兼ね備えた才能と美貌と野心…それでも“生涯独身”だったココ・シャネルが晩年に抱いていた“意外な思い”

兼ね備えた才能と美貌と野心…それでも“生涯独身”だったココ・シャネルが晩年に抱いていた“意外な思い”

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 非婚や少子化そのものは国家の将来にとっては難題だが、個人の選択する生き方とは別の話だ。恋多き人生を全うした男女もいれば、世を正しく導くため、あるいは社会を作り変えるという使命感とともに単身を貫いた人もいる。

 ここでは、評論家・アンソロジストとして数々の著書を執筆する長山靖生氏の著書『 独身偉人伝 』(新潮新書)の一部を抜粋。恋多き人生でありながら、生涯独身だったファッション・デザイナー、ココ・シャネルの生涯を振り返る。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

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■ハーレクイン・ロマンス以上の恋の数々

 恋多く独身だった人は女性にもいます。今も女性たちを魅了しているブランドを創始したファッション・デザイナーのココ・シャネルは、生涯に幾人もの恋人を持ちましたが、お相手の人品や容姿のよさは抜群で、さすがに美的センスが発揮されている感がありました。その恋の数々は、ハーレクイン・ロマンス以上にロマンチックで、特別で、波乱万丈でした。

 ココ・シャネルことガブリエル・ボヌール・シャネル(1883〜1971)は、才能と美貌と野心を兼ね備え、何より活力に恵まれた人でしたが、生涯独身でした。とはいえ生涯に何度もドラマティックな恋をしています。しかしカサノヴァ(編集部注:伊達男として知られるヴァネチア共和国出身の作家)と違って彼女には結婚願望があり、「男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ」と述べています。もっとも、たとえどんな大物が相手だったとしても、彼女が単なる妻の座に満足できたとは思えませんが。

■芸能人としての成功を夢見たココ・シャネル

 ココ・シャネルはフランスのロワール地方で行商人をしていたアンリ・アルベール・シャネルと洗濯婦ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォルのあいだに生まれました。翌年2人は結婚しますが当時はまだ結婚しておらず、さらに彼女が最初の子供というわけではなく、父は責任感に欠ける人物だったようです。ガブリエルが12歳の時に母が亡くなると子沢山だった家族は離散し、彼女は聖母マリア聖心会の孤児院に入れられました。ここで厳格な規律の下、裁縫などを学んだのが後に役立つことになります。しかし彼女自身は、幼少期の真実を語ることはありませんでした。シャネルは、自分は中流家庭に生まれて母の死後は2人の叔母に育てられたという物語を主張し続けました (ついでに年齢は10歳さばを読みました)。

 18歳で孤児院を出た彼女はカトリック女子寄宿舎を経てムーランの仕立て屋に就職、その傍らキャバレーで歌を歌い、騎兵将校たちの人気を得ました。彼女の愛称ココは、彼女の得意曲「ココリコ」に由来するとも、愛人を意味する隠語ココットから来ているともいわれます。芸能人としての成功を夢見た彼女は、リゾート地のヴィシーに出たもののうまくいかず、短期間でムーランに戻り、フランス軍の元騎兵将校で富豪の息子エティエンヌ・バルサンに見初められて愛人になりますが、不安定な立場でした。

■バルサンの友人・ボーイ・カペルと急速に惹かれあい…

 バルサンは馬好きで、シャネルも乗馬を習い、見事な乗り手になります。その際、彼女は何とズボンを穿(は)いて馬に乗りました。現代では女性の乗馬服もズボンがふつうですが、当時、ズボンは明確に男性の服、女性は乗馬の時にもスカートで横座りするのが当たり前で、ズボンという異性装はスキャンダラスですらありました。しかしそれがよく似合っていた。

 ズボンを穿いたこと自体は、上流階級の作法を知らない彼女の無知の産物だったともいわれています。とはいえ彼女は仕立て屋に細々(こまごま)と指示しており、シンプルな男装をかえって女性的魅力を引き立てるように着こなすあたり、この頃からファッション・センスが卓越していたことを示しているでしょう。

 バルサンはプレイボーイで、シャネルをやきもきさせましたが、彼女の方も1909年にバルサンの友人ボーイ・カペルと知り合うと急速に惹かれていきます。カペルはハンサムで裕福な英国紳士でシャネルをパリのアパルトマンに住まわせ、1910年に彼女の最初の店となる「シャネル・モード」を開く資金も出してくれました。この前後、バルサンとカペルは彼女をめぐって恋の鞘当てをし、そのおかげで彼女は自分の店を持てたのでした。

■身分の違いが障害となり、カペルは英国貴族の令嬢と結婚

 シャネルはバルサンの館にいたころから服装に独自の工夫を見せ、殊に帽子で人々の注目を集めていました。彼女が作った帽子は、当時の基準からすると小さめでシンプルなタイプで、一種のアートとして評価されました。というわけで彼女の最初の店は帽子屋でした。帽子は上流階級の人々には不可欠のアイテムです。

 カペルは洗練された趣味の持ち主で、彼との生活を通してシャネルのセンスはいっそう磨かれていきました。2人で出かけた先の、漁師が着ていた丈夫な布地を高級服に使用したり、ヨットに因んだ柄を取り入れるなど、大胆な発想も2人の楽しい思い出が絡んでいる模様。

 1915年、ビアリッツに本格的な店を出した彼女は、さらに多くの上流階級の人々や芸術家とも知り合っていきます。時々アヴァンチュールもあり、ロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公とはロマンチックな関係を結びました。しかし本命はあくまでカペルで、彼女は結婚を望みましたが、身分の違いが障害となり、カペルは1918年に英国貴族の令嬢と結婚します。

