「夢は『美 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代《真珠湾攻撃から80年》

「夢は『美 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代《真珠湾攻撃から80年》

メリー氏

《秘蔵写真》「FBIに捉えられ、便器に頭を入れて寝た父」真珠湾攻撃から80年、“もうひとりのジャニー喜多川”を直撃 から続く

 真珠湾攻撃の日、ジャニー喜多川は10歳だった。後年、彼とともにジャニーズ事務所を支えた姉のメリーは13歳、真ん中の真一は11歳。高橋家の子どもたちより年長とはいえ、アメリカに残留していたら同じ苦境に立たされていただろう。(全2回の2回目。 前編 を読む)

◆ ◆ ◆

■足繁く別院に通ったジャニー

 日米開戦時、大阪にいた喜多川姉弟は、空襲が激しくなると和歌山に疎開した。そして終戦から4年後、米国生まれのため米国籍を持っていた3人はアメリカを目指す。敗戦後の占領下で海外渡航が極端に制限されていた時代に、彼らが渡米できたのはそれゆえのことだ。惨めな被占領国、日本にいた姉弟が、戦勝国、アメリカの特権を活かすのは当然ともいえる選択だった。

 高橋家がロサンゼルスに戻ったのは、終戦翌年の5月。住居を失っていたので、この時も、日本人街「リトル東京」の高野山米國別院に仮住まいした。別院は戦後、収容所から戻ったものの行き場のない日系人のために建物を開放していた。

 渡米した喜多川姉弟も別院の人脈を頼る。姉弟が身を寄せたのは、リトル東京の隣町にある別院総代の家だった。

 そんなある日、フランシスさんとジャニーは別院で出逢い、件の写真(下)を撮ったのである。

 ジャニーは足繁く別院に通った。なぜなら、そこには、大好きな芸能が溢れていたからだ。父、諦道が力を注いだ奉納芸能は、その後も脈々と引き継がれていた。別院は1940年に建て替えられたが、本来なら半分の広さで充分な本堂をあえて1000席収容の大本堂に設えた。「日系人社会向上を願って、演芸・音楽・茶道・華道の紹介と普及のホール」(前出『アメリカ開教』)とするためだった。

 生前のジャニーは、数少ないインタビューのなかでこう述べている。

「終戦直後のことですからね、とにかく場所がないでしょう。当時日本から公演に来られた芸能人の方々は皆さん、うちの教会(注・別院のこと)を劇場代わりに使って下さったんですよ。その頃一番最初に来たのが女優の田中絹代さん。そして山本富士子さんが初代ミス日本として。ひばりさんが12歳でアメリカに来た時のことはいまでも鮮明に覚えています」(「週刊SPA!」1990年7月4日号)

■「マネージャーとしての意識を芽生えさせるキッカケに」

 確かに、別院が刊行した『五十年史』や『百年史』には、戦後、本堂で人気絶頂の浪曲師、広沢虎造や漫談家の草分け、大辻司郎が演じたり、田中絹代が婦人会と交流したことが記されている。とはいえ、ジャニーの発言後半部分はいささか誤解を与える。山本富士子や美空ひばりが、別院で公演した記録は見当たらないのだ。

 別の雑誌によるジャニーのインタビューを読んでみよう。

「たまたま親戚に宮武東洋という写真家がいましたので、彼ら(注・日本の芸能人)のブロマイド写真を無料で撮ってもらうように頼んだんです。そして、場内でそれを売って、その売り上げを全部、日本から来たアーチストにあげたんです。僕はまだ子供だったけど、(美空)ひばりちゃんを始めとして、アメリカに来たアーチストには全部関わっているんですよ」(「VIEWS」1995年8月号)

 宮武東洋は、戦前からロサンゼルスやハリウッドで活躍した日系人のカメラマンで、別院近くに写真館を構え、また別院の檀家でもあった。人気カメラマンの宮武は、終戦直後に、日本からロサンゼルスを訪ねた著名人をほぼ全員といっていいほど撮影した。宮武のアルバムには、1953年に訪米した当時の皇太子(現上皇)の姿も見られる。

 しかし、宮武家の家系図に喜多川の名は一切見られない。どうやら、ジャニーは宮武写真館でアルバイトをしていただけのようだ。高齢の別院信者がこんな証言をしている。

「ヒー坊(注・ジャニーの渾名)もここへ来て働いていたわね。カメラマンがスターの写真を撮って、そのブロマイドを売っていたのを覚えています」(『ワシントンハイツ』秋尾沙戸子著)。

 事情を確かめるべく、宮武の次女、ミニー・タカハシさん(83)を訪ねると、

「ヒー坊たち姉弟は、よくうちに遊びに来ていました。あの頃の写真館には、現像、紙焼き、撮影助手と、いくらでも仕事があったので時にはアルバイトもしたでしょう。でも、多忙とはいえ、我が家の暮らしにそれほど余裕はありませんでした。私たちも収容所に送られたので、父は戦後、一からやり直した。ブロマイドの売り上げを全額、日本の方々に渡したりはできなかったはずですよ」

 と、小さく笑って答えた。

 とまれ、別院や宮武写真館での体験が、父譲りの芸能好きな血をたぎらせた。ジャニー自身は、「今から考えるとそれが自分の中にマネージャーとしての意識を芽生えさせるキッカケになりました」と述懐している。(前出「週刊SPA!」)。

■寺は生涯忘れ得ぬ場所

 フランシスさんは、その後、名門、南カリフォルニア大学を卒業。就職、結婚、出産、子育てと、人生を重ねていくなかでも一貫して別院の活動に勤しみ、現在は総代を務める。

 一方ジャニーは、渡米翌年の1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米国籍のため米陸軍に徴兵された。朝鮮半島での兵役を終えた彼はアメリカに戻らず、中継地の日本に留まりジャニーズ事務所を創設する。

 そんなジャニーにとって、別院は、青春の一時期を過ごした生涯忘れ得ぬ場所だった。別院檀家代表のリチャード・ナルミさん(62)が、ジャニーの晩年を振り返った。

「ジャニーはロサンゼルスに来ると、必ず別院に寄って寄付をしてくれました。2018年には、ジャニーから事務所所属の人気グループ、『美 少年』を別院で公演させたいとオファーがありましてね。僕らは、驚くやら、うれしいやら。彼らを高野山米國別院の舞台に立たせるのが、ジャニーの夢とのことでした」

「美 少年」の別院コンサート、「ありがとう高野山」は2019年8月に実現した。それは、ジャニー喜多川の逝去からわずか1カ月後、“美少年”だったヒー坊がフランシスさんと写真に収まってから70年後のことだった。

(文中一部敬称略)

(柳田 由紀子/文藝春秋)

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