上白石萌音、深津絵里、川栄李奈…“3世代の物語”「真の主人公」は誰だったのか〈『カムカムエヴリバディ』最終回〉

上白石萌音、深津絵里、川栄李奈…“3世代の物語”「真の主人公」は誰だったのか〈『カムカムエヴリバディ』最終回〉

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 数多くの賞を受賞し、朝ドラ史上最高傑作の呼び声も高い名作『カーネーション』の最終回、名高いラストシーンは(知りたくない人は読むのをご注意いただきたいが)、主人公の死後、幼馴染の奈津が主人公の生涯を描いた朝ドラ『カーネーション』の放送開始を病院のテレビで見る場面で終わる。物語の始まりと終わりが輪廻するような渡辺あやの脚本に対する賞賛は、時をこえて今も止むことがない。

 4月4日月曜日、『カムカムエヴリバディ』の最終週第1日目のオープニングはそのオマージュではないか、という声がSNSでは溢れた。

 西暦何年かはわからない未来の日本で、白髪になった錠一郎とるいが未来のひなたとスマートフォンで話したあと、「朝ドラの時間やで」とテレビをつけると、そこから主題歌「アルデバラン」が流れるオープニングの画面に繋がる。ジョーとるいが『カムカム』を見ている、と解釈することもできるが、単にカットの繋ぎでそう見えた、と解釈することもできる場面だ。

 だがいずれにせよそれは、物語のラストシーンではない。最終週のサブタイトルは「2003-2025」。『カムカム』の最終回が放送される2022年より3年先まで物語が進むことが予告されている。

■文四郎へのブーイングが、作品への不満に延焼しなかった理由

 最終回が未来に進む朝ドラといえば、前クールの『おかえりモネ』のラストシーン、感染症の流行が一段落した近未来で再会する百音と菅波先生を思い出す。だが『カムカムエヴリバディ』はわざわざその前週で本郷奏多演じる五十嵐文四郎を再登場させ、視聴者に期待させた末に「デイジーとの結婚」を告げさせて、強烈な肩すかしを食わせる。

 SNSでは文四郎へのブーイングが吹き荒れたが、それが脚本や作品への不満に延焼しなかったのは、その場面が「ひなたのゴールが文四郎ではない、この物語の結末はそこではない」とわざわざ最終週の前週に念を押すように描かれたことを視聴者が感じているからだろう。

 第104話では『オードリー』の最終回が引用され、「オードリーのヒロイン美月は、連続テレビ小説には珍しく、結婚も出産もしないまま最終回を迎えました。美月と共通点の多いひなたは、これからどうやって生きていくべきか、漠然と考えていました」というナレーションが挿入される。

■『カムカム』はなぜ何度も朝ドラを引用するのか?

 朝ドラを引用する朝ドラ、と『カムカムエヴリバディ』はよく表現される。だが、ラジオ英会話を主題にした「百年の物語」がこれほど何度も過去の朝ドラを引用するのは、もうひとつの理由があるのではないかと思う。

 物語に併走し続ける2つのモチーフ、「ラジオ英会話」と「連続テレビ小説」にはいくつかの共通点がある。基本的には平日毎日、15分ずつ放送されるNHKのコンテンツであること(ラジオ英会話は90年代に20分に拡大されているが)。そしてもう一つは、それを必要とする人々が、決してエリートではない市井の人々であることだ。

 安子、るい、ひなた、という3世代のヒロインは、いずれも若き日に大学に進学していない。女が大学へ行くなど夢物語だった時代の安子、母のいない実家を飛び出すように働き始めたるい。そして将来に迷いながら就職したひなたは、いずれも学校教育ではなく、ラジオで英語を学びはじめる。

 ある意味それは必然で、塾や家庭教師、あるいは大学の英文科と言った優れた教育環境に恵まれた人々は、毎日15分のラジオで英会話を学ぶ必要などないからだ。

 自分を語る言葉として英語を発見する安子、そしてその安子に「I Hate You」を突きつけるるいを見ても、物語の中で英語が単なる外国語ではなく、自己表現の獲得を隠喩していることがわかる。そして何度となく繰り返し引用される過去の連続テレビ小説もまた、「自分の物語を語る言葉」として『カムカム』の中で描かれているのだ。

■朝ドラ好きの雪衣が、テレビから獲得してきた教養

 それは単なる朝ドラスタッフの自画自賛ではない。記念すべき第1作の朝ドラ『娘と私』を見つめる雪衣は、現実のるいに背を向けてドラマの中の美談に夢中になる女性として、ある種の痛烈なアイロニーをこめて描かれている。だがその雪衣は、第98話で第1作から欠かさずすべての連続テレビ小説を見てきたことを錠一郎に語る。そして、107話ではるいに過去を謝罪し、病室で連続テレビ小説を見る日々を送って生涯を終える。

 雪衣は安子やるいやひなたのように、ラジオ英会話で英語を学ぶことはついになかった。だが物語は明らかに、3世代ヒロインにとっての英語の位置に、雪衣にとっての連続テレビ小説を配置している。それは安子と同じ世代の主婦である雪衣がテレビから学び、獲得してきたささやかな教養であり、言語なのだ。

 母を失ったるいが、ラジオから流れる英語講座を聴き続けてきたように、雪衣にとって連続テレビ小説が自分の内面に語彙を与える人生の伴走者だったことが描かれ、雪衣は自分の内面を言語化し、るいに謝罪する。「みんな間違うんです。みんな」るいはそう答え、その謝罪を受け入れる。

