「そんなに需要があると思ってない」DJ赤坂泰彦61歳が、千鳥・大悟の「今のテレビには赤坂さんが足りない」発言に“伝えたいこと”

「そんなに需要があると思ってない」DJ赤坂泰彦61歳が、千鳥・大悟の「今のテレビには赤坂さんが足りない」発言に“伝えたいこと”

赤坂泰彦さん

SPEEDの“プロ意識”「大人たち以上に失敗は許されない」、安室奈美恵は…DJ赤坂泰彦61歳が目撃した“とんでもない番組”『夜もヒッパレ』の舞台裏 から続く

 一昨年に60歳を迎えたというDJの赤坂泰彦さん(61)。「今のテレビには赤坂さんが足りない」と千鳥の大悟さんが『千鳥vsかまいたち』で訴えたことが話題を呼びましたが、赤坂さん自身は「僕も見ました。『見た見た』って、すごい数のLINEが来ましたよ」と軽やかに話します。赤坂さんの“原点”といえる伝説のラジオDJの存在と、その人物との奇跡的な対面がのちの人生に与えた影響について、最後に伺いました。(全3回の3回目/ #1 、 #2 から続く)

◆ ◆ ◆

■どちらかというとテレビよりもラジオでした

――赤坂さんは1959年に生まれ、一昨年には還暦を迎えられました。世代的にみても、テレビっ子だったんでしょうか。

赤坂 『鉄人28号』(フジテレビ、63〜66年)や『鉄腕アトム』(フジテレビ、63〜66年)とか、そういうアニメは普通に見ていたような気がします。あと覚えているのが、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ、61〜72年)のような音楽バラエティと、やっぱりドリフの『8時だョ!全員集合』(TBS、69〜85年)ですね。

 テレビを見せてくれない家庭ではなかったんですけど、どちらかというとテレビよりもラジオでした。家では、朝と夕方には台所でラジオをつけていたんです。登校する時間になると流れるラジオ番組を聞くと「もう学校に行かなきゃ」とか、夕方になったら「そろそろご飯かな」とかね。

――ラジオが生活のタイマーになって、体に刻み込まれていたといいますか。

赤坂 小学校6年くらいですかね、父が手の平サイズくらいのポータブルラジオを渡してくれたんですよ。そこから本格的にラジオを聴きました。いまにして思えば、スマホを手に入れたような興奮がありましたね。自分と社会がつながれるツールみたいな。

 1分でも長く起きていれば、1曲でも多く聞けるなんて思うくらいに夢中でした。「ファーストキスがどうのこうの」なんて話が出たら、ウブだった当時の僕は「ファーストキスって言ったよ!」とドキドキして、そこから映画の『小さな恋のメロディ』(71年)の話につながって、「それではビー・ジーズによるテーマ曲『メロディ・フェア』をかけましょう」と曲も知るという。点と点がつながるワクワク感は、テレビと違うなと思っていました。

■父はタンカーの通信士、祖父はアマチュアカメラマン

――お父様はタンカーの通信士をされていて、航海から家に帰ってくると“外国の匂い”がしたそうですね。お父様はかなり洗練されていた方だったのではないでしょうか。

赤坂 真面目一本槍で、トッポイ親父ではなかったですけどね。でも、家にあった地球儀で「この国に行った」「ブラジル航路って、ここを進むんだ」と話してくれたり、ハーシーズのチョコレートやオレンジを買ってきてくれたりしましたね。久しぶりに親父が家へ帰ってくると、まずシェービングクリームの匂いがするんです。僕が学校から戻ってきて、スゥーッとする匂いがすると「あ、帰ってきたんだな」って。

■「赤坂君のお父さんって、外国人なの?」

赤坂 団地に住んでいたものだから、親父が帰ってくるときは近所の子供が10人くらい集まってくるんですよ。行くところも、やることもないから(笑)。ボストンバッグを2個抱えた、日に焼けてシュッとした親父がタクシーから降りてくると「赤坂君のお父さんって、外国人なの?」なんて訊かれてね。まんざらでもないので「あ、わかっちゃった?」と答えてましたけど。

