「稽古はしません」「直前に集中して覚えます」茶道の先生を演じる樹木希林が“心からのお茶への理解”を諦めた“納得の理由”

「稽古はしません」「直前に集中して覚えます」茶道の先生を演じる樹木希林が“心からのお茶への理解”を諦めた“納得の理由”

©文藝春秋

 森下典子氏の人気エッセイを原作とする映画『日日是好日』では、茶道の先生役を樹木希林氏が演じた。しかし、樹木氏はこの役を演じるにあたり、「お茶の心を理解するところから役を作ることは諦めました」と、プロデューサーに宣言したという。名女優が、演じる対象への理解を諦めた。その言葉にこめられた真意とは。

 森下氏の著書『 青嵐の庭にすわる「日日是好日」物語 』(文藝春秋)より一部を抜粋し、映画製作時の秘話を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■樹木さんとの初対面

 樹木さんとの初対面は、十月半ばのことだった。場所は、都内の瀟洒なホテルの中にある静かなお茶室。その出会いは、まるでテレビドラマの画面の中から、樹木さんがつるりと抜け出て、目の前に現れたようだった。予定より少し遅れた樹木さんは、大島紬に渋めの帯という姿で、出迎えた吉村さんに「まあまあ!」と話しかけながら茶室に入ってきたが、私の顔を見るなり、

「あっ、やっぱり!」

 と、ポンと一つ、手を打った。

(「やっぱり」って、何だろう……)

 聞いてみたかったが、たずねそびれたまま、聞けず終いになってしまった。

 何年か前、「全身がん」という衝撃的な公表をしたのに、その時の樹木さんは、まるであの公表が嘘だったみたいに血色も良く、闊達だった。

 挨拶もそこそこに、

「先生、ちょっと」

 と、私の手を引き、部屋の隅に連れて行く。私は、「先生」なんて呼ばれ慣れていないので居心地が悪く、体の中で小さな虫がムズムズ動く。

「あの、『先生』じゃなく……」

「だって先生だもの」

 と、樹木さんは取り合ってくれない。その場に正座し、

「先生、見ててくださいね」

 と、手提げかばんの脇のポケットから朱色の帛紗を取り出して、帛紗の角を取って三角にし、両端を向こうに折り返して、さっと帯の左脇に下げた。

 その手の動きを見た瞬間、アッと思った。

■DVDで茶道を学ぶ

 帛紗を下から折り返すようにして帯から抜き取り、右手で角をとって帛紗を三角に広げ、両端を軽く折って、ポンと塵を打つ。それから帛紗を縦にし、指で屏風のように三つ折りし、それを二つに折って、さらに折り返す……。細く白い指が、まるで生きもののようにしなやかに動いた。

(できている……!)

 一緒にその手元を見ていた吉村さんが息を呑んだ気配で、私と同じことを感じたのがわかった。

 樹木さんが「秘密の特訓」を受けていたことを、私たちはその日初めて知った。樹木さん本人から、「お茶を教えて」と頼まれた観世さんは、自ら改めてお茶のお点前を習い直して、樹木さんに特訓してくださったそうだ。

 樹木さんは自宅でも、茶道のDVDを使って自習していた。DVDは、冒頭にお家元のご挨拶があり、実技のお点前が始まるものだった。

「それがね、『あっ、今のところ、もう一度見たい』と思って、ちょっと前に戻そうと思うんだけど、うちの機械が古いせいなのかしら、ちょっと前には戻せないの。初めからもう一回見なくちゃならないのよ。またお家元のご挨拶から始まるの。で、またお点前のところで、『あ、今のところ、もう一回』と思うでしょ。そのたびに、初めから見なくちゃならない。私、お家元のご挨拶を何回も聞いて、すっかり覚えちゃったわ」

 と言って、樹木さんはふふふと笑った。

■向けられた刃のような視線

 それから樹木さんは、私の着ていた小紋の着物をじーっと眺め、

「ほんとは私、今度の映画では自前の着物を着ようと思っていたのよ。でも、私の着物は、みんなちょっと外連があるのよね」

 外連とは、歌舞伎など演劇の言葉で、観客の目を驚かす演出のことだ。私は、以前雑誌のグラビアで見た映画賞の授賞式での樹木さんの衣装を思い出した。それは、大向こうを驚かす、奇抜な着物だった。あれは、樹木さんしか着こなせない……。