■「女が見るような…」かつて朝ドラは一段低く見られていた

 優れた批評がクリエイティブな側面を持つように、優れた創作物もまた批評的な側面を持つ。『カムカムエヴリバディ』は表向きは毎日15分のラジオ英会話をメインテーマに据えながら、同時に「日本の女性にとって連続テレビ小説とはどのような存在であり続けたのか」という朝ドラ論を物語の裏面で描いている。本当はそれは順序が逆で、ラジオ英会話というテーマが朝ドラの隠喩として選ばれたのではないかと思うほどだ。

『カムカムエヴリバディ』に登場する人々は、決して先進的な、世に名を残す人々ではない。それはラジオ英会話や朝の連続テレビ小説が、そういう人々のためのメディアだからだ。

 今でこそ渡辺あやの『カーネーション』や宮藤官九郎の『あまちゃん』そして藤本有紀の『ちりとてちん』といった名作の完成度によって社会的評価が高まった朝ドラだが、映画や社会派ドラマに比べて「女が見るようなドラマ」として一段低く見られた時期はあった。

 だが『カムカムエヴリバディ』は、まさにその「女が見るドラマ」から日本の女性が何を学び、彼女たちをどう変えていったかを、15分のラジオ英会話が毎日少しずつヒロインたちの人生を変えていく姿と重ねるように描いていく。

 英語が安子やるいを変えるように、朝ドラは雪衣の心を長い時をかけて変える。ラジオ英会話と連続テレビ小説は、この物語の表裏、車の両輪なのだ。

■アニーの告白は一発撮りだった

 百年の物語はいよいよその幕を閉じようとしている。異例の3世代ヒロインを演じた3人の主演女優はいずれも見事な演技を見せた。上白石萌音は序盤の安子シークエンスを演じ切ったあと、通常のスケジュールであれば出演不可能であった舞台『千と千尋の神隠し』で主演として連日高い評価を獲得している。

 深津絵里の活躍にいたってはもう説明不要だろう。109話、謎の老女アニーがその出自を明かすクライマックスでは、アニー=安子の数分間にわたる告白の間、演出はすべての音楽を止め、映像のほとんどを深津絵里演じるるいのクローズアップで埋めた。「ドキュメンタリーのような一発撮り」と演出の安達もじりが語るその映像は、まばたきもせず、雷に打たれたように凝固するその表情からやがて涙が溢れだすまでの感情の動きを、すべて深津絵里の演技力に委ねた大胆な演出だった。

 これほどの演技を見せながら、深津絵里はいくつかの公式コメントと雑誌インタビューを除いて、いまだほとんどメディアへの露出をしていない。『カムカムエヴリバディ』製作発表の場でヒロインが揃って挨拶をする恒例の映像もなかったし、定番である『あさイチ』のゲスト出演もない。

 天井知らずに高まり続ける俳優としての評価と、ストイックに封じられ続けるプライベート。『カムカムエヴリバディ』の後に次々と出演作が続くのか、再び活動を縮小し、姿を見られない期間が増えるのかも現時点では不透明だ。確かなことは、後世に語り継がれる名優の作品史に『カムカムエヴリバディ』という大きな記念碑が加わったことだけだ。

■「人生低空飛行」を演じた川栄が受け入れられたワケ

 川栄李奈は3世代ヒロインの中で、あえて10代20代はパッとしない「人生低空飛行の女の子(公式説明より)」ひなたを演じた。だが、おっとりとしたヒロインに何かと厳しい朝ドラ視聴者にひなたが好感をもって受け入れられていたのは、川栄李奈の卓越した演技力によるところが大きいだろう。神奈川県出身にも関わらず方言を巧みに使いこなしていることさえ、あまりに自然で多くの視聴者にその事実を意識させていない。

 最終週で見せるひなたの飛躍は、それまでの「低空飛行」を丁寧に演じてきた彼女の演技力が支えてきたものだ。

 最後の最後である2025年、3世代のアンカーであるひなたがどんな人生を選ぶのかは、これを書いている時点ではまだわからない。だがそれは、ラジオ英会話と並んで日本の女性に伴走してきた「15分間の物語」に、また新しい1ページを加えるだろう。「これは、すべての『私』の物語。」と最初に銘打たれたように、3世代のヒロインが演じた異例の朝ドラの真の主人公は、この百年を生きた多くの日本女性たちだったのかもしれない。

 入院した知人を見舞いに病院を訪れると、晩年の雪衣にとってそうであったように、病院内では毎日の連続テレビ小説が最大の人気コンテンツであることに気がつく。

 病室のテレビで、診察の待合室のビジョンで、老人も子供も毎日の朝ドラを見る。朝ドラとはそうした、決して弱者を切り捨てて高踏的に進むことのできないコンテンツだ。ラジオの英会話がいつの時代も英語初心者に向けて開かれているように。ラジオ英会話と連続テレビ小説について今作で語られる2つの台詞は、そのことを物語っているように思える。

「好きなんじゃ。一日15分だけの、この時間が」(雪衣)

「英語の勉強、これからも続けてください。きっとあなたをどこか思いもよらない場所まで連れていってくれますよ」(アニー=安子)

 百年の物語『カムカムエヴリバディ』は終わり、また次の朝ドラが始まる。次の作品でもまた、新しい時代の新しい語彙が獲得され、いつの時代も変わらない古い文法が参照されるのだろう。連続テレビ小説は、この国の弱く平凡な人々の共通言語の教室として、また次の時代を毎日、15分ずつ歩き始める。

(CDB)

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