「あ〜、大変だった。もうくたくたよお」女優・樹木希林が映画撮影でみせた、原作者の度肝を抜く“神業”とは

「あ〜、大変だった。もうくたくたよお」女優・樹木希林が映画撮影でみせた、原作者の度肝を抜く“神業”とは

©文藝春秋

「稽古はしません」「直前に集中して覚えます」茶道の先生を演じる樹木希林が“心からのお茶への理解”を諦めた“納得の理由” から続く

 何気ない所作一つひとつに型がある茶道の「お点前」は、稽古を通じ、長い時間をかけなければ、真似をすることすら困難なものだ。映画『日日是好日』で茶道の先生役を務めた樹木希林氏は、どのようにしてそうした「お点前」を身につけたのだろうか。

 ここではエッセイストとして活躍する森下典子氏の著書『 青嵐の庭にすわる「日日是好日」物語 』(文藝春秋)の一部を抜粋。森下氏をあっと驚かせた名女優の「神業」を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■初釜の濃茶点前

 それは突然やってきた。

 「初釜」の撮影を翌日に控えた夕方、樹木さんの控え室に呼ばれた。

「お濃茶、見せて頂戴」

「……は、はい!」

 入り口でそれを聞いていた助監督の森井さんがパッと動いた。

 控え室の左右の壁際にはパイプ製のハンガーラックにびっしりと衣装がぶら下がっている。その衣装の林をかき分けるようにして、畳の上に、及台子という大棚が運び込まれた。そして水指、杓立て、建水、仕覆に入った茶入れ。金銀の嶋台茶碗など……。

 樹木さんは椅子に座って、森井さんと萬代さんが道具を運びこみ、てきぱきと置き合わせるのを眺めながら、

「あなたたち、ちゃんとお茶の稽古をしたから、さばきがいいわね〜」

 と、感心している。

 道具がすべて運び込まれると、私は道具の位置を確認し、棚の正面に向かって居前を正した。静かに呼吸を整え、「では、始めます」と、言った。

「どうぞ」

 その低く厳かな声は、さっき助監督たちに感心して話しかけていた人の声とは別人のように聞こえた。樹木さんはいつの間にか衣装の林を背に正座し、抜き身の刃のような眼差しを私の手元に向けていた。

 その厳しい視線に緊張し、私は初っ端で手順を間違えた。

「あ、すみません。やり直します」

「………」

 「張りつめた空気」という表現を、私はこれまで随分使ってきたけれど、本当に空気が張りつめると音が聞こえることを初めて知った。まるで窯から出したばかりの薄いガラスが鳴るように、ピキン! ピキン! と、音がした。

 樹木さんは何も言わず、冷徹な眼差しで私の手の動きをじーっと見つめながら、メモを書きなぐる。

 肌がヒリヒリするような沈黙の中で、私がお湯を注ぐ音や、茶筅を振る音と、樹木さんが猛然と鉛筆を走らせ、勢いよくメモのページをめくる音が、ぶつかり合って火花を散らしている気がした。

 点前が終わった。

「もう一回、見せて頂戴」

 樹木さんは低い声で言った。

「はい」

 私はもう一度、最初から点前を始めた。書きなぐる鉛筆の音、紙をめくる音が、今度も続いた。二度目の点前が終わった。

「もう一回、見せて……」

 私は三度、点前を繰り返した。その三度目が終わった時、樹木さんは、

「それじゃ、今度は私がやるから見ててね」

 と、言って、私と入れ替わりに、棚の前に座った。

「始めます……」

「では、杓立てから火箸を引き抜きます。左手に持ち変えて手を伏せ……棚の脇に少し出して置きます。……茶入れを右に寄せて……金の茶碗をとって、置き合わせます。それから建水を両手で取って……」

 私は横に座り、手順を説明しながら、樹木さんの手の動きに驚いた。その手は、私の説明より先に動いていく。樹木さんはもう点前の流れをつかんでいたのだ。何度か、ふっと手が止まり、迷う場面があったが、私が「水指の蓋」などと言うと、すぐに動き出す。お点前が最後まで終わった。

