ヤクルト高津臣吾監督(52)の「絶対大丈夫!」な選手起用を生んだ“1993年ノムさんの教え”「松井秀喜のホームランが高津の野球を変えた」

ヤクルト高津臣吾監督(52)の「絶対大丈夫!」な選手起用を生んだ“1993年ノムさんの教え”「松井秀喜のホームランが高津の野球を変えた」

ファンに手を振る高津監督 ©時事通信社

 プロ野球のヤクルトスワローズは2021年、6年ぶり8度目のセ・リーグ制覇を果たし、クライマックスシリーズも勝ち上がった。高津臣吾監督の手腕を、かつての恩師である野村克也は生前、どう評価していたのか。「野村の教え」を実践した高津監督の野球を分析していく。

■野村野球を骨の髄まで学んだ8年間

 2勝1分。まさに圧勝だった。ヤクルトはクライマックスシリーズのファイナルステージで、巨人を寄せ付けない強さを見せつけた。試合後、高津監督はリーグ優勝時と同じく5度、宙を舞った。神宮の胴上げを悲願としていた指揮官は、「念願が叶いました」と感慨深げに話した。高津の監督としての力量は未知数だったが、前年最下位のチームを優勝に導くあたり、監督としての能力は高いと見るべきだろう。

 高津が90年にヤクルトにドラフト3位で指名されたとき、彼より注目されたのは同じ亜細亜大学で史上最多となるプロ8球団から競合指名を受けた左腕の小池秀郎だった。小池と2本柱だった高津ではあったが、当時の実力、注目度は圧倒的に小池のほうが上。それでも高津はヤクルトでは「即戦力の先発候補」として期待されていた。

 当時のヤクルトの監督の野村克也の下、91年から8年間、野村野球を骨の髄まで学んだ。このことが後の野球人生に大きな影響を与えるとは、ドラフト指名時、高津は露ほども思わなかったに違いない。

■潮崎が投げていたようなシンカー、お前さんも投げられないか?

 高津は93年からクローザーを務めたのだが、そのきっかけは前年の西武との日本シリーズにあった。3勝4敗でヤクルトは惜敗したが、西武の潮崎哲也がサイドスローから投じるシンカーに、ヤクルト打線は相当手こずった。シリーズ終了後の秋季キャンプで、野村は高津を呼んでこんな話をした。

「潮崎が投げていたようなシンカー、お前さんも投げられないか?」

 潮崎同様、高津がサイドスローで投げているところに、野村は着目した。高津も当時からすでにシンカーを投げていたものの、潮崎と比べれば完成度は天と地ほどの差があった。当初は「無理です」と否定していた高津だったが、野村はこんな提案をした。

「潮崎と握りが違ったっていい。全力で100キロのボールが投げられればいいんだ。これを覚えたら、ウチのクリーンナップだって打てない」

 野村の話を聞いた高津は、「プロで生き残るためのチャンス」だと悟った。それまでの2年間は、「コントロールがいいが、これといった特徴のない投手」というのが、ヤクルト首脳陣の間で下した評価だった。だが、野村がイメージするようなシンカーをマスターさえすれば、この先プロで長くやっていくための活路を見出せる――。高津は野村との会話の中でそう感じ取った。

■松井秀喜に「インコースのストレートで勝負」と言った意味

 一方の野村は高津にこんな不満も抱いていた。

「ストレートが滅法速いわけではないのに、肝心の勝負どころでストレート勝負をしたがる」

 高津が投じるカーブやシュート、スライダーなどの横に曲がる変化球は、右打者には有効だったものの、左打者を打ち取るのは苦労していた。そこであえて強気にストレート勝負を選択することが多かったのだが、現状のままでは左打者には通用しないという現実を、高津本人にわからせる必要があった。

「そのとき」がやってきたのは、93年5月2日の巨人戦。4対1でヤクルトがリードして9回裏、巨人の攻撃で二死一塁という場面。打席には鳴り物入りで入団したルーキーの松井秀喜がいた。前日に一軍デビューを果たした際、初安打初打点を記録。この日が2試合目だった。

 このイニングの直前、野村はベンチで古田敦也を呼び寄せ、こんな話をしていた。

「インコースのストレートで勝負しろ」

 これには2つの意味があった。1つは松井に関して、「インコースを苦も無くさばける」というヤクルト側で収集したデータが本物であったかどうかを確かめるため、もう1つは「高津のストレートでは左打者には通用しない」ということを本人にわからせるためだった。

■己の力量の限界を知り、シンカーを完成させる

 はたして高津は松井にすべてストレート勝負で挑んだ。2ボール1ストライクの4球目、高津が投じた133キロのストレートを松井が振り抜くと、打球はライトスタンドに弾丸ライナーで一直線に飛んでいった。試合はヤクルトが1点差で逃げ切り、高津は3回3分の2を投げ切ってプロ入り初セーブを記録したが、「自分より6歳下の、才能豊かな高校出のルーキーに打たれたことで、高津は己の力量の限界というものが理解できたはずだ」と、野村は生前語っていた。

 野村がオーダーした100キロの遅いシンカーを、高津がマスターしたのは、この年の夏だった。相手打者が打ち気満々で挑んで来たら、遅いシンカーを投じてタイミングを狂わせ、シンカーを意識しているようだったらインコースにストレートをズバッと投じる。もともとの度胸の良さに加えて、女房役の古田が打者心理を巧みに読み取ったことで、「クローザー・高津」の存在は輝き始めた。この年、6勝4敗20セーブという数字を残して、ヤクルトのリーグ2連覇、15年ぶりの日本一に貢献する。

