「もっと小さかったらなあー」推定身長209cm、最高体重145kg…ジャイアント馬場は自身の“巨体”への呪いをどう乗り越えたのか

「もっと小さかったらなあー」推定身長209cm、最高体重145kg…ジャイアント馬場は自身の“巨体”への呪いをどう乗り越えたのか

©?文藝春秋

 推定身長209cm、ピーク体重145kg。恵まれた身体で華々しい活躍を見せたプロレスラー、ジャイアント馬場氏は、力道山逝去後のプロレス界を新たなスターとして牽引し続けた。

 そんな「プロレス界のレジェンド」を誰よりも知る男が、長年プロレス評論家として活躍する門馬忠雄氏だ。ここでは同氏の新刊『 雲上の巨人 ジャイアント馬場 』(文藝春秋)の一部を抜粋。35年ほど続いた交流における初めての出会い、そしてジャイアント馬場プロレスラーデビュー前の秘話を紹介する。(全2回の1回目/ 後編を読む )

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■「ぶったまげた」ジャイアント馬場、身体のサイズ

 初めて見たジャイアント馬場の身体のサイズには、田舎の言葉で「ぶったまげた」の声しか出なかった。

 東北巡業での出会いから、この大きさへの印象が会う度に増幅する。石巻の会場では、緊張のあまり、馬場の肉体を上から下まで観察できなかった。それにしても16文といわれた足は、見れば見るほどデカい。

 脚を組んで、投げ出された足を見て、「ウォーッ」という声しか出ない。

 馬場さんのレスリング・シューズは、他のレスラーと違って、踵の部分だけボコッと飛び出しているのが特徴だ。

■「出ました、ジャイアント馬場の必殺16文キック」

 馬場さんの足のサイズは34センチ、16文は約38.4センチ、16インチが約40センチ。16文の由来は、アメリカでの武者修行時代、ロサンゼルスで購入した靴に(16)のラベルがついていたことから始まる。

 アメリカ初遠征で開発した16文キックは、野球の投手のワインドアップからヒントを受け、馬場さんならではの必殺技となった。「あれは偶然出た技だった」という。

 16文キックと命名したのは報知新聞の故須藤英昭記者だ。1964年春、2度目のアメリカ遠征から帰国し、日本で大暴れし出した頃だ。活字メディアが「16文キック」という言葉を使いはじめ、日本テレビの実況中継で清水一郎アナウンサー、バトンを受けた徳光和夫アナウンサーが「出ました、ジャイアント馬場の必殺16文キック」と盛んに連発するようになった。

■ド迫力の大腿部

 馬場さんが脚を組んだときの大腿部のぶっとさを見ると、これが人間の脚か、と思わず後ずさりしたくなるほどのド迫力だ。

 それもトレーニング後、あるいは試合後に見る両脚の大腿部は、太い幹と言うより生き物のようだ。太い血管が浮きあがり、蛇がトグロを巻いて、息づいている感じなのだ。したたり落ちる汗が、全身の筋肉の躍動感を際立たせてくれる。

 みなさんは、身近でプロ競輪選手の脚を見たことがあるだろうか。大腿部とふくらはぎの盛り上がりと張りは、尋常ではない。鍛え抜かれた筋肉はあくまで太い。

 しかし、ジャイアント馬場の大腿部と競輪選手の脚を比較するのは少々無理がある。209センチという肉体の差に由来するスケールの違いは歴然だ。

 私は長い付き合いのなかで痛恨のミスを犯している。ジャイアント馬場を正確に身体計測したデータを持っていないことだ。

 はっきりしているのは絶頂期の最高体重が145キロということだけだ。身長2メートル9センチは、あくまで推定である。

■規格外のデッカい兄貴

 プロ野球で怪我をし、左肘の手術をしていることから、プロレスラーとしては腕が細い。ある時、両腕の太さを測りたい、とお願いしたら、「余計な企てするなよ!」と極端にイヤな顔をされたことがあった。

 そんな経緯があって、馬場さんの両腕、両脚、大腿部などのサイズを測るチャンスを逸したのだ。

 ジャイアント馬場の最強の敵であった“生傷男”ディック・ザ・ブルーザーの上腕部の太さを測ったことはある。46センチだったから、若い女性のウェスト・サイズぐらいだろうか。

 馬場さんの大腿部の周囲を計測した記録を見聞した記憶はない。関係者は「88センチぐらいはあったんじゃないか」と話していたが、いずれにしても85センチ以上はあっただろう。

 なぜ、ジャイアント馬場の身体の大きさ、大腿の凄さにこだわるかというと、こういう規格外のプロレスラーがいたことを若い世代に伝えたいからだ。

 昭和生まれ、平成生まれ、世代によって、ジャイアント馬場のイメージは違う。晩年の「アポーウ」のキャラではなく、絶頂期の“東洋の巨人”の凄さとありのままの姿を語るのが私の役目だろうと思う。

■越後のリアカーで鍛えた基礎体力と「春を待つ」ぶれない精神力

 ジャイアント馬場が誇った無限のスタミナと卓越した基礎体力を語るうえで欠かせないのは、生まれ育った故郷、新潟県三条市における生活環境についてである。

 青果商を営む父・一雄、母・ミツとの間に生まれた二男二女の末っ子だ。兄は太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島で戦死。父親が病弱だったために、馬場は小学5年生頃から母親を助け、家業を手伝う必要があった。