――お祖父様も写真家だったそうですし、なにかしらトガったものを持つ家系だったのでしょうか。

赤坂 祖父がアマチュアの写真家でした。「After Haul」という作品がいまもニューヨーク近代美術館(MoMA)に永久保存されていることは、僕の誇りです。

 祖父さんも親父も、聞かせてくれる話は面白かったですね。祖父さんだったら、スキーをやっていたらスピードが上がって止まらなくなって、山小屋を飛び越えるほどジャンプしただとか、親父だったらニューヨークのマンハッタンはこんな街なんだとか、「七色の海って知ってるか?」とか。子供心を掴んで離さない話をするんですよ。

 特に祖父さんの話は、受け売りのような形で団地の子たちに話すとウケて。ジャングルジムの上に4〜5人で登っては、いろいろ話していたんですけどストックがなくなっちゃって。「泰彦ちゃん、なんか他の話はないの?」「嘘でもいいから、なんかお話してよ」って言われた時、子供心に「ああ、脚光を浴びてるな」と思った。別に話上手ではなかったんですけど、自分に得意分野ができたんだ、面白い話を面白く聞かせると注目されるんだってハッとしましたね。

――幼少時、ラジオ番組を通じて船上のお父様にメッセージを届けたというのは、後にラジオの世界で活躍される赤坂さんならではのエピソードだなと感じます。

赤坂 ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の特別企画だったかな。母親が応募していたのか、細かい経緯がわからないんですけど、僕が出演できることになったんですよ。ラジオカーの後部座席で録音して、それを短波で流して、親父が船の上で受信するという。ラジオカーに乗る経験も、自分の声が船上に届いてしまうってことにも興奮しましたね。

 局のおじさんにマイクを向けられて「よーい、スタート」と録音が始まったけど、「お父さん、こんにちは。赤坂泰彦です」って電報を読み上げてるみたいになっちゃって録り直しました(笑)。その放送を聞いた覚えもありますけど、「元気で帰ってきてください」くらいしか言えてなかったと思います。

■東京JAPにつながる“音楽遍歴”

――音楽も子供の頃からお好きだったのですか?

赤坂 小学生の頃から、ラジオから流れてくるビート音楽が好きだったんですよ。それで中1の時にエルヴィス・プレスリーがハワイでやった衛生生中継のコンサートをテレビで見て、もう興奮しちゃって。その放送の音声をオープンリールのレコーダーで録っているんだけど、後で聞いたら僕の「すげえ! すげえ!」と騒いでる声のほうが大きく入っちゃっていて。

 そのライブ盤がすぐにリリースされて、カセットテープを買って聴いたんですよ。改めて聴いたら、ロックだけじゃなくて、カンツォーネのような曲もあるし、ブルースもあるし、いろんなジャンルの曲を歌っていて。エルヴィスにやられたのはもちろん、このアルバムのおかげでどんなジャンルにも拒絶反応が起きないようになったんですよ。そして、そこへキャロルが出てきたと。

 エルヴィスよりもシンプルでストレートな3分間のロック。「3分でお前を天国まで連れていく」みたいなね。それでキャロルのコピー・バンドをやりたくなったんですよ。そこからずっとバンドを続けて、東京JAPにつながっていったという。

――さらに、ジョージ・ルーカスが撮った映画『アメリカン・グラフィティ』(73年)にも出会ってしまうと。

赤坂 60年代の曲も多かったけど、キャロルのカバーで知ったチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』とか僕が夢中になった曲がひっきりなしに流れていく。さらにディスクジョッキーがいて、リーゼントの少年もアイビーの少年もいる。「おまえがこれまで興奮してきたものをまとめてやったぜ」って感じで、僕にとってはまさしく稲妻級の出会いでしたね。

■伝説のDJ、ウルフマン・ジャックを追いかけてアメリカで共演

――『アメリカン・グラフィティ』といえば、劇中に登場するウルフマン・ジャックですよね。赤坂さんがラジオの世界を目指すきっかけとなった、伝説的なディスクジョッキーです。

赤坂 「まとめているのは、この人なんだ!」と思いましたね。いろんな曲や車といったアメリカのカルチャーを、この人がラジオを通してつないでいるんだなって。そこから「俺たちの味方だ、この人は」とも確信しました。この人のことは信用できる。この人が紹介してくれた曲は本物なんだって。

――そのウルフマン・ジャックと『赤坂泰彦の東京・ニューヨーク25時間スペシャル』(95年4月25〜26日放送)というTOKYO FM の開局25周年記念番組で、対面を果たされていますよね。当時、彼は本国アメリカではどのような存在だったのですか?