「もう一度、やるから見てて」

 樹木さんは、そのまま二度目の点前を始めた。もうほとんど手が止まることはなかった。

 私は自分の目で見たものが信じられなかった。恐ろしい記憶力……。いや、樹木さんは「順番」を記憶したわけではないような気がする。信じがたいが、私の点前を丸ごとコピーし、再現しているように見える。

 二度目のお点前が終わると、樹木さんは、「もう一回、やります」と、言った。

 そばで見ていた森井さんが「何も言わずに見ていてください」と私に耳打ちした。私は黙って見ていた。点前の精度が上がっている。

 樹木さんは三度目の点前を終えると、

「わかりました……」

 と、静かに頷いた。

(えっ、これでおしまい?)

 呆気にとられた。

 明日は撮影。このまま、本番を迎えるのだろうか……。

 樹木さんは、器に汲んだ水をこぼすまいとするかのように、そっと立って、一切おしゃべりもせず、そのまま愛車オリジンを運転して帰ってしまった。

 ……K子さんが、黒木さんと多部さんの稽古の後で言ったことを思い出した。

「私の動きを見て、すぐ同じようにできるの。女優さんて、そういう能力に長けている人たちなのね」

 吉村プロデューサーも、「能力」という言葉を使った。

「空間認知能力が飛びぬけているんですよ、あの人たちは」

 空間認知能力とは、物の位置、方角、姿勢、形状などを一瞬にして正確につかむ能力だ。その秀でた能力で人の動きを的確につかめるとしても、たった三回見ただけで、濃茶の点前を丸ごとコピーするなんて、神業だった。

■「やるから見ててよ」

 撮影当日、現場では着々と準備が行われていた。

 床の間には、初釜の席に掛けられる「春入千林處々花」の軸と、白木の三方に載せられた小さな金の米俵が三俵。そして、床柱には青竹の花入れが掛けられて、そこに紅白の椿の蕾と、結び柳のたわわな枝が入るのを待っていた。

 初釜に参加する生徒役の女優陣も、華やかな着物姿でスタンバイしていた。

 台所では、小道具の今村昌平さんが黙々と初釜のもてなし料理を作っていた。お盆の上には、黒い縁高とお椀が並び、手前には両細の箸と朱塗りの盃が置かれている。今村さんが、お椀の蓋を開けて見せてくれた。お椀の中味は映らないのに、ちゃんと京風の白味噌仕立ての鴨雑煮である。漆塗りの縁高の中にはくわい、菊花かぶ、ごまめ、黒豆と長老喜などが盛りつけられ、黒豆には丁寧に松葉が刺してある。

「そこ、通りまーす!」

 外から細長いパイプのような機材が次々に運び込まれてきた。ガチャン、ガチャンと連結されて、畳の上に長いレールが敷かれた。そのレールの上に、カメラが設置された時、心が躍った。颯爽と町を歩く女優を、レールに載せたカメラが移動しながら撮る撮影風景をテレビで見たことがある。このカメラは、畳の低い位置をゆっくり移動しながら、初釜のお点前を撮影するのだ。これもまた、カッコいい……。

 いよいよこれから濃茶点前の撮影が始まる。

 その時、樹木さんが控え室から小走りに出てきて、「ちょっと」と、私の手を引っぱり、及台子の前に連れていかれた。

「やるから見ててよ」

「わかりました」

 本番直前のおさらいである。

「火箸は、もう少し下を通りましょう」

 などと、小さな注意を一つ、二つ。あとは完璧だった。

 数あるお点前のシーンの中の大一番が始まる……。

 生徒役の女優たちも席について、準備はすべて整った。

 監督の「よーい……」の声に、まわりは風のない湖面のように静まった。

 「スタート!」の声が、芝居の柝の音のように聞こえた。

 モニター前に集まったスタッフたちは、身じろぎもしなかった。私は両手をギューッと強く握りしめたまま、頭の中で樹木さんと一緒にお点前をしていた。

 カメラは、居並ぶ着物姿の生徒たちの後ろをゆっくりと移動しながら、樹木さんのお点前を撮っていく。

 モニターをじっと観ながら、私は樹木さんの所作の端々に、なぜか武田先生を感じた。仕覆の口を広げて、着物を脱がせるように茶入れを取り出す時の、小さくて大切なものを扱う指の動き。帛紗で茶入れを拭き下ろす時の、右肩で一瞬止まるタイミング。たっぷりと汲み上げた湯を、嶋台茶碗へ運ぶ、ゆるやかな動線。

 長い長いお点前だった……。そして、

「カーット!」

 監督の声がかかった。

 その直後、樹木さんが「大丈夫だった?」と、こちらを見た。

「茶道、OKですか?」

 大森監督と助監督も、同時にこちらを振り向いた。

「OKです!」

 一発OK。その瞬間、息もせず見守ってきたモニター前のスタッフから、「はぁ〜」と、一斉に安堵のため息が漏れた。

 人間業ではないものを見た気がした。

 集中から解き放された樹木さんは、急によれよれとして、「あ〜、疲れた」と、呟いた。

 難航したのは、別撮りの、濃茶を練る樹木さんの手のアップの撮影だった。

 カットがかかった途端、K子さんと私は「練りが足りません」と手を上げた。

 薄茶はサラサラと点てるが、濃茶はたくさんの抹茶を茶碗に入れ、適量のお湯を注いで練り混ぜる。お湯も、一度に全部入れるのではなく、二回に分ける。最初にお湯とお茶を、ダマができないように気を付けながらよく練り混ぜて、二回目のお湯を必要な分量だけ注ぎ足して、細かく練り、とろりとした濃茶にする。

「樹木さん、もっと練ってください。今の三倍の回数、練るつもりで」

 撮り直しになった。しかし、二度目もまだ練りが足りない。

「樹木さん、もっともっと練ってください。手首を使って、ココアを溶くように。途中で、お茶の感触が変わりますから、それを感じてください」

 と、説明したが、樹木さんは「それがわからないのよう」と言う。

「あなた、私の前でサインを出してくれない?」

「よし! ここに台を置こう」

 大森監督が、カメラのすぐ脇に、蜜柑箱のような台を置かせた。

「森下さん、ここに座ってください」

「はい」

 私は蜜柑箱に腰かけて、樹木さんにサインを出すことになった。

「私が右手首をぐるぐる回している間は、練り続けてください。一度、手を下ろしますから、そしたら、お湯を少し足してください。その後、また手首をぐるぐる回しますから、その動きが止まるまで練り続けてください」

「よーい……スタート!」

 カメラが回り始めた。私は無言で手首をぐるぐる回し続けた。樹木さんが時々顔を上げ、私を見て、(まだなの?)と、目で訊いてくる。

 私は(まだです)と、首を横に振り、手首を回し続けた。

 (え、まだなの?)と、びっくりしたような目の樹木さん。

 (まだです)と、私。

 やがて、大森監督も(えー? まだなんですか?)と、私に驚きの目を向ける。

 (まだです)

 一度、手を下ろして、少し湯を足すサインを出した後、私はまた手首をぐるぐる回した。

 樹木さんと監督が、代わる代わる、目で訊いてくる。

(まだなの?)

(まだです)

(まだですか?)

(まだです)

 やがて、モニターに映るお茶の深緑に、トロリとした艶が出てきた。私はそっと手を下ろした。

「カーット!」

 と、監督の声がした。

「OKですか?」

「OKです」

 その途端、樹木さんは、後ろにお尻をついてへたり込んだ。

「あ〜、大変だった。もうくたくたよお」

 そう言って、やっと立ち上がると、

「終わったら、脱ぎ捨てるようにぜ〜んぶ忘れるの。もうなんにも覚えてないわ」

 と笑いながら控え室に引き上げて行った。

【前編を読む】 「稽古はしません」「直前に集中して覚えます」茶道の先生を演じる樹木希林が“心からのお茶への理解”を諦めた“納得の理由”

(森下 典子/ライフスタイル出版)

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