「中森家の戸籍を抜けたい」明菜の自殺未遂から2年後も燻る“近藤真彦との事件”…最も信頼した男性の出現と、最愛の母の死

「中森家の戸籍を抜けたい」明菜の自殺未遂から2年後も燻る“近藤真彦との事件”…最も信頼した男性の出現と、最愛の母の死

中森明菜(1985年当時)

近藤真彦宅で自殺を図ったことを「なんて愚かな」と悔やみ…なぜ“金屏風会見”は中森明菜を表舞台から遠ざけたのか から続く

 1989年の自殺未遂から約2年。中森明菜は、歌手としての本格復帰が見通せないなか、ニューヨークで無為な日々を過ごしていた。(「文藝春秋」2021年12月号より、全2回の1回目/ #8 に続く)

◆ ◆ ◆

■「その実印もサインも私のじゃない」

 シングルを3枚出したものの、アルバムの制作は未定。デビュー以来所属してきたワーナー・ミュージックとは契約上の繋がりのみで、もはや決裂状態にあった。テレビ番組の撮影で、ニューヨークに同行していたワーナーの宣伝スタッフも明菜を持て余していた頃、レコード会社の移籍話を持って、元ビクター社員の栃内克彦が現地に姿をみせた。

 彼は明菜の自殺未遂後に設立された前所属事務所「コレクション」の元社長から依頼を受け、MCAビクターへの移籍後の打ち合わせに来たと告げた。

「何それ? そんな話聞いてないよ」

 そして、栃内が改めて持参した契約書をみた明菜は「その実印もサインも私のじゃない」と不信感を露わにした――。

 彼女の歌い手としての人生が、波乱とともに、また再び動き始めようとしていた。

 栃内が振り返る。

「私も聞かされていた話とまるで違う状況に驚き、明菜に返す言葉もありませんでした。そこから彼女とじっくり話をしました。明菜はニューヨークがお気に入りのようで、中心部にあるロイヤルトンホテルのペントハウスに宿泊し、夜はカラオケのあるピアノバーに連日のように通いました。彼女は大好きな松田聖子の曲を唄って、機嫌もよくなっていき、話も前進していったのです」

■自殺未遂から2年が過ぎても

 二人で帰国し、契約書を整えた後、栃内は明菜の新しい事務所「コンティニュー」の社長に就任した。

「驚いたのは、ジャニーズ事務所の傘下にある興行会社の幹部が、真っ先に連絡をしてきて、明菜と近藤真彦との交際について言及したことです。『近藤が、明菜からマンション購入名目で受け取ったお金の件は伏せて欲しい』と言われたのですが、私には何の話をしているのか、まるで分かりませんでした」(同前)

 自殺未遂から2年が過ぎても、明菜と近藤との“事件”は、まだ燻り続けていた。その縺れた人間関係のしがらみから脱却すべく、スタートを切った新事務所。だが、その船出は初めから“視界不良”だった。

■口座から金が消え、ほぼ空っぽの状態に

「コンティニュー」は91年9月に設立され、当初は明菜の前事務所の社長の友人が代表を務めていた。明菜をワーナーからMCAビクターに移籍させる受け皿として、前事務所の社長とビクター関係者らが密かに立ち上げ、ビクター側からは当初、約5000万円が運転資金として振り込まれていた。そして彼らは栃内に会社を預け、経営から手を引いた。

 ところが、栃内が社長に就任した時点で、口座から金が消え、ほぼ空っぽの状態になっていたのだ。

「前任者らが費消していたことが、のちに分かりました。明菜には月500万円の給料を約束していたので、ビクター側に追加資金をお願いしました。そのうちに、明菜の大量にある衣装のクリーニング代などの請求書があちこちから届き始め、催促の電話も入るようになった。都銀の支店長からは呼び出しを受け、明菜が、実家のある東京都清瀬市に近い東武線沿線に約1億円を借り入れて建てたビルのローン返済が滞っていると指摘を受けました。このビルは彼女が家族のために建て、一時は家族が店舗で飲食店も経営していました。次から次へと支払いを迫られ、明菜に4カ月ほど給料を払った時点で、資金繰りはいよいよ行き詰ってきました。ビクター側は『何でそんなにお金が掛かるのか』と資金の供給をストップし、危機的な状況に陥ったのです」(前出・栃内)

