「あの人と同じことはできない」抱え続けた“井端への劣等感”…荒木雅博を解放した落合博満からの“意外な言葉”とは〈守備走塁コーチの苦悩〉

「あの人と同じことはできない」抱え続けた“井端への劣等感”…荒木雅博を解放した落合博満からの“意外な言葉”とは〈守備走塁コーチの苦悩〉

荒木雅博氏 ©文藝春秋

〈打撃コーチに就任〉「立浪からレギュラーを取る覚悟があるか?」伸び悩む森野将彦の才能を開花させた“オレ流指導”の一部始終 から続く

 中日ドラゴンズ監督時代の落合博満氏について綴った『 嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか 』(文藝春秋)で、「2021年度ミズノスポーツライター賞」の最優秀賞を受賞した鈴木忠平氏。同氏によると、当時の中心選手、荒木雅博氏は井端弘和氏に対して“コンプレックス”を持っていたといいます。

 奮闘する今シーズンの立浪新政権下で内野守備走塁コーチを務める荒木氏が、現役時代に抱えていた苦悩とは。落合政権を取材し続けた記者だからこそ知ることのできた秘蔵エピソードを再公開します。(全3回の3回目/ 最初から 読む)

※初出:2021/10/28

◆◆◆

■落合退任発表翌日、2011年9月23日ヤクルト対中日戦

 荒木は二塁ベース上から、マウンドの向こうに見えるホームベースを見つめていた。

 いつもは果てしなく感じる本塁への距離が、なぜかすぐそこであるように感じられた。どことなくいつもの自分ではないようだった──。

 2011年9月23日、落合の退任が発表された翌日、首位ヤクルトとそれを追う中日との天王山は、同点のまま八回裏を迎えていた。

 中日はツーアウトから一番の荒木がレフト線へツーベースを放った。リーグ屈指の足を誇るトップバッターがスコアリングポジションに立ったことで、ゲームは一気に張り詰めた。

 ワンヒットでホームを踏むか。阻止するか。両チームの駆け引きが動き出した。

 ヤクルトは外野を極端に前進させた。とりわけセンターの青木宣親は二塁ベースのすぐ後方まで出てきていた。外野手の頭上を越されるリスクを背負っても、次の1点を与えないという意思表示だった。この守備隊形を見れば、どれだけ足に覚えのあるランナーでも、シングルヒットでホームへ還るのは不可能だと感じるだろう。

 ところが塁上からその様子を見ていた荒木には、まるで不安がなかった。成否の境にいるとき、決まって襲ってくる中腹部の痛みも消えていた。自分でも説明がつかないその感覚が生まれたのは前日のことだった。落合がチームを去るとわかった瞬間に、胸の中で静かに爆ぜたものがあった。

 前日、ヤクルトとの首位攻防第1ラウンドが始まる3時間前に、球団は落合の退任を発表した。記者会見を終えた球団代表の佐藤はその足で、選手やスタッフに監督交代についての説明をしようとした。

 だが落合はロッカールームへの立ち入りを拒否した。そして自らは去就について一切触れることなく、何事もなかったように試合前のミーティングを終え、いつものようにプレーボールを迎えた。荒木にはそれが無言のメッセージのように思えた。

 監督が誰であろうと何も変わらない。それぞれの仕事をするだけだ。

 落合は、どんな状況でも自分のためにプレーすることを選手たちに求めてきた。だから、落合と選手の間には、熱したり冷めたりするような感情そのものが介在していなかった。

■「監督から嫌われても、使わざるを得ないような選手になれよ」

 この8年間、荒木はスタジアムからスタジアムへ全国を転々とする日々の中で、落合の内面を覗ける機会をうかがってきた。最大のチャンスは、遠征先でのナイターの後だった。球場からホテルへ戻ると多くの選手は街へと繰り出していくが、荒木はホテル内に設営されたチームの食事会場へ向かうことが多かった。そこにはいつも落合がいたからだ。

