「それにしても残酷ないじめ方だった(笑)」三國連太郎が明かした…高倉健が受けていた激しすぎる“しごき”の実態

「それにしても残酷ないじめ方だった(笑)」三國連太郎が明かした…高倉健が受けていた激しすぎる“しごき”の実態

©文藝春秋

眠っていたら「ドッ、ドッ、ドッ」って地響きが聞こえてきて…高倉健が忘れられない壮絶すぎる“撮影現場”とは から続く

 義理がたく、人情に厚く、筋を通し、礼儀正しい……。そんなイメージで日本中から愛された映画俳優、高倉健さんがこの世を去って7年が経った。プライベートを明かさないことでも知られる名優が、生前、家族にだけ見せていた素顔とは。

 ここでは、高倉健さんの最後を看取った小田貴月さんの著書『 高倉健、その愛。 』(文春文庫)の一部を抜粋。忘れられない映画人との秘話を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■ぶん殴ってやめてやろうと思った ―内田吐夢監督の“愛のしごき”

「監督をぶん殴ってやめてやろうと思ったんだよ(笑)。今日こそ、今日こそって、毎日思ってた。この時はきつかった。どんなにやってもOKでないんだ。とにかく、僕だけしごかれたね。『君の手には、アイヌの哀しみがない』って言われて、何やっても大声で怒鳴られて、とにかく追い込まれた。内田監督との最初の映画で、これがいつものやり方だなんてわからないからね。毎日が嫌で嫌で仕方なかった……・」

 撮影時のダメ出しばかりが思い出になってしまった作品が、内田吐夢監督の『森と湖のまつり』(1958年)でした。原作は武田泰淳、北海道の大自然を舞台に、アイヌと和人の民族問題を取り上げた物語です。

 デビュー3年目に公開されたこの作品で、高倉は、滅びゆくアイヌ民族の運命を背負った青年・風森一太郎役を演じました。アイヌの心の襞をどう表現するかが問われる、これまで取り組んだことのない難しい役でした。

 この時初めて出逢ったのが、10年間の満州生活から戻り、東映と専属契約を結んだ内田吐夢監督。内田監督の“しごき”は相当なものだったようで、共演の三國連太郎さんも、次のように語っています。

「健さんはそれまでプログラムピクチャーが主流でしたでしょ。ああいう形で大監督の映画に出るのは初めてですから、固くもなっていたんでしょう。それにしても残酷ないじめ方だった(笑)。(中略)健さんは、いい印象はないんじゃないかなぁ。本当にいじめられっぱなし(笑)。(中略)つまり、芝居のつかみ方が違う、というんじゃないのかなぁ。その点では、健さんも触れるものがあったんでしょう」(『吐夢がゆく』映画監督内田吐夢17回忌追悼記念出版)

■〈僕にとって大きな出会いとなった監督です〉

 高倉は、その三國さんについて、

「連ちゃんの台本、見せてもらったことがあるんだけど、もとの活字が見えないくらい、自分の役の背景をたくさん書き込んであったね。僕はそんなことできないから、とにかく身体でぶつかっていくしかなかったんだよ」

 と思い出を話してくれました。

 当時60歳だった内田監督は、大河内傳次郎主演時代劇『仇討選手』(1931年)、『人生劇場』(1936年)、『大菩薩峠』(1957年)など、数々の骨太の作品を残しています。なかでも『飢餓海峡』(1965年)は、毎日映画コンクール監督賞を受賞した不朽の名作で、高倉はこの作品の終盤に、舞鶴署警部補として登場します。

 内田監督は1970(昭和45)年8月に、72歳で帰らぬ人となりました。『吐夢がゆく』に、寄稿した高倉の言葉です。

〈「お前の手は、アイヌの青年の哀しみを、出していないじゃないかッ」

 と監督に怒鳴られました。そして“本当にダメな奴だなあ”という調子で、スタッフ全員に聞こえるような大きな舌打ちをされるんです。“衣裳に悲憤を”さえよく理解できないのに、“手に哀しみを”と言われても判るはずがありません。何度も撮りなおしが続きました。

 後になって考えれば、そのとき監督は僕の演技がそれ以上出来ないとみて、本当に僕を怒らせようとしたんです。実際、カッとなって“もうやめて帰ろう”と思う寸前でした。“手の演技”を教えられたのもこの時です。手の表情一つで、女性を口説くこともできるとか……。

(中略)

 仕事を離れたときの監督はとても優しく、いろいろな話をしてくれました。

「ゴッホにマルクス、それに中国に関するあらゆる本を読みなさい。中国人は偉大だよ」

 と言われたのをよく覚えています。

 いま僕が俳優を続けていられるのも、当時、内田吐夢監督から身体で覚えさせられたものが、役に立っているからだと信じています。

 それほど僕にとって大きな出会いとなった監督です〉

 高倉を徹底的にしごき抜いた、忘れようにも忘れられない監督でした。

■重たい雪で、息ができなかった ―転機となった『網走番外地』

「『(網走)番外地』の1本目のとき、北海道ロケで温泉宿に泊まってた。ある朝、(石井輝男)監督が現場で見当たらなくて、部屋にいるらしいっていうんで、僕が迎えに行ったことがあったんだ。まだ寝てて、よくみたら布団にうっすら雪が積もってるんだよ。部屋の窓ガラスが割れてて、そこから雪が吹き込んでるの。そんなのものともせずに寝続けてる姿見たら、切ないなんてもんじゃないんだよ……。いくら予算を削るったって、監督が窓ガラス割れてる宿に泊めさせられてるなんてね。カラーの予定がモノクロになるし。