■目は真っ赤で、何度も嘔吐し、フラフラの状態

 一方、明菜の仕事も、決して順風満帆とは言い難い状況だった。

 92年4月、明菜は安田成美とのダブル主演で、女性同士の友情を描いたドラマ「素顔のままで」(フジテレビ系)に出演。初の連ドラ出演ながら、平均視聴率26.4%と高視聴率を叩き出し、演技力も高い評価を受けた。

 しかし、当時の明菜には、時に明らかな変調が現れることがあった。

「明菜が楽屋からまったく出てこず、共演の安田成美さんも困惑していました。一報を受けて私がスタジオに駆けつけると、今度はトイレに籠って出てこなくなったんです。ようやく出て来たかと思ったら、目は真っ赤で、何度も嘔吐し、フラフラの状態になっていました」(同前)

 その数カ月後、明菜はフジテレビの新春ドラマ「悪女II・サンテミリオン殺人事件」の撮影で、フランスのロケに参加。その際には滞在先のパリでも、トイレに籠り、丸1日出てこないことがあったという。

 心身のバランスが崩れ、身体が悲鳴をあげているかのような異変。日本の芸能メディアは、明菜が再び自殺未遂を図ったと騒ぎ立てた。

 ただ、明菜が、遅々として進まない歌手活動の再開にジレンマを感じていたことは確かだった。

■「コンティニュー」は混迷を続け、96年に破産

 栃内は、当時ヒットメーカーとして注目され始めていた小室哲哉と明菜とのコラボを実現させ、小室が明菜に書いた「愛撫」を移籍第一弾のシングル曲にしたいと考えていた。小室も、明菜も乗り気で、レコーディングも行なわれたが、この曲がアルバム曲を経てシングルとして発売されたのは、それから約2年後のことである。

 明菜を取り巻く環境は、事務所の経営が抜き差しならない状態になったことで、またしても空転を始めていったのだ。

「明菜とMCAビクターは契約金3億4000万円で移籍に合意と報じられましたが、私が確認したのは、無くなっていた最初の5000万円を含めても約1億7000万円。資金が回らなくなり、給料の遅配が始まると、明菜に『栃内が契約金を使い込んだ』と吹き込む者がいて、彼女もその話を信じ込んでしまった。そんな事実は一切ありません。ただ、彼女と次第に連絡がとれなくなり、私だけが悪者になっていました」(栃内)

 明菜は周囲に、栃内への怒りを隠さず、「最初はいいことを言っていたのに騙された」「みんな私を利用して商売する」と不満をぶちまけた。

 明菜が離れ、主を失った「コンティニュー」は混迷を続け、その後、96年に破産。栃内は債務整理に追われる日々のなか、偶然、白金のタイしゃぶ屋で明菜と遭遇した。彼女は栃内を物凄い形相で睨みつけ、無言で去っていったという。

 彼女はまたさらに孤独の鎧を身に付け、限られた人としか接点を持たなくなっていく。

■明菜が最も信頼を置いていた男性

 当時、彼女が最も信頼を置いていたのは、20代前半に、六本木のチャイニーズレストランで、客と店員として出会って以来の知り合いだった江田敏明。二人は交際中だった。

 江田は、93年から明菜が設立していた個人事務所「NAPC」の副社長としてマネジメントにも関わるようになった。明菜はこの頃、後見人を自任する女性が書いた暴露本騒動に巻き込まれ、その混乱を収めるために江田に助けを求めていた。

 今回改めて江田に取材を申し込んだが、「今は飲食業をやっていて、彼女と何の関係もないですし、ずっと会ってもいません」と口が重い。

 NAPCには当時、彼女が親しくしていたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」の元プロデューサー渡辺光男や、長年にわたって彼女のスタイリストを務めた東野邦子も役員に名を連ねていたが、二人とも20年以上、明菜に会っていないという。

 明菜が華々しい活躍をみせた80年代。日本経済は空前のバブル景気に沸き、90年代の足音が聞こえた頃から、右肩上がりを続けた株価と地価が下落してバブルは崩壊した。その盛衰と軌を一にするように、明菜の人気にも陰りが見え始めた。

■中森家から戸籍を抜いた

 一つの節目は、95年6月に訪れた。癌を患い、長く闘病生活を続けていた最愛の母、千恵子を亡くしたことだ。明菜は通夜には顔を見せたが、葬式には「仕事があるから」と出席せず、この日を境に家族とは完全に没交渉となった。

 父親の明男が語る。

「家内が亡くなる少し前に、事務所の若いスタッフが何人も来て、『本人が中森家の戸籍を抜けたいと言っていますので、よろしくお願いします』と言われました。『冗談じゃない。事前に何の相談もないのに』と怒って帰って貰いましたが、あの子も成人ですから、戸籍は勝手に抜いたんでしょう。ただ、今でも私は不服に思っていますよ」

