押し込んだ形でした。もちろんスポンサーもいる訳ですから、中森明菜が出席する謝罪会見である旨は伝えてありました。責任者の皇は、年末年始をハワイで過ごすのが慣例で、『あれこれ詮索されないよう当日はハワイに行く』と言って、実際の作業は現場に委ねていました。会見の前日、担当者は朝方の3時頃まで明菜と一緒にいたと聞いています。明菜が本当に来てくれるのか、それだけが不安だったのです」

 当日、会見場の新高輪プリンスホテルで、報道陣の前に姿を現した明菜は、ロングヘアをバッサリと切り、地味なグレーのスーツ姿だった。

 彼女は「私が仕事をしていく上で、一番信頼していかなくてはならない人たちを信頼できなくなってしまった」と自殺未遂の理由を説明。近藤の自宅で自殺を図ったことについては「今になっても、なんて愚かな、なんてバカなことをしたのか」と後悔を口にした。

「彼女と近藤は、自殺未遂の後、すでに男と女の関係は終わっていました。彼女はすべて納得したうえで会見を開くことを受け入れていました。会見場に金屏風が用意されていたため、婚約会見を開くという甘言に乗せられて彼女が会見に臨んだかのような報道もありましたが、金屏風は事情を知らないホテル側が、記者会見と聞いて用意したに過ぎません」(前出・テレ朝関係者)

 後年、明菜は金屏風会見について聞かれると、「あんなことになるとは思っていなかった」と語っている。それは騙し討ちにあって会見の場に引っ張り出されたという意味ではない。芸能活動再開のきっかけになるはずだった金屏風会見は、結果的に彼女を表舞台から遠ざけ、さらに彼女の復活に期待していた人たちも遠ざけてしまったのだ。

■「7600万円が確かに近藤に支払われていました」

 誤算は近藤側も同じだった。会見当日、メリーは所属タレントの付き添いで、NHKホールの紅白歌合戦の現場にいた。会見とは無関係を装っていたものの、世間の批判は凄まじく、近藤の人気が好転することもなかった。

 それどころか、近藤が明菜から「将来2人が住むマンションの費用」という名目で、多額の金銭を貢いで貰っていたとマスコミは書き立てた。近藤側は「マネージャーがやったこと」と責任転嫁を図り、マスコミもその言い訳を鵜呑みにしたが、それは事実とは大きくかけ離れていた。

 明菜の元側近が明かす。

「明菜から近藤にお金が渡り、それを近藤のマネージャーが持ち逃げし、その後も返済されていないという話でした。振り込み明細を確認すると、7600万円が確かに近藤に支払われていました」

 果たして、その7600万円はどこに消えたのか。

■近藤の元マネージャーが語った

 近藤のマネージャーはその後、ジャニーズ事務所を辞め、しばらく芸能界から姿を消した後、芸能界のドンと呼ばれる大物の運転手となり、芸能プロの代表を務めている。

 その近藤の元マネージャーが重い口を開く。

「私は16歳の時にジャニーズ事務所に入り、田原俊彦、近藤真彦、少年隊などのマネージャーを務めました。20年の区切りで、一旦芸能界を離れようとジャニーズ事務所を辞めたのですが、その後、私がお金を持ち逃げしたという噂を聞きました。真実は一つ、分かってくれている人は分かってくれていると思ったのですが、芸能界に戻った後、その話を持ち出し、『申し訳ないけど、一緒に仕事をやり辛いよ』と露骨に言う人もいて、影響がありました。私はそんなお金は一切知りません。私がジャニーズ事務所を辞めたのは、明菜さんの自殺未遂の後だったので、全部私に被せたのでしょうか。ただ、明菜さんのお金のことをストレートに聞かれたのは今回が初めてです。これまで、マスコミの誰一人として私に聞きに来た人はいませんでした」

■一度敵とみなすと決して評価を変えなかった

 金屏風会見は、当事者である明菜や近藤だけでなく、周囲の人の人生をも狂わせていた。だが、お金の問題は、それとは別だ。

 仮に、明菜本人が、この7600万円を本当に近藤に騙し取られたと思っていたのなら、正当な権利を行使し、返金を請求すればいい。しかし、明菜がそれを求めた形跡はない。彼女を取り巻く人たちが近藤の仕打ちに腹を立て、騒ぎ立てていたに過ぎない。たとえ近藤が不誠実だったとしても、すでにこの問題は彼女のなかでは解決していたのだろう。

 明菜は一連の騒動を経て、前にも増して、人を敵と味方で判断するようになった。彼女は一度敵とみなすと、それが間違った判断だったとしても、決して評価を変えなかった。

 90年に入り、彼女は、スローペースながら5月からニューヨークでレコーディングに入り、7月には新曲を発表。8月にはフランスのニースからの生中継で「夜のヒットスタジオSUPER」に出演し、自殺未遂以来、初めて歌番組に生出演を果たした。

 彼女の新事務所であるコレクションは、何とか船出したものの、社長は明菜が自殺未遂した時の入院費の請求書を手に、研音と押し付け合いを始めるなど、いくつもの難題に頭を抱えていた。そのうち、明菜本人ともなかなか連絡が取れない状態が続き、早くも迷走を始めた。