赤坂 伝説のディスクジョッキーとして君臨していましたね。『アメリカン・グラフィティ』以降も、『エド・サリヴァン・ショー』のようなイブニングショーを持っていたし、レコードも出していたし、役者として映画にも出ていますから。

 プラネット・ハリウッドというシルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーたちが出資したレストランがあって、僕がお会いした当時はそこでDJショーみたいなものをやっていました。

――この番組の制作費は赤坂さんが工面されたそうですが。

赤坂 さすがに出ませんよ。25時間ニューヨークから放送するだけで、麹町のTOKYO FMに10トン近いパラボラアンテナを用意して、それを設置するのに麹町署に行って手続きしなきゃいけないし、人件費もかかる。

 その前に、これは完全に自分の夢じゃないですか。別にTOKYO FM開局25周年に関係ないといえば関係ないですから。個人の夢だけど、ラジオ文化になにか残したいみたいな大義名分もありました。だって、個人的な夢だったら僕だけプラネット・ハリウッドを訪ねていけばいいだけの話ですから。でも、どうしても一緒に番組をやりたくて。結果、「僕のほうで負担するから番組の枠に入れてください」と。で、ちょうど『ミリオンナイツ』の全国ネット枠になるところにあててくれたんです。

――そこまでしてもらったら、ウルフマン・ジャックも感極まったでしょうね。

赤坂 番組の時、ウルフマンは涙を流してましたね。「アジアにいた青年が、遠い昔に私が出た映画を観て憧れ、おとなになってアメリカにまでやって来て、私をニューヨークに呼んでラジオ番組をやってくれるなんて」と言ってもらえて、こっちも感無量でした。

――放送から2カ月ほど経った7月1日、ウルフマン・ジャックは亡くなってしまう。

赤坂 まさかでしたね。日本に彼を呼ぶ予定だったんですよ。「あなたがやっているプラネット・ハリウッドのショーと、僕がいままでやってきたことをミックスしたショーをやろう」と。日比谷の野音のようなところにブースをふたつ作って、バンドはいないけど、レコードだけでお客さんを熱狂させるDJショーをやりたかったんです。

 その企画を話したら「乗った! 絶対、日本に行く」と言ってくれて。打ち合わせをしようとアメリカに行く時期をいつくらいにしようかなと考えていたら、訃報が飛び込んできちゃって。

■「今のテレビには赤坂さんが足りない」放送ですごい数のLINEが

――赤坂さんもウルフマン・ジャックのように、ラジオやテレビで若者たちを夢中にさせてきたと思います。というのも、今年の2月14日に放送された『千鳥vsかまいたち』(日本テレビ)で千鳥の大悟さんが「今のテレビには赤坂さんが足りない」と訴えて、『ヒッパレ』での赤坂さんを真似していました。

赤坂 知ってます。というか、僕も見ました。「見た見た」って、すごい数のLINEが来ましたよ。「えっ、こんなに俺のこと面白くしてもらえるんだ。すごいな、千鳥さんたち」と思いましたね。自分には、そんなに需要があると思ってないから驚きましたよ。

――「今のテレビには赤坂さんが足りない」という言葉、そのとおりだなと思ったんです。やっぱり、『ヒッパレ』の赤坂さんは唯一無二の存在だったんじゃないかなと。実際、テレビにもラジオにも後に続くようなキャラクターの方が出てきていませんから。

赤坂 そうですかね。だったら準備はできているので、お声がけしていただきたいですね(笑)。

写真=末永裕樹/文藝春秋

(平田 裕介/文藝春秋)

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