 しかしその後も2人の関係は続きました。それが終わるのは1919年のクリスマス直前に、カペルが交通事故で落命した時でした。シャネルは悲嘆にくれ、一時は店を閉めることも考えますが、けっきょくは店が2人の生み出したものだと思い直し、仕事に邁進することで悲しみを克服していきます。

■芸術家との交流、広がる人脈

 恋もさることながら芸術家との交流も彼女の心を豊かにし、仕事はより深く幅広いものとなっていきます。シャネルはバレエ・リュスの主宰ディアギレフと親交を深め、バレエ・リュスの舞台衣装をデザインして評判を高めます。またディアギレフを介して作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーと知り合い、1920年の『春の祭典』公演を援助したりもします。

 シャネルの人脈はどんどん広がっていきます。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ミジア・セール、ポール・モラン、ジャン・ジロドゥー、エリック・サティらも彼女の家を訪れ、さらには映画スターやボクサーまでやって来ました。ポール・モラン言うところの「700人のパリの名士たち」のなかでも特に愉快な連中が、こぞって彼女の許(もと)を訪れたのです。

 彼女は第一次世界大戦後の開放的で自由な空気を大いに活用して、社会進出し、自己主張する女性たちを引き立てるボーイッシュなデザインを次々に発表して1920年代のファッション界を主導、多くのお針子(はりこ)を擁するアトリエ(仕立て工房)を経営しました。

 1923年、シャネルは英国の最上流社交界にも出入りするようになり、ウィンストン・チャーチルやウエストミンスター公爵、さらにはエドワード8世(当時は皇太子)とも交流するようになります。シャネルはウエストミンスター公との結婚を夢見たようで、こうした華やかな交流は30年代前半も続きます。しかし世界恐慌後の不況で経済は急激に縮小。人々の嗜向も趣味も保守化傾向を見せ、彼女の活動にもかげりが出ました。

 シャネルは映画女優の衣装などにも進出していましたが、大成功とはいえませんでした。そこでは女性らしさを強調する華やかなデザインが求められましたが、それはシャネルの持ち味ではありませんでした。またイタリアの貴族階級出身のデザイナー、エリザ・スキャパレリがシュルレアリスムを取り入れた大胆で斬新なデザインで評判になると、彼女の覇権は揺らぎます。

 1936年にフランスで起きた大規模ゼネストに刺激されて、シャネルのアトリエでもストライキが起こり、従業員との間に深い対立を抱えることになったのも、経済面だけでなく精神的にも大きな打撃でした。

■占領下のパリでひとりのナチス将校と恋仲に

 1939年、ヒトラーのポーランド侵攻を受けて、英仏が相次いで対独宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発すると、シャネルはブティックは残したもののアトリエは閉鎖しお針子も全員解雇しました。戦争でファッションどころではない時代になったためだとシャネルは述べていますが、ストライキをした「裏切り者たち」への報復だったともいわれています。仕事を棚上げにした彼女はホテル・リッツで暮らし、ドイツ軍がパリに進駐してくると、ナチス・ドイツの外交官や上級将校と交流することになります。

 ここでいかにもシャネルらしい出会いがあります。彼女は占領下のパリでひとりのナチス将校と恋仲になるのですが、相手のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵(外交官で諜報員)は、趣味のいい貴族で、とてもハンサムでした。2人は互いに利用し合う仲でもありましたが、そこに危険な恋の香はしても、占領軍への媚びた卑屈さは感じられません。どんな苦境にあっても、男でも立場でも最上のものを手に入れる──そんなシャネルの強(したた)かさと魅力には舌を巻く思いです。

 シャネルは第二次大戦後半になり連合軍が優勢になると、ディンクラーゲと共に連合軍との和平交渉を画策しました。この際、彼女はチャーチルやウエストミンスター公とのかつての“交流”を役立てようとします。しかし彼らは私的関係で国家利益を損なうような態度はみせず、シャネルらの計画は実を結びませんでした。

■1954年に復帰、パリで再びコレクションを発表

 こうした活動のすべてが顕わになったわけではありませんが、連合軍がパリを解放してフランス国内で対独協力者に対する報復がはじまると、シャネルも一時は逮捕され、その後も訴訟に怯える身となり、数年間はスイスに逃れて、ディンクラーゲと共にすごしました。

 ところでファッション界では、シャネルが消えているあいだにクリスチャン・ディオールが女性性を強調したエレガントなデザインで台頭します。シャネルはこれを自分の仕事を否定し、女性に対して男性の視線への従属を強いるものだと反発、1954年に復帰してパリで再びコレクションを発表しました。時にココ・シャネル70歳。

 しかしこのコレクションは失敗でした。「戦前の彼女のデザインと何ら変わらない」「戦前の亡霊」といった酷評が公然と口にされました。訴追は免れたものの、彼女のドイツ軍への協力を忘れていないものも多く、含むところあって冷淡な態度をとった人々も少なくなかったのです。

■デザインこそが命であり、子供

 彼女はあきらめず、再びコレクションを開催。アメリカを中心にシャネル人気が再燃し、次第にフランスでも評価が戻ってきました。

 晩年の彼女は孤独を恐れ、子供を持たなかったことを嘆くこともありましたが、自身の仕事を、誰よりも輝かしい我が子と誇りもしました。1971年1月10日に亡くなった時も、直前まで春のコレクションの準備をしていました。デザインこそが彼女の生命であり、子供たちでした。

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(長山 靖生)

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