 この映画の時はとにかくがむしゃらだった。僕が今までやったことがない役を、監督とやらせてもらえるって、頑張れたんだね。それがたまたまヒットした。

 歌は、確か3人が同じ歌をレコーディングして、嫌々歌わせられた僕のが、一番売れた。やってみないと、ほんとに分からないんだよ」

『網走番外地』(1965年)は、2本立ての添え物として公開されながら大ヒットし、高倉の代表作の一つとなりました。34歳の時でした。

『網走番外地』は、1959(昭和34)年に日活で一度映画化されています。リメイクを打診された石井監督は、雪の北海道を舞台に、日本版『手錠のまゝの脱獄』(1958年、スタンリー・クレイマー監督)を作りたいと以前から構想を練っていて、自らシナリオを仕上げました。しかし、主役が脱獄犯で、ヒロインも登場しないのでは客をよべないと、予算は大幅に削られます。せめてカラー作品に、と高倉が直談判するも願いは叶わず、石井監督との9作目は、逆境の中でのクランクインとなったのです。

 主題歌の「網走番外地」は、網走刑務所の受刑者たちが歌い継いでいた歌詞を元に作られたものです。そのため日本民間放送連盟により、長く要注意歌謡曲(放送禁止歌)に指定された(1983年廃止)ことも、話題を集めました。

■「だからみんな健チャン好きになっちゃう」

 石井輝男監督は、1924(大正13)年東京生まれ。新東宝創立時に助監督として入社しますが、1961(昭和36)年、新東宝倒産を機にニュー東映東京に移った監督1作目が、高倉主演の『花と嵐とギャング』でした。

「『番外地』の馬に引きずられるシーンで、最初人形使ったんだけど、軽すぎてポンポン飛び上がるから、人形ってすぐにわかっちゃう。だから、『監督、僕がやります』って。あんなこと言うんじゃなかったって後悔したけどね。

 画面で見てるとわかりにくいんだけど、重たい雪で鼻も口も塞ふさがれて息ができないの。走ってる馬に、途中でスピードを調節しろなんて、無理だからね。あれはよく気絶しなかったなって思う。二度とやるもんじゃないって、勉強になった(笑)」

 高倉が石井監督と組ませて頂いた作品は20を数えました。

 作品のシリーズ化に当たっては、石井監督が高倉の印象を語っています。「本番中に、カメラ越しに急に注文付け加えても、パッとその通りやってくれますし、大人なんですよ。子供っぽい役者だと、このセリフはどうの、必然性がどうの、なんてすぐいい始めますからね。それから健チャン、専用の椅子なんか持ってない。大抵、立って見てますね。そういうのが好きなんですョ。だからみんな健チャン好きになっちゃう。ボクだって、そうでなけりゃ何本も組んでやりませんョ」(「バラエティ」1980年3月号)

 デビューした年から、年間の出演数は少なくても8作品、多いときで13作を数えました。途切れることなく映画を撮り続けることに変わりありませんでしたが、『日本?客伝』11作、『網走番外地』18作(うち『新網走番外地』8作)、『昭和残?伝』9作など3つのシリーズ化が始まりました。

 映画俳優・高倉にとっての大きな転機の一つが、石井輝男監督との出会いでした。

 東映を離れた後、ご一緒する機会のないまま、石井監督は2005(平成17)年8月12日逝去。享年81。〈安らかに 石井輝男 高倉健〉

 高倉直筆の文字が、北海道網走市内の潮見墓園の墓石に刻まれています。

■勝ちゃんは神経が細やか。豪快に振る舞ってるだけ―夢の共演

「勝(新太郎)ちゃんは、ものすごく神経が細やか。豪快に振る舞ってるだけ。いつもいつも映画のこと、映像のことを考えてて、どうしても現場で口が多くなってね。監督(斎藤耕1)のほかに、もう1人監督がいるみたいになっちゃった。スタッフが混乱してた」

『無宿』(1974年)は、勝新太郎さんが1967(昭和402)年に設立した勝プロダクションが製作し、東宝で配給されました。

 1970年代前半は、『ゴッドファーザー』、『ポセイドン・アドベンチャー』など、ハリウッドの話題作が次々に公開され、邦画は苦戦を強いられていました。危機感を抱いた映画人が打開策を模索し続けるなか、勝プロダクションが、東映所属の高倉との共演を熱望したことで、事態は動いたのです。

“スターを貸さない、借りない、引き抜かない”という五社協定が70年代前半に自然消滅したあとも、各社の看板俳優が他社の作品に自由に出演できる状況ではなかったようです。

 勝さんが東映作品『海軍横須賀刑務所』(1973年)に出演することで、暗黙の縛りを乗り越え、高倉が他社への出演を初めて叶えることができたのが、『無宿』でした。

 刑務所を出たばかりの2人(勝新太郎・高倉健)が、足抜けさせた女郎(梶芽衣子)とともに、海底に眠るバルチック艦隊の秘宝を探す物語です。

「海の中に宝探しにいく話だから、潜る恰好をするんだけど、これ(潜水服)はほんとに大丈夫かっていうものだった。1人じゃどうにも着られないし、宇宙飛行士みたいだろ?(笑)

 頭から被る球体にホースがつなげてあって、船の上から酸素が送られるようになってるんだけど、ダメだったら呼吸できないわけだからね。バックアップ態勢なんてないから、潜水服の撮影のときが一番不安だった。映像は抜群にきれいだけどね」

 高倉が、同い年の勝新太郎さんと共演できたのは、この一作のみでした。

(小田 貴月/文春文庫)

関連記事(外部サイト)