『夜もヒッパレ』、『ミリオンナイツ』DJ赤坂・誕生以前の“暗黒期” 「夢じゃ食えねえんだぜ」同級生は次々就職、バンド休止後に3000円すらなくても…

『夜もヒッパレ』、『ミリオンナイツ』DJ赤坂・誕生以前の“暗黒期”  「夢じゃ食えねえんだぜ」同級生は次々就職、バンド休止後に3000円すらなくても…

赤坂泰彦さん

 ラジオを主戦場に長年活躍を続け、伝説的歌番組『THE夜もヒッパレ』で“DJ赤坂”として忘れがたい存在感を放った赤坂泰彦さん(61)。実はブレイク前夜に、バンド・東京JAPのドラマーとしても活動し、ヒット曲『摩天楼ブルース』を生み出してもいます。活動休止後、次々と就職していく同級生たちに「赤坂、夢じゃ食えねえんだぜ」と言われたという知られざる“下積み時代”にはじまり、赤坂さんがテレビに登場するまでの前日譚を伺いました。(全3回の1回目/ #2 、 #3 に続く)

◆ ◆ ◆

■「東京JAPでドラムやってた赤坂です」とは言わなかった

――赤坂さんがラジオのディスクジョッキーとしてブレイクされる以前、東京JAPというバンドで活躍していたことを知らない方も少なくないと思います。

赤坂 『FMナイトストリート PAJAMA PRESS』(JFN、88〜94年)で本格的にディスクジョッキーをやり出した頃は「東京JAPでドラムやってた赤坂です」とは言いませんでしたからね。そこじゃないところで勝負したいという気持ちがあったし。まぁ、後々になって知られていきましたけどね。

――どういった経緯で東京JAPは結成されたのですか?

赤坂 中学の頃にキャロルのコピー・バンドを組んでから、ずっとバンドをやっていたんです。それで、高校を出てから組んだバンドがスカウトされたんですよ。喜んでデモテープを録りに行ったら、その事務所から「ウチがほしいのは君だけなんだ」と言われて。「それはできないです」と答えたんですけど、他のメンバーは「いや、俺は別にプロになる気はないし……」「就職しないと」みたいな感じでね。

 そんな時に、東京のあちこちで活動していたジャンル的に近いバンドのいくつかも、解散していたり解散間近だったんです。僕を含めた、そういった連中にミスタースリムカンパニー(※)から一緒にレビューをやらないかとオファーが来たんです。

(※)日本のミュージカル劇団。 1975年9月、東京キッドブラザースを退団した深水三章が結成。

――赤坂さんは、ミスタースリムカンパニーの劇団員だったわけではないんですね。

赤坂 ミスタースリムカンパニーの役者たちと一緒に、『ウエストサイド物語』(61年)や『グリース』(78年)をごっちゃにしたようなレビューをやれるバンドを作りたいという話で、それに乗ったんです。

 D-Dayシアターというミスタースリムカンパニーの小劇場があったので、そこで僕らも練習ができる。スタジオ代がかからないから、これはいいやって。で、ミスタースリムカンパニーの役者4人と僕らのバンドが5人か6人、10人くらいでレビューをしましたね。

 周りから見ればスリムの一員だったかもしれないけど、あくまでミスタースリムカンパニーの傘下にいたという感じですね。

■『摩天楼ブルース』のヒットがターニングポイントに

――D-Dayシアターでは、赤坂さんたちのバンドも単独でステージを打てたんですか?

赤坂 やらせてもらっていました。ファーストコンサートは超満員で、ライブは常にソールドアウト。お金も入るから、多少のギャラは売れたチケットの枚数の配当でしたが、全部打ち上げ代で消えてました(笑)。

――そのバンドが東京JAPになったわけですか。

赤坂 最初はSLIMと書いてスライムというバンドだったけど、誰もそう呼んでくれないので変えたんです。「俺たち全員が東京出身だよな。で、アメリカ人はヤンキーって言うじゃん。ヤンキーでニューヨークの人間だったらニューヨーク・ヤンキースって言うじゃん。じゃあ、俺らは東京JAPじゃん」という話になって。

 その時に、バンドのテーマとコンセプトも“ネオ東京モダン”と銘打とうと決めたんです。戦後の焼け野原だった東京に、海外の音楽が入ってきて活気づいたみたいなイメージ。それを具現化し、パワーにできないか……なんて話し合って。革ジャン=ロックンロールみたいに古くからあるスタイルではなく、全員がサスペンダーをして、頭はリーゼントだけど開襟シャツを着るようなビジュアルにしようって。