 明菜は“分籍”の手続きまでして、家族との繋がりを自分の歴史から消し去ろうとしたのだ。

 6人兄弟姉妹の5番目、三女として育った明菜は、歌手志望だった千恵子の影響で幼い頃から歌い手を目指した。決して裕福な家庭ではなかったものの、母親は娘のためにピアノを買い、4歳からバレエを習わせた。デビューが決まり、ヒットチャートを駆け上がる娘の活躍を誰よりも喜んでいたのが母、千恵子だった。

 強い絆で結ばれていたはずの家族は、その後、明菜が稼ぐ莫大な金を巡る疑心暗鬼で分裂していく。しかし、88年に母親に癌がみつかると、明菜は翌年、母の療養のためにハワイのマウイ島に約1億円で別荘を購入。母への思慕の情は決して途絶えたわけではなかった。

 その母の死後、家族に背を向けた明菜は、本業の歌手活動でも、かつての栄光を取り戻せないでいた。

■30歳を機に初のディナーショーにも挑戦

 当時の音楽シーンは、88年のシングルCDの登場により、再び活況を取り戻し、J-POPが全盛期を迎えていた。小室哲哉のプロデュース作品やZARDなどビーイング系のミュージシャンを中心に100万枚を超えるミリオンヒットが続出。そのなかで、明菜はアイドルではなく、一表現者として、自分の立ち位置を探す試行錯誤を繰り返した。

 94年には初のカバーアルバム「歌姫」をリリース。幼い頃に親しんだ岩崎宏美の「思秋期」や日本のロック史に残る名曲、カルメン・マキ&OZの「私は風」などを独自の解釈で見事に昇華させた。96年には30歳を機に初のディナーショーにも挑戦したが、一方でトラブルメーカーのイメージが先行し、セールスは頭打ち。芸能界の仕事に不慣れな江田のマネジメントで、またしても現場に混乱が生じていた。

「江田さんは、人を介してショーケン(萩原健一)の所属事務所の元社長、桜井五郎さんの力を借りることにしたんです。桜井さんは寺内タケシとブルージーンズの歌手から、渡辺プロのマネージャーに転じた芸能界の裏も表も知り尽くしたような人物でした。破天荒なショーケンの全盛期を支えた手腕を見込んで、扱いが難しい明菜の調整役を期待したのです」(NAPCの元関係者)

 そして、明菜が社長を務めるNAPCは、桜井が率いる「インディジャパン」と業務提携し、テレビ局やレコード会社との交渉などのマネジメントを委ねることになった。当時は、MCAビクターとの契約が切れ、新たなレコード会社を探していた時期だったが、インディジャパンの紹介で、第一興商傘下のレコード会社「ガウスエンタテインメント」と契約。明菜にも、ようやく迷路の出口が見え始めていた。

 歌手だけではなく、98年1月からはサスペンスドラマ「冷たい月」(日本テレビ系)で久々に主演し、その鬼気迫る演技が好評を博した。

 当時を知るNAPCの元スタッフが語る。

「『冷たい月』は永作博美さんとの共演でしたが、番組の打ち上げで永作さんが泣き出してしまったんです。とにかく過酷な撮影スケジュールだったので、こみ上げるものがあったのだと思いますが、『明菜との共演が大変だったんだな』と受け取る人もいました。明菜さんは元来、生真面目で、融通が利かないところがありますから、演技の場面でも『おかしい』と思ったら遠慮せずに口に出してしまう。それで周囲が振り回されるんです。その代わり、本人も役作りに没頭しているので、悪気を感じることもないのです」

■保証人をつけてもなかなか部屋を貸して貰えない

 ドラマで幕を開けた98年は、新譜のリリースに続いてコンサートツアーの予定も入り、明菜にとっては久々に充実した日々だった。

「明菜さんは当時携帯電話を持っていましたが、その携帯は江田さんに預けたまま、まったく使っていませんでした。他人と個人的に連絡をとる意思もなく、その必要もなかったのでしょう。ただ、どこに行っても取材陣がいるので、保証人をつけてもなかなか部屋を貸して貰えず、8カ月近く都内のホテルに住んでいました」(同前)

 外出が減り、出不精になると、楽曲の制作意欲とは裏腹に、最初の一歩が踏み出せなくなっていた。

(文中敬称略、 後編 に続く)

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(西ア 伸彦/文藝春秋 2021年12月号)

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