 そして体が急に大きくなったのは、このころからだ。

 馬場は早朝に起こされると、母と姉が仕入れた青果を山積みにしたリアカーを引いた。十数キロも離れた見附や加茂には、自転車にリアカーを結びつけて運んだのである。

 冬になると雪が積もるから、リアカーがソリに替わる。さらに大幕張の出店作りを手伝ってからすっ飛んで家に帰って、すぐ学校に通ったというから凄い。

 三条実業高校(現在の三条商業高)を2年で中退し、読売巨人軍に投手として入団するまで約7年間、この“大人の仕事”を続けたと言うから、半端ではない。遊びたい盛りなのに、家業に励んだ忍耐力と頑張りには敬服するしかない。

「あのころは、勉強なんかできるわけないよ。家に帰ったら、カバンをブン投げ、バタンキューだよ」

 ふるさとを語る時の馬場さんの目は優しい。幅広の両肩を揺すって含羞の笑みなのだ。少年時代の苦労がリアルに伝わってくる表情である。

 育った生活環境がゆるぎない基礎体力を作り、強靭な脚力を生み、無類のスタミナをつけた。

 正平少年は、普通の中高生にないキャリアを積んだことによって、我慢を覚え、向上心というエネルギーに変えた。

 頑固さと我慢強さは、雪国・越後の風土にあるのだろう。これは気質にも通じる。「春を待つ」ぶれない精神力は、あらゆるピンチ、障害を乗り越える原動力になっていた。

■多摩川グラウンドでの猛練習

 基礎体力をつける第二段階で欠かせぬのは、読売巨人軍における多摩川のグラウンドでの猛練習だ。

「馬場はグラウンドでよう走りよったよ」と若き日の馬場正平投手のことを私に語ってくれたのが“猛牛”の異名で活躍した二塁手・千葉茂。巨人軍の二軍監督も務めた。

 千葉さんはほかならぬ東スポ専属の野球評論家で、馬場と、のちに妻となる伊藤元子さんのキューピット役を果たした重要な人物だ。

 野球班は第一運動部、私の属する体技班は第二運動部と呼ばれた。千葉さんの座るデスクと私の席は背中合わせである。

「馬場の口癖は『腹減った、腹減った』だよ。多摩川のグラウンドでくる日もくる日もよう走っておったよ。汗まみれで、腹減るわけだよ(笑)。あのころの経験が馬場の財産だね」

 ユーモアたっぷり、ボソボソと話す千葉さんの語り口には説得力がある。多摩川のグラウンドで懸命に走っていたことがゼニの稼げる“黄金の足”を作りあげた。

■5年間を過ごした読売巨人軍

 馬場の読売巨人軍在籍は5年間。一軍公式戦登板は1957年の3試合のみ。計7イニング投げて防御率1.29、0勝1敗の記録が残っている。

 主な球種はストレートとシュート。3年間にわたって二軍の最優秀投手賞を獲得している。57年には13勝2敗の成績をあげ、決してヘボ・ピッチャーではなかった。背番号「59」のユニフォームには、剛球投手のイメージが重なって愛着があったらしい。

 馬場は59年のオフ、巨人軍から解雇の通告を受け退団。60年、大洋ホエールズの明石キャンプにテスト生として参加している時に、風呂場で転倒し、不運にも左ヒジの筋を切ってプロ野球生活を断念せざるをえなかった。

 しかし、プロ野球選手としては、絶望と挫折を味わったが、巨人軍における5年間にわたる二軍生活は決して無駄ではなかった。

 馬場さんが還暦を迎えた時、「Number」442号(98年4月23日号)の「ワン・ショット・インタビュー」に答えて、多摩川グラウンドがなくなることに触れている。

〈 あの多摩川で走ってたということが、やっぱり、今日ある一番のもとだと思うし。

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 走るということを知ってるから、自分の体をなんとか動かせるように練習できる。これが走るということをやっていなかったら、例えば相撲取りで大きくなってレスラーになったとしたら、走る方法ということも知らないじゃないですか。ただ、がむしゃらに走ればいいというもんでもないから。(中略)あの多摩川のグラウンドっちゅうのは、今の自分がある何割かは占めてると思うね〉

 亡くなる直前の馬場さんは、さまざまなメディアに対し「ここまでプロレスをやれたのは、走るということを知っていたからだ。もし、俺がその前に相撲取りだったら、ここまでやっていられない」と決めゼリフのように答えている。

■大きな体を呪い『もっと小さかったらなあー』と思っていた

 1998年1月23日、東京・後楽園ホールの「還暦記念試合」について、馬場さんは自著『王道十六文』(日本図書センター)でこう述べている。

〈 オレがこの年まで現役を続けていられるのは、この大きな体のお陰だと思っています。高校に入学して足に合うスパイクが無く野球部に入部できなかった時や、巨人軍をクビになって、満員電車に乗って力道山道場に通った時は、大きな体を呪い、『もっと小さかったらなあー』と思ったものですが、プロレスラーとしてデビューしてからは、体の大きいことが物凄い有利だということがわかり、結局はこの体で稼いだんですから、今では感謝しています。巨体と新人時代にオヤジさん(力道山)とフレッド・アトキンスに厳しく鍛えられたのがオレの財産なんですね〉

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《日プロ崩壊への序章》「会社が決めたことだ」ジャイアント馬場が迫られた“苦渋の選択”…最古参プロレスジャーナリストがみた“独立決意”の瞬間 へ続く

(門馬 忠雄/ノンフィクション出版)

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