 けれど、茶人の着物として好まれるのは、派手過ぎず、地味過ぎず、奇をてらわない、オーソドックスなものだ。お茶会のたびに、数えきれないほどの着物姿を見てきたけれど、「色無地の一つ紋に、格の高い袋帯」これが、茶人の礼装のスタンダードである。

 樹木さんは、どうするつもりだろう……。

「先生、お点前見せてください」

 樹木さんは、サラッと言った。

「……はい」

 大女優の前で、お薄点前をすることになった。水屋に入って支度をし、茶道口を開け、一礼して顔を上げた瞬間、樹木さんの刃のような視線にギクリとして、身が締まった。点前を見ながら、樹木さんは手帳に猛烈な勢いで何か書き飛ばしていく。

 煮えの付いた釜が「しー」と鳴っている。その静かな「松風」と、茶筅を振るシャシャシャという音の向こうに、激しく鉛筆を走らせる音と、勢いよく手帳のページをめくる音が聞こえていた。

■きっぱりと「諦める心」

 樹木さんは、どうやらお抹茶の味が好きではないらしい。目の前に置かれた薄茶を、「私はいらないから、どうぞ」と、隣に譲った。

 そして、今度は、

「ねえ、濃茶ってどんなの? 見せて」

 樹木さんは、またサラリと言った。

「はい」

 私は、再び水屋に入って支度をし、濃茶の点前にかかった。

 同じ抹茶でも、濃茶と薄茶は種類が違う。濃茶は文字通り、濃く練るもので、味に深みとコクがある。茶入れは陶器で、仕覆という袋を着せて大切に扱う。だから、薄茶に比べてお点前が複雑で、使う抹茶の分量も多い。

「えっ! そんなにお茶入れるの?」

 と、樹木さんは目を丸くした。

「今、死ぬほど入れたわよね……」

 よく練って、とろりとした濃茶を差し出すと、樹木さんは沼でも見るように気味悪そうに覗き込んで、

「これ、飲めるの?」

 と、顔をしかめ、「私は結構」と、また隣に譲った。

 樹木さんは吉村プロデューサーに言った。

「あなた、えらいもんに手え出したわねぇ。これは大変。私、えらいもん引き受けちゃったわ〜」

 そして、きっぱりと宣言した。

「お茶の心を理解するところから役を作ることは諦めました。演技としてお点前を覚えます。稽古はしません。直前に集中して覚えます。そうしないと忘れちゃうから」

■茶室で「ピクニック」

 それから樹木さんは、

「私、さっき出がけに、おにぎり握ってきたのよ」

 と言うと、いきなり茶室に風呂敷を広げた。そして、ラップに包んだ玄米おにぎりとプラスチック容器を取り出して並べ、

「ほら、みんないらっしゃいよ」

 と、プロデューサーや監督にも手招きする。みんなで、茶室で車座になってピクニックのように樹木さんの玄米おにぎりをいただくことになった。

 おにぎりの具は、昆布の佃煮。プラスチック容器の中には、コンニャクと里芋と鶏肉の筑前煮、それから、ほどよく漬かったキュウリのお漬物。どれもよく味がしみて、おいしかった。

 樹木さんはホテルの前に停めてあったクラシックカーみたいな愛車に乗ると、

「先生、送ってあげるから、お乗りなさいよ」

 と、声をかけてくださった。

「これから、みなさんと打ち合わせなんです」

 と言うと、

「黙って言う事聞いてると、便利に使われるわよ。気をつけてね」

 と、手を振り、颯爽とハンドルを切り、走り去った。

【後編を読む】 「あ〜、大変だった。もうくたくたよお」女優・樹木希林が映画撮影でみせた、原作者の度肝を抜く“神業”とは

「あ〜、大変だった。もうくたくたよお」女優・樹木希林が映画撮影でみせた、原作者の度肝を抜く“神業”とは へ続く

(森下 典子/ライフスタイル出版)

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