――東京JAP単独のステージは、どういった構成だったのですか。お話を伺っていると、かなり凝ったステージだったのではないかと。

赤坂 オープニングは、牧師が祈っているんです。暗転して小さな明かりが点くと、牧師の横でパンクの男がドラム缶を叩いている。それがだんだんとリズムになって、僕たちの演奏が入っていきます。薄明かりがパァーッと広がったところで、ズドーンという音と同時にライトが客席に向けられて、750ccのオートバイが小屋の非常口から突然入ってきて、客席の前に飛び出てくるみたいな(笑)。バイクに乗ってる奴がバンバン吹かすものだから、ステージ上は酸欠状態になっちゃってましたね。

■安全地帯さんはレベルが違いすぎる、チェッカーズ路線も…

――東京JAPといえば『摩天楼ブルース』(※)ですよね。ヒットを飛ばしながらも、赤坂さんはラジオのほうに心が傾いていたわけですか。

赤坂 後付けになるけど、やっぱり『摩天楼ブルース』はターニングポイントになりましたね。バンドもより音楽的になりたいと考えるようになって「この路線でやっていくのか?」というのが出てきたけど、安全地帯さんなんかと比べたら僕らはレベルが違いすぎてやっていける自信もない。だったらチェッカーズ路線にしてみるかと言っても、もう若くはない。僕は僕でラジオの世界にも行きたいと。

 揺らいでいたところに、TBSラジオが『摩天楼倶楽部〜思い切り午前3時〜』(85年)という番組を持たせてくれたんです。番組ではメンバー全員で喋っていても、僕は自分の気持ちを強く出すことを意識して話していたんですよ。そこをディレクターが買ってくれたのか、ピンのコーナーを設けてくれて。結局、東京JAPは1986年に活動を休止するんですけど、『摩天楼倶楽部〜』の後番組を僕に任せてくれたんです。

(※)1984年10月に発売された、東京JAPの5枚目のシングル。小泉今日子主演のドラマ『少女に何が起ったか』(TBS、85年)の主題歌に起用されてヒット。

■初のピンで挑んだラジオ番組、終わったら仕事が来なくなった

――その番組名は?

赤坂 『ロックンサラダ』。ミッキー吉野さん(※)らと一緒にやっていて、当時の洋楽ヒットを流していました。「ラップタイムDJ」という、ラップのようにイントロに乗っかって曲を紹介するコーナーも受け持って。ミッキー吉野さんのスタジオに行って、ミッキーさんと一緒にオープニングテーマや「ラップタイムDJ」のコーナージングルを作りましたね。これで「来たな!」「いける!」と思ったけど、番組が終わってからはラジオの仕事は来なくなっちゃいました。

 いろいろな局のオーディションを受けたし、ニッポン放送なんかは持ち込んだデモテープを回してくれたけどダメでしたね。「ラジオでなにをやりたいの?」と訊かれても、「楽しいことをやりたいです」って答えてるだけでしたから。「オリジナルのチャートを作ってます」とか、そんな考えをもっていない。要するに“引き出し”がないんです。それをプロデューサー、ディレクターはちゃんと見抜いていた。

(※)ロックバンド・ゴダイゴのピアノ、オルガン、キーボードプレイヤー。

――いわゆる“暗黒期”に当たるのでしょうか。

赤坂 話がなかったわけじゃないんです。でも、「引き出しのないまま、ただの勢いで番組を持ったら次はないな」と冷静に考えていた時期でもありました。

■「サラリーマンができないから、俺はこっちにいるんだ」

――その頃、芸能活動はしていたんでしょうか。

赤坂 たいして、やってないです。街でスカウトされて、バターかなにかのコマーシャルに出たのは覚えてますけど(笑)。イベントがあったら司会の仕事をやらせてもらったり、そんなのでつないでいましたね。ただ、“音が鳴っているところ”だけには行こうと、原宿とか渋谷をウロウロしてね。

 その頃に同級生から「赤坂、夢じゃ食えねえんだぜ」と言われたのは強く覚えてます。就職した連中はボーナスなんかをもらってるわけですよ。飲みに誘われても、僕はポケットに割り勘の3000円すらない。それで奢ってもらったことがありますね。で、やっぱり友達も僕の状況に気付いて「おまえ、本当にこれでいいのか考えろよ」って。

――さすがに気持ちが揺らいだのでは。

赤坂 これが揺らがないんですよ(笑)。見栄ではあるんですけど「サラリーマンができないから、俺はこっちにいるんだ」と開き直って。

■ディスクジョッキーからすれば、ハガキの束は札束

――そうした時期を経て、1988年に『FMナイトストリート PAJAMA PRESS』のディスクジョッキーを務めて注目されます。番組にはどのような経緯で?

