「怖かった、正直」「不安と戦っていくしかないと思った」華々しいデビューから一転“不遇の時代”に…嵐メンバーが振り返った“辛い記憶”

「怖かった、正直」「不安と戦っていくしかないと思った」華々しいデビューから一転“不遇の時代”に…嵐メンバーが振り返った“辛い記憶”

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 2019年1月27日、人気絶頂の中で活動休止を発表した嵐。シングル曲「A・RA・SHI」で華々しいデビューを飾り、国民的アイドルグループとして長きに渡って多くの人々に愛された彼らだったが、音楽ジャーナリストとして活躍する柴那典氏によると、そのキャリアは常に順風満帆なわけではなかったという。

 ここでは同氏の著書『 平成のヒット曲 』(新潮新書)の一部を抜粋。嵐メンバーが不遇の時代に抱えていた胸の内、そして嵐が社会に与えたさまざまな影響について紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

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■嵐の「国民的ヒット曲」とは何か

「ウィー・アー・嵐!」

 松本潤がカメラ目線で叫び、赤いスーツに身を包んだ5人が歌い踊る。2009年、紅白歌合戦に初出場を果たした嵐は、まごうことなき国民的アイドルだった。ステージを降り、審査員席に並ぶ芸能人やスポーツ選手と握手して回るその姿には、スターの貫禄が宿っていた。

 この年の紅白歌合戦で披露したのは、メドレー形式の4曲。デビュー曲の「A・RA・SHI」、2007年にリリースされた代表曲「Love so sweet」と「Happiness」、そして2009年のナンバーワンヒット「Believe」からなる「嵐×紅白スペシャルメドレー」だ。初出場としては異例の長さの約4分である。

 この年の主役は間違いなく嵐だった。オリコン年間ランキングのシングル部門は1位『Believe/曇りのち、快晴』、2位『明日の記憶/Crazy Moon 〜キミ・ハ・ムテキ〜』、3位『マイガール』とトップ3を独占。アルバム部門ではベストアルバム『5×10 All the BEST! 1999-2009』が1位となり、映像作品部門、トータルセールスも含む4冠を達成している。

 とはいえ、彼らが辿ってきたのは順風満帆のキャリアではなかった。1999年の華々しいデビューから一転、00年代前半には人気が伸び悩んだ不遇の時代もあった。しかし、メンバーそれぞれのテレビでの活躍、特に高視聴率を記録した松本潤主演のドラマ『花より男子』(TBS系、2005年)をきっかけに知名度が高まり、2006年にはアジアツアー、2007年には初の東京ドーム公演、2008年には初の国立競技場公演が実現。大きくブレイクを果たしていく。

 2019年6月29日放送の『SONGS』に出演した嵐の5人は、この時期を「怖かった、正直」(相葉)、「街中で自分の顔がいっぱいあったりすると理解できなかった」(大野)、「先が見えづらくなったということなのかもしれない」(松本)、「自分を強く持って不安と戦っていくしかないと思った」(相葉)と振り返っている。プレッシャーは相当のものだっただろう。しかし2020年末をもって活動を休止するまで、嵐は第一線を走り続けた。平成という時代の“顔”であり続けた。

 ただ、ヒット曲という切り口で嵐のことを考えると不思議な点がある。

 嵐は平成を代表する国民的グループだ。トップセールスのシングルだって沢山ある。2008年の『truth/風の向こうへ』、2009年の『Believe/曇りのち、快晴』は共にオリコン年間1位であるし、AKB48が上位を席巻するようになった2010年以降もシングルはほぼ年間TOP10入りを果たしている。しかし、嵐の「国民的ヒット曲」は何かと考えると悩んでしまう。

 ファンだけでなく多くの人が曲名だけでサビのメロディと歌詞のフレーズを思い浮かべられるような歌を「国民的ヒット曲」とするならば、嵐の場合、それはどの曲になるのだろう。デビュー曲の「A・RA・SHI」だろうか。ドラマ『花より男子2』主題歌の「Love so sweet」だろうか。もしくは誰もが認める人気者となった2008年の「One Love」や2009年の「Believe」だろうか。もしくは、グループ初のミリオンセラーとなった2020年の「カイト」だろうか。

 そう考えていくと、嵐というグループの巨大な人気とセールスに対して、曲自体が流行歌として多くの人に歌われて広まったり、社会現象を巻き起こしたり、時代の象徴になったような例が少ないことがわかる。

 そのことを傍証するのがカラオケのランキングだ。DAMとJOYSOUNDがそれぞれ発表している年間カラオケランキングでは、1999年から2020年の間で年間20位以内に入った嵐の楽曲は1曲もない。

 相葉雅紀・松本潤・二宮和也・大野智・櫻井翔という5人の名前と顔は広く知られていたけれど、その存在感に比べると、世代を超えて誰もが思わず口ずさんでしまうような嵐のヒットソングは多くない。そういう意味では、後述するいきものがかり「ありがとう」のヒット曲としてのあり方とは対照的だ。

■嵐と日本のヒップホップとのミッシングリンク

 嵐の音楽性とその背景の時代性を考える上では、もうひとつの特筆すべき点がある。

 それは、彼らがヒップホップの、日本語ラップのカルチャーをアイドルグループとして取り入れた先駆的な存在だった、ということだ。

 デビュー曲「A・RA・SHI」が、そもそもラップを大々的にフィーチャーした一曲だった。この曲がリリースされた1999年はDragon Ash「Grateful Days」がヒットし、この曲にフィーチャリングで参加したラッパーZeebraの「俺は東京生まれ HIP HOP育ち」というリリックが一世を風靡した年である。