 当時の彼女にとって、唯一頼りになる存在は、デビュー以来の所属レコード会社であるワーナーだった。

 だが、この頃、明菜はワーナー側の長年の“裏切り”を知り、築き上げた絆も風前の灯になっていた。

■明菜を裏切る形で金儲けに走っていたスタッフの存在

 それは、彼女がまだ10代の頃から、ワーナー内部で根強く囁かれていた噂だった。

 デビュー2年目に彼女が出した4枚目のシングル「1/2の神話」。そのB面に「温り」という曲がある。ファンの間では隠れた名曲として人気の高い、ボサノヴァ調の作品だ。

 作詞、作曲を担当したのは「井上あづさ」なる人物で、他の明菜作品にも、他のアーチストにも楽曲を提供した痕跡はなく、長らく、その正体は謎だった。

「実は、この曲を書いたのは、明菜が信頼を寄せていたワーナーのスタッフの一人です。女性名ですが、実際には男性で、明菜とはデビューから3年ほど仕事を共にしていました。彼は外部の音楽出版会社と連携し、版権の管理を任せており、ワーナーの上層部は、その報告を受けていませんでした」(ワーナー元幹部)

 83年2月、77万枚を売り上げ、明菜最大のヒットとなった「セカンド・ラブ」に続いて発売された「1/2の神話」は、TBSの「ザ・ベストテン」で7週連続1位を記録。57万枚を超える売り上げを達成している。

 当時、シングルレコードは1枚700円。A面の曲がヒットすれば、当然B面も同じだけ売れる。単純に計算すれば、B面の印税が180円を超えれば、1億円を超える金を生むことになる。

「当時の編成会議は、A面に何を持って来るかが主眼で、スタッフからは、『このB面の曲はタッチが軽いですが、それでA面を光らせたい』といった提案が多く、上層部もあまりB面まで細かくチェックしていなかった。ただ、『セカンド・ラブ』のヒットで、次のシングルも当然50万枚を超えるようなヒット曲になることは容易に想像ができた。そこに上手く滑り込ませたのでしょう。彼はこの一件だけではなく、他にも明菜にペンネームで曲を提供し印税を手にしていた。ペンネームで楽曲を作っても、歌手本人や会社に公にし、了解を得ていれば話は別ですが、誰も知らされていない。これは犯罪的な行為であり、この業界ではご法度です」(同前)

 3年もの間、信頼していたスタッフが、実は明菜を裏切る形で金儲けに走っていた事実は、衝撃だ。

 名指しされた元ワーナーのスタッフに聞いた。

「井上あづさ? 昔のことで私も記憶が定かではないですが、どうだったかな。ただ、私がペンネームを何個か使い、曲を書いたことは間違いない。明菜に『私の曲だよ』と言ったことはないです。あまりそういうことを尋ねる子ではなかったし、私は彼女とは仕事を通じて信頼関係がありましたから。他のレコード会社の人に聞くと、ペンネームで楽曲を提供した経験がある人は数多くいましたし、この業界では珍しいことではありません。後ろめたさを感じている人はいなかった。金銭的にどうのということではなく、とにかく当時はメチャクチャ忙しかった。この件で、私がワーナーの上層部に咎められたこともないし、職権乱用みたいな話でもないです」

 その語り口は至って冷静で、罪の意識は感じられなかった。しかし、10代の彼女を“金のなる木”とみなし、表と裏の顔を使い分けて接することが、繊細な彼女をどれだけ傷つけるのか。そこに思いを馳せられないのなら、信頼関係などという言葉を軽々に使うべきではないだろう。

■誰も明菜を止められない

 明菜にとって80年代の数々のヒット曲を共に世に送り出したパートナーのワーナーもまた、彼女とは決別するしかなかった。

 91年3月、彼女がワーナー時代に最後にリリースしたシングル「二人静」は、松田聖子の楽曲を数多く作詞した松本隆が初めて明菜に書いた曲として知られる。しかし、この曲はワーナーではなく、ライバル社のビクターに所属するディレクターが制作を担当している。この時、すでにワーナーは明菜の信頼を完全に失っていたのだ。

 そして同じ頃、彼女の事務所であるコレクションもまた、終焉の時を迎えていた。

 ジャニーズ事務所のメリーの意を受け、小杉が抜擢した社長は、91年6月に辞任。明菜のマネジメントは宙に浮き、誰も彼女をコントロールできない状態に陥った。

 コレクションの元社長は、明菜の新たなビジネス展開をビクターの関係者と模索し始めていた。

 彼らは、ビクターが90年に合弁会社として設立したMCAビクターに明菜を移籍させることを画策。すでに新しい事務所も用意していた。91年9月に設立された「コンティニュー」という会社で、代表にはコレクションの元社長の友人であるテレビ局関係者が就任していた。

 そこに実務を担う人材として招聘されたのが、明菜と面識のあったビクターの元社員、栃内克彦だった。コレクションの元社長は栃内を呼び出し、彼にディスカウントチケットを差し出して、こう告げた。

「栃内さん、ニューヨークにいる明菜のところに行って来て欲しい」

■「その実印もサインも私のじゃない」

 栃内が現地を訪れると、ようやく掴まえた明菜は思いのほか元気だった。彼女は「ところで、今回は何の用?」と尋ね、栃内が「MCAビクターに移籍して第一弾の打ち合わせに来たんだ」と打ち明けると、彼女は驚いた表情をみせた。

「何それ? そんな話聞いてないよ」

 栃内は一旦帰国し、弁護士事務所で契約書の写しを受け取り、再びニューヨークに飛んだ。栃内が語る。

「彼女に契約書を見せると、『その実印もサインも私のじゃない』と。何者かによって偽装されたというのです。私は返す言葉がなく、絶望的な気持ちになりました」

 2人は日本に帰国し、契約書を整えたあと、栃内はコンティニューの後任社長に正式に就任する。業界の重鎮たちから「明菜は芸能界の宝だから、助けてやってくれ」と言われたことも、社長を引き受けた理由の一つだった。

 ところが、いざ蓋を開けると、会社の口座はほぼ空っぽの状態で、ビクター側から振り込まれたはずの約5000万円もどこかに消えていた。

「冬の時代」の始まりだった。

(文中敬称略、以下次号)

(西ア 伸彦/文藝春秋 2021年11月号)

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