 人の少ない時間を見計らって会場にいくと、選手とは別の、コーチングスタッフ用テーブルにいる落合から声をかけられることがあった。

「お前ひとりか? それなら、こっちで食えよ」

 焼酎グラスを片手にゆっくりと箸を運ぶ落合は、グラウンドにいる時よりも少しだけ饒舌になった。荒木はそこで指揮官の胸の内を垣間見てきた。そうやって積み重ねてきた会話のなかに忘れられない言葉があった。

 ある夜、荒木はずっと抱えてきた疑問をぶつけてみた。

「使う選手と使わない選手をどこで測っているんですか?」

 落合の物差しが知りたかった。

 すると、指揮官はじろりと荒木を見て、言った。

「心配するな。俺はお前が好きだから試合に使っているわけじゃない。俺は好き嫌いで選手を見ていない」

 荒木は一瞬、その言葉をどう解釈するべきか迷ったが、最終的には褒め言葉なのだろうと受け止めた。

「でもな……この世界、そうじゃない人間の方が多いんだ」

 落合は少し笑ってグラスを置くと、荒木の眼を見た。

「だからお前は、監督から嫌われても、使わざるを得ないような選手になれよ──」

 その言葉はずっと荒木の胸から消えなかった。

 このチームにおいて監督と選手を繋いでいるのは、勝利とそのための技術のみだった。だから、去りゆく落合を胴上げするために戦おうと考える者もいなければ、惜別の感情も存在しなかった。そもそも落合自身がそんなセンチメンタリズムを望んでいなかった。これまでと何ら変わらないはずだった。

 それなのに、落合の退任を耳にした瞬間に、自らの内面に生まれたものがあった。

 これは、なんだ……。

 なぜ胃の痛みが消えたのか。なぜ不安に襲われないのか。荒木は自問しながら、自分が覚醒していくような感覚に満たされていた。

■劣等感から救った落合監督の一言

 次打者を告げるアナウンスに、ナゴヤドームが沸きたった。

 荒木を二塁に置いてバッターボックスに立ったのは、井端弘和だった。

 内野と外野の間にボールを落とす。その技術において、チームで右に出る者はいない。塁上に荒木、打席に井端、中日が1点を取る上でこれ以上ない役者が揃った。

 荒木は二塁ベース上から、ふたつ年上の井端を見つめた。守っては二遊間を組み、打っては一、二番に並ぶ。世間はそんな自分たちを「アライバ・コンビ」と呼んだ。まるで同質であるかのように扱った。

 だが荒木はずっと、井端にある種の劣等感を抱いていた。

 まだ荒木がドラフト1位のブランド・シールに翻弄され、なぜ自分には打の華がないのかと葛藤していたプロ3年目、亜細亜大学からドラフト5位で入団してきたのが井端だった。その指名順位からか、井端は入団当初からさほど注目されていなかった。

 ただ荒木は同じ内野手として、自分との差を感じ取っていた。井端は明らかに自分にはないものを持っていた。まるで爪の先まで神経が通っているかのように、イメージしたことを精密に身体で表現してしまう。後天的には決して手にできない才があった。

