「意識レベルで日本は彼らに勝てない」女子バレーに28年ぶりのメダルをもたらした“挫折”

「意識レベルで日本は彼らに勝てない」女子バレーに28年ぶりのメダルをもたらした“挫折”

ロンドン五輪時の眞鍋政義監督 ©JMPA

「気持ち悪い」「相手を舐めているんでしょ」“日本根性バレーの終焉”を象徴する〈コートの中の笑顔〉 から続く

 2012年のロンドン五輪で銅メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。その監督を務めた眞鍋政義氏(58)が、2016年以来、5年ぶりに日本代表監督に復帰することが決まった。2012年10月22日、眞鍋氏はオンライン会見でこう述べた。

「東京オリンピックで10位という成績にかなりの危機感を抱いている。もし(2024年の)パリ大会に出場できなかったら、バレーボールがマイナーなスポーツになる“緊急事態”であるということで手を挙げさせていただいた」

 女子バレーは2021年の東京五輪で、“初の五輪女性監督”中田久美氏(56)が指揮を執ったが、結果は25年ぶりの予選ラウンド敗退。1勝4敗で全12チーム中、10位に終わった。

 正式種目となった1964年の東京五輪で、記念すべき最初の金メダルに輝き、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー。だが、その道のりは平坦ではなかった。半世紀に及ぶ女子バレーの激闘の歴史を、歴代選手や監督の肉声をもとに描いたスポーツノンフィクション『日の丸女子バレー』(吉井妙子著・2013年刊)を順次公開する。(全42回の36回。肩書、年齢等は発売当時のまま)

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■“データバレー”の原点

 中学までアタッカーだった眞鍋は、セッターの難しさを知っていた。だが、監督のアドバイスをすんなり受け入れた。

「他の選手と力の差を見せ付けられていただけに、自分の生き