■二死満塁フルカウントの状況を“投手有利”に変える方法

 高津は野村から野球のあらゆることについて、とことん学んだ。たとえば、「二死満塁。カウント3ボール2ストライクのフルカウントになったとき、投手と打者のどちらが有利か?」という宿題が全選手に出されたときのこと。一般的には、塁上の走者が一斉にスタートできるうえ、「投手は思い切り腕を振ってストライクを投げてくる」ものだと思っているから、打者有利と見るかもしれない。

 だが、野村は違った。

「ストライクからボールになる変化球を投げれば、打者は100%に近い確率で振ってくる」

 野村は西武での現役晩年の79年、ルーキーの松沼博久とバッテリーを組んだときにこのことを経験して学んだ。打者有利と見られるカウントのときほど、ストライクからボールになる変化球を投げれば、相手打者は面白いように振ってくれる。

「たとえ打者有利だと思われるカウントでも、『どう考えれば投手有利のカウントになるのか』を考える習慣をつけておくことが大切なんだ」

 野村は選手たちに説いた。

■野村の野球の教え方は「まるで受験勉強のようだ」

 高津は野村からこんな宿題を出されたこともあった。

「1点リードの最終回、一死一塁という場面。どうやったらショートの宮本慎也の前にツーバウンドのゴロを打たせて、ダブルプレーがとれるか考えてみなさい」

 高津一人の考えでは答えの出せない課題だった。これには古田の知恵を必要とした。2人でカウント別に、ああでもない、こうでもないと議論して、勝負球をどこに投げるべきかを真剣に考えた。

 野村の下で学んだ野球で起こり得るさまざまなシチュエーションについて考えを巡らせる作業を、高津本人は「勉強している最中は辛いが、結果が出ると楽しい。まるで受験勉強のようだ」と例えている。同時に日本、アメリカ、韓国、台湾の4ヵ国でプレーした高津にとって、戦略・戦術的な発想は「野村野球」が最も奥深かったと高津は話している。野村イズムはこうして今なお多くの教え子たちに受け継がれているのだ。

 高津がヤクルトの一軍監督に就任したのは、19年秋のこと。この時点で野村は高津が一軍監督として成功するかどうかは「わからない」と言っていた。一方で、「二軍監督を経験していることが、いい影響を及ぼす」と語っていた。その理由について、「二軍で指揮することで選手起用について学ぶことができるし、自分のチームにどんな若手がいるのか、自分の目でしっかりチェックすることができる。たとえ現状の一軍選手で優勝していても、2年後、3年後のシーズンも同様に勝てる保証などないから、この点は非常に大きいんだ」

■高津が二軍監督時代に指導した選手たちが躍動した理由

 現在、ヤクルトの4番を打つ村上宗隆はもとより、セットアッパーとして大活躍した清水昇、先発として来季以降の飛躍が期待される高橋奎二、核弾頭としての役割を果たした塩見泰隆らは、高津が二軍監督時代に指導した選手たちである。とくに高橋を育成するにあたっては、中9日からスタートさせて、徐々に登板間隔を短くしていくというプランを実行していった。

 高校時代、1試合に120球くらいを3日連続で平気で投げていた投手だったとしても、二軍では1試合わずか60〜70球くらい投げたくらいでバテてしまうことなど決して珍しいことではない。打者のレベルがあまりにも違い過ぎるからだ。野球名門校と言われる高校でも、「気にすべきは上位から中軸までで、下位は安全パイ」というケースは往々にしてある。

 けれどもプロは違う。アマチュア時代にはクリーンナップを打っていた打者が、下位を打っていることは珍しくない。それだけに投手は1球1球考えて投げなければ、簡単に打たれてしまうし、走者を出せばクイックで投げたり、配球面で考えなければならないことが山のように増えてしまう。結果、肉体面、精神面における消耗度がグンと上がる。

■6年前の忘れ物をチーム一丸となって取りに行く

 だからこそどんなに才能溢れた高校出の投手でも、プロの世界に入った直後は疲労度を考慮しながらの起用を余儀なくされてしまう。高津は高橋を含めたプロでの経験の浅い投手の肩やひじの張り具合をチェックし、どのようにすれば疲労が回復するのか、短い間隔で回復させるにはどんなケアが必要なのか、コンディション面で常に気を配っていた。

 今年のヤクルトには、投手陣で戦力的なダメージを与えるほどの離脱者がほぼいなかった。その背景には、高津が二軍監督時代に取り組んでいたことを、今なお継続している点を見逃してはならない。

 9月7日の首位・阪神との試合前、高津は選手たちへの4分半の訓示で「絶対大丈夫」を繰り返した。この言葉を力に変えたヤクルトは9月14日以降、球団新記録となる13戦無敗で首位に浮上。今年のヤクルトの終盤の勢いを象徴したこの言葉は、後にグッズ化されるまでにいたったのである。

 ファイナルステージを勝ち抜いた高津監督が目指すのは、自身が選手時代だった2001年以来の日本一だ。

「全国のスワローズファンのためにも全力で戦いたい」

 15年にヤクルトがソフトバンクに挑んで1勝4敗で敗れたとき、高津は一軍投手コーチだった。野村野球が正しいことを証明するためにも、6年前の忘れ物をチーム一丸となって取りに行くはずだ。

(小山 宣宏/Webオリジナル(特集班))

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