 あの人と同じことはできない……。

 井端が自分より先に一軍のスポットライトを浴びるのは必然のことに思えた。それでも周囲は、ドラフト1位と5位という順位付けされたフィルターを通して二人を見た。

 5位の井端ができるなら、1位の荒木にできないはずはないだろう──。

 その視線が荒木を惑わせ、焦らせ、自己不信に拍車がかかった。

 振り返ってみれば、そうした井端へのコンプレックスから解放されたのも落合のノックを受けてからだった。

「お前くらい足が動く奴は、この世界にそうはいねえよ」

 落合からそう言われたあの日から少しずつ、ありのままの自分を信じられるようになってきたのかもしれない。

■井端は打ち、荒木は走る

 ドームの観衆は固唾をのんでいた。攻める側も守る側も、誰もがゲームの勝敗だけでなく、このシーズンを左右する局面であることを悟っていた。

 ヤクルトのマウンドにはリリーフ左腕が上がっていた。

 初球、井端は低めのボールを見逃した。

 荒木は二塁ベースからリードを広げ、本塁への道筋を描いた。井端はおそらく外野手の正面には打たないだろう。センターに打つにしても、ライトに打つにしても、左右へわずかにずらした打球を打つはずだ。それだけの技術を持っている。それによって外野手の返球がコンマ数秒遅れる。この極端な前進守備の中にわずかな可能性が生まれる。それを自分の足がものにするのだ。

 井端は打ち、自分は走る。同じである必要はない。自分にしかできない仕事をするのだ。荒木は頭の中を整理した。ベンチを見ると、チームを去ることが決まった落合がいつものように体をわずかに傾げながら、じっと二人の動きを見つめていた。

 2球目、投手がセットポジションに入った。低めの球に井端のツートンカラーのバットが反応した。打球音が聞こえた瞬間に荒木はもうスタートを切っていた。白球がセカンドのすぐ頭上を越えていくのが視野の隅に映った。センター前に落ちる──。

 そこからは前だけを見て疾走した。

 顔を上げると三塁ベースコーチが腕を大きく回していた。荒木は三塁を蹴って、加速した。悲鳴のような歓声のような音が耳を通り過ぎて後ろへ遠ざかっていく。

 視線の先にホームベースとその上でミットを構える捕手が見えた。分の悪い勝負になることはわかっていた。それでも荒木の足は不安に囚われることなくアンツーカーを蹴った。

 あと数メートルというところでキャッチャーに返球が届くのが見えた。アウトだ──経験則が耳元で囁いた。それと同時にホームベースの左端にわずかな空間が見えた。

 次の瞬間、荒木は飛んだ。微かなその隙間に、まるで宙を泳ぐように頭から飛び込んでいった。意図していたのではなく何かに突き動かされるようにそうしていた。

 それは、落合が禁じたヘッドスライディングだった。

「無茶だ──」

 バックネット裏の記者席で私は思わず身を乗り出した。

■チームの変貌を象徴するヘッドスライディング

 センター前に弾んだ井端の打球をヤクルトの青木が捕球したとき、荒木はまだ三塁を蹴るか、蹴らないかのところにいた。球足の速い打球が極端な前進守備を敷いていた外野手のほぼ正面に飛んだのだ。荒木がホームへ向かったのは完全な暴走だった。

 ところがセンターからの返球が捕手のミットに収まった瞬間に、荒木は数メートルも手前から飛んだ。地面すれすれを滑空するようなヘッドスライディングは、まるで自分以外のあらゆるものの時間を止めたようにミットの下をすり抜け、ホームベースの左端を掠め取っていった。ドームが一瞬の静寂に包まれた後、審判の両手が横に広がった。どよめきと歓声が交錯した。

 私はペンを握ったまま呆然としていた。完全にアウトだと思われたタイミングをセーフにしてしまったことへの驚きもあったが、荒木から発散されているものに衝撃を受けていた。

 これが落合のチームなのか?

 荒木が見せた走塁は、落合がこのチームから排除したものだった。

「俺は、たまにとんでもなく大きな仕事をする選手より、こっちが想定した範囲のことを毎日できる選手を使う。それがレギュラーってもんだろう」

 落合はリスクや不確実性をゲームから取り除いた。それが勝つために最も合理的な方法だと考えたからだ。指揮官の哲学は選手たちにも浸透し、ギャンブル的な暴走や怪我の怖れがあるヘッドスライディングは、この8年間ほとんど見たことがなかった。

 憑かれたような眼でホームへ突進した荒木を見ながら、私は確信した。

 このチームは変わったのだ……。

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(鈴木 忠平/週刊文春)

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