安寧を守るために後継者としての子どもをつくるのが当たり前の時代…それでも“上杉謙信”が子どもをもうけなかった“意外な理由”

安寧を守るために後継者としての子どもをつくるのが当たり前の時代…それでも“上杉謙信”が子どもをもうけなかった“意外な理由”

©iStock.com

兼ね備えた才能と美貌と野心…それでも“生涯独身”だったココ・シャネルが晩年に抱いていた“意外な思い” から続く

 戦国時代、自分が治める民の安寧のためにも、死後までを考えて統治の安定を図ることは君主の務めの一つだった。しかし、屈指の戦上手として、その名を広く知られた上杉謙信は、子どもを持とうとしない権力者だったのだ。はたして彼にはどのような考えがあったのだろう。

 ここでは、評論家・アンソロジストとして数々の著書を執筆する長山靖生氏が、偉大な事績を遺した「おひとりさま」の言行と信念をまとめた『 独身偉人伝 』(新潮新書)の一部を抜粋。上杉謙信の生涯を振り返りながら彼の信念に迫る。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■義のための独身、家名のための模索

 戦国時代(室町後期)は各地で同族相争う合戦が絶えませんでした。その原因の多くは「自分の子を後継者に」「兄ではなく弟が」という家督を巡る一族内の争いです。

 そもそも南北朝の争乱も応仁の乱も、それが大きな誘因でした。南北朝以前の鎌倉後期に、皇統は後嵯峨天皇の子である後深草天皇(兄。持明院統、後の北朝系)と亀山天皇(弟。大覚寺統、後の南朝系)それぞれの子孫が皇位継承を求め、幕府の調停で双方が順に天皇を出す両統迭立(てつりつ)が行われていました。しかしそれが数代続くうちに、両統内部にも「御兄弟御争い」が起きます。後醍醐天皇は大覚寺統の継承順位の低い親王でしたが、兄宮の子に継承権を渡す約束で「一代主」として即位しました。しかし建武の親政後は、両統迭立を廃し、兄の系統への皇位返還も反故(ほご)にしようとします。こうした皇位継承権争いが南北朝争乱の底にはあったのです。

 また足利家は親子の情が濃い家系のようで、日頃は賢明な政治をしていても、子供の話となると争乱の種を撒いてしまうことが多かったのです。もう子供はできないと思って弟や養子に家督を譲る約束をしたのに、後から実子が出来たために取り消して騒乱になるとか。

■度にわたって北条氏康や武田信玄と争うことに

 謙信(景虎)はそうした事態を避けるべく、固い決心をしていたものと思われますが、その思想は「伯夷伝」などに見られる儒学の道徳観に基づくものでした。長幼の序を重んじて、兄を大切にし、兄弟相争うのではなく相譲り合う美学です。謙信のこうした美意識は、時に形式主義といわれますが、形を守っていれば保てた秩序が崩れ、戦火が絶えない世の中に生きたにもかかわらず、道徳的信念を貫いたのはやはり立派です。

 これは越後支配権の確立や、上杉家継承の際にも同様でした。景虎は反対勢力を抑えて次第に越後の実質的統一を成し、1550年に越後守護職・上杉定実が後継者を定めずに没すると室町13代将軍・足利義輝から守護代行を命じられることで、正当な越後支配者となります。さらに52年、関東管領・上杉憲政が北条氏康に攻められて逃げて来ると、これを迎え、数度にわたって北条氏康や武田信玄と争うことになりました(川中島の合戦など)。

■上杉憲政に娘を正室に迎えたいと申し出て…

 この間、謙信は朝廷や幕府とのつながりを深め、1559(永禄2)年に上洛した際には正親町天皇や将軍義輝に拝謁。義輝からは管領並みの待遇を受け、61年には上杉憲政の要請もあって山内上杉家(上杉氏も同族内での争いがありました)の家督と関東管領職を相続することになります。この時、名を上杉政虎と改めるのですが、ここで一度謙信(政虎)は正室を迎えることを考えたとの説があります。ただしこれもまた、我欲を出してのことではなく、秩序を重んじてのものでした。

 上杉家の家督と関東管領職を継承したとはいえ、謙信は上杉家と血縁関係にありませんでした。それは「正しいこと」なのか。そこで謙信は、上杉憲政に娘を正室に迎えたいと申し出たのです。

■「義の人」と呼ばれる理由

 これが本当に子供を成して上杉家の血筋を伝えようとしてのことなのか、上杉の養子としての形式を整えようとしたのかは分かりません。この件は、打ち続く造反と騒乱のために実現しませんでした。ただ、関東管領・上杉家は長尾家よりはるかに家格が高いので、その血筋継続を重んずるのが義の道と考えた可能性は大いにあります。

 長尾の家督は兄の子(没後は姉の子)に返すのが筋というのは、信義であっても長尾家内の「私事」です。しかし上杉家という名門の血筋を正しく保つのは、いわば「公事」。上杉を名乗ることになった謙信が、私事より公事を優先しなければならないと考えたとしても不思議はありません。

 これは形式主義というより名分論といった方がいいと思います。ざっくりいうと、「名」には「正しいあり方」があって、名と実がきちんと一致しているのが美しく秩序立った状態だとする考えです。実際の行為は下克上だったにもかかわらず、謙信が「義の人」と呼ばれるのは、このように「形」を大切にしたからです。

 そんな謙信でしたが、残念ながら没後に後継者争いが起きてしまいました。謙信は姉の子・景勝のほかにもう1人・上杉景虎という養子がおり(北条氏康の七男で謙信の姪の婿)、謙信没後に家督争いが起きてしまったのでした(御館の乱)。勝利した景勝は、積極的に謙信の顕彰に努めました。それは後継者としての正統性を確固たるものとする道筋でもあったのです。

【前編を読む】 兼ね備えた才能と美貌と野心…それでも“生涯独身”だったココ・シャネルが晩年に抱いていた“意外な思い”

(長山 靖生)

関連記事(外部サイト)