赤坂 ニッポン放送でデモテープを回してくれたプロデューサーのドン上野(上野修)さんが、「ニッポン放送を辞めFM界を開拓したい、FMで『オールナイトニッポン』に負けない深夜放送をやりたい」と動き回っていたんですよ。で、上野さんが関わっていた『PAJAMA PRESS』で急遽欠番が出て、出てくれと呼ばれて。レコードを持ち込んで、ガッツリ選曲して2時間やってね。それから、2〜3週間して「レギュラーでやってほしい」と。

――当時のラジオリスナーだった者としては、たしかに『PAJAMA PRESS』で、どこかハイソといったFMのイメージが良い意味で崩れた気がします。ディスクジョッキーと聴く側の距離が異常に近いというか。

赤坂 最初は自分の波がぎこちなくて、東京JAPのことも含めて明かさなかったんです。リスナーからのハガキが20枚、30枚しか来ないのは、自分をさらけ出していないからだと、この頃もまだ、むしろ開き直っていました。

 でもやっぱり、「小学生の頃はこんなガキだった」とか「中学でコレを聴いてやられた」とか、僕が何者でどう生きてきたかを喋らないと受け入れてもらえないなと。次第にシフトチェンジしていったら、「赤坂、期末で赤点取っちゃったよ」みたいなハガキが来るようになりました。最終的にはハガキの山で向こう側が見えなくなるくらい。ディスクジョッキーからすれば、ハガキの束は札束なんで、ものすごく嬉しくて。

■葛藤しながら臨んだ『赤坂泰彦のミリオンナイツ』で大ブレイク

――そして、1993年からの『赤坂泰彦のミリオンナイツ』(TOKYO FM)でディスクジョッキーとしてブレイクされます。

赤坂 実は、最初は乗り気ではありませんでした。というのも、『ミリオンナイツ』の前にTOKYO FMで夕方の帯番組『TOKYO POP ARENA』(89〜90年)を任されていたんです。なにをやってもうまくいかないと言われていた時間帯だったけど、その番組をアシスタントの方と続けていって『DANCE SHIP TOKYO』(90〜93年)という番組の途中から、念願の一人DJスタイルを任せてもらいました。選曲も好きにやらせてくれたし、リスナーも付いてきてくれて、自分のなかで当時のデッドゾーンだった夕方帯を開拓した自負がありました。

 そこで「行きましょう。夜10時台」と仰っていただいた。ずっとひとりで番組をやりたい思いを抱えていたもんだから嬉しかったけど、そうした自負も芽生えていただけに少し葛藤がありましたね。

■THE ALFEEの坂崎さんと話していたら、木村拓哉くんが顔を出して…

――名曲珍曲を発掘する人気コーナー「うさんくさいポップス」で、赤坂さんが曲にツッコミを入れまくるのを聞いてきた身としては、そんな葛藤があったとは思えないです。山下達郎さんが同コーナーに乗り込んできたこともあって、カオスの極みといいますか。

赤坂 達郎さんは『山下達郎サンデー・ソングブック』(92年〜)の収録を夜にすることが多くて、その後に「最高な曲があるから」とザ・レンジャーズ『赤く赤くハートが』を持って入ってきて。それを聴いてふたりで笑い転げて、今度は僕が「こんなのあります」と藤健次の『雪子のロック(「面白愉快で懐かし原盤」収録バージョン)』を聴かせたら達郎さんは床に転がって腹を抱えて笑っちゃって。

 達郎さんに関しては、放送中だろうとなんだろうと入ってきていいっていうルールで。基本的に『ミリオンナイツ』は仲が良かったら誰でもいつでも入ってきて良かったんです。THE ALFEEの坂崎(幸之助)さんと話していたら、そこに木村拓哉くんが顔を出して、そのまま3人で放送したこともありましたね。

 達郎さんのファンだというリスナーから「達郎さんのニューアルバムって、いつ出るんですか?」と問い合わせが来たから、「本人に訊いてくる」と言って『サンデー・ソングブック』収録中のところをお邪魔したりね。

■Chageさんとの番組バトルから生まれた『ふたりの愛ランド』

――夜1時から始まる『ラジ王』の火曜日担当だったChageさんとのバトルも語り草ですよね。赤坂さんが『ミリオンナイツ』で嫌がらせのようにChageさんが石川優子さんとデュエットした『ふたりの愛ランド』を流し、Chageさんが『ラジ王』で『摩天楼ブルース』を流したり。

赤坂 Chageさんがスタジオに来てくれて、『ふたりの愛ランド』を掛けたんですよ。そうしたら、その後の『ラジ王』で「あの曲、照れくさいよね」なんて話をしたのを僕のリスナーが聞いていて教えてくれたんです。それで頻繁に掛けるようにしたら、Chageさんが「赤坂、やめろって」と言ってきたのが始まりじゃないですかね(笑)。

 そこから歯止めが効かなくなって、勝手に『ふたりの愛ランド』のミックスまで作っちゃって。Chageさんとは、いまも仲が良くて、Voicyで僕がやっている「赤坂泰彦のラジオグラフィティー」にもメッセージを送ってくれましたね。あの頃は、そんなことが普通に出来ちゃっていました。

写真=末永裕樹/文藝春秋

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