 嵐においてデビューからラップを担ってきた「東京生まれ ジャニーズ育ち」の櫻井翔もまたヒップホップに大きな影響を受けた少年時代を過ごしてきた。

 Netflixによるドキュメンタリー『ARASHI’s Diary -Voyage-』のエピソード8「SHO’s Diary」で明かされた彼のヒップホップとの出会いは、中学校1年生の時に聴いたスヌープ・ドッグの「Who Am I(What’s My Name)」(1993年)。2008年10月25日に放送されたTBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』の嵐特集に櫻井が寄せたコメントでは、1996年、彼が中学校3年生の時に日比谷野外音楽堂で開催された日本のヒップホップの伝説的イベント「さんピンCAMP」にも影響を受けたことを明かしている。好きなアーティストにZeebra、ライムスター、BUDDHA BRANDやShing02を挙げるコアな日本語ラップのファンでもあった。

■「ラッパーがいるアイドルグループの先駆的な存在」として知名度を広めていくことはなかった

 RIP SLYMEやKICK THE CAN CREWがブレイクを果たし、ラップをフィーチャーしたヒット曲が日本においても珍しいものではなくなっていった00年代前半の音楽シーンの潮流とも嵐は並走していた。

 櫻井が出演したドラマ『木更津キャッツアイ』(2002年)の主題歌「a Day in Our Life」は少年隊の楽曲「ABC」をサンプリングし、櫻井のラップを大々的にフィーチャーした一曲だ。楽曲を手掛けたのはDragon Ashとも頻繁にコラボしていたミクスチャー・バンド、スケボーキングのSHUNとSHUYAである。

 そして、デビュー曲では作詞家が書いたフレーズをラップするだけだった櫻井も、2ndアルバム『HERE WE GO!』(2002年)収録曲「Theme of ARASHI」ではすでに自らリリックを書くようになっていた。『ARASHI’s Diary -Voyage-』ではデビュー後に知り合ったm-floのVERBALから「櫻井君、せっかくラップやってるのになんで自分で書かないの」と言われて衝撃を受けたことがきっかけだったと明かしている。

 そうして櫻井が書いたリリックは徐々にオリジナリティを研ぎ澄ませていった。アルバム『ARASHIC』(2006年)のリード曲「COOL & SOUL」は全編彼の手によるラップが押し出され、『Dream “A” live』(2008年)収録の「Hip Pop Boogie」には「大卒のアイドルがタイトルを奪い取る」という、韻を踏みつつ自身のアイデンティティを表明するパンチラインもある。

 しかし、こうした楽曲がシングル表題曲としてヒットし、嵐が「ラッパーがいるアイドルグループの先駆的な存在」として知名度を広めていくことはなかった。

 こうした櫻井のラッパーとしてのスタンスは「サクラップ」という愛称と共にファンには親しまれてきたが、櫻井自身も親交のあったケツメイシやm-floとの同時代性が語られることはほとんどなく、ヒップホップがJ-POPのメインストリームに浸透していった00年代の潮流の中で嵐という存在が正当に評価されてきたとは言い難い。そのことも不思議な点だ。

『ARASHI’s Diary -Voyage-』にはm-floのVERBALも登場し、櫻井との対談で「TERIYAKI BOYZ始めたから一緒にやんない? とか、そんな話も俺たちしてたよね」と、結成前のTERIYAKI BOYZのメンバーに櫻井を誘っていたことも明かしている。

 そのTERIYAKI BOYZが、カニエ・ウェストやファレル・ウィリアムスとの共演も実現したアルバム『SERIOUS JAPANESE』をリリースしたのが2009年である。クリス・ブラウンやマーク・ロンソンも楽曲のプロデュース陣に並んだ本作は、日本が海外のヒップホップやポップミュージックの第一線と結びついたこの時期唯一の作品だ。

■嵐とアジアのポピュラー音楽の勢力図

 2019年、デビュー20周年を迎えた嵐は、公式YouTubeチャンネルを開設しミュージックビデオを解禁。ストリーミングサービスでも楽曲を配信し、SNSでの公式アカウントも開設した。11月には初のデジタルシングル「Turning Up」を発表し、2020年1月には世界的に活躍するオランダ出身のEDMアーティスト、R3HABによる同曲のリミックスを発表。9月にはブルーノ・マーズが楽曲制作とプロデュースを手掛けた全英語詞の「Whenever You Call」をリリースしている。

 2020年、活動休止を目前に控えた嵐は、まさに“J-POP代表”として海外のポップミュージックの第一人者とクリエイティブな結びつきを果たしていた。

 10年代はBIGBANGやBTSなどK-POPのボーイズグループがEDMやR&Bやヒップホップなど北米のポップミュージックの潮流と同時代性を持った音楽性でアジアから世界各国へと支持を広げていった時代でもある。

 もし嵐の動きが10年早かったら。2009年の時点で本格的な海外戦略とデジタル配信に舵をきっていたら。ひょっとしたら、アジアのポピュラー音楽の勢力図は違った様相を見せていたかもしれない。そんなことも考えてしまう。

【前編を読む】「他人事みたいな部分がありました」安室奈美恵が抱えていた歌手活動の意外な悩み…苦心の果てに辿り着いた“転機”とは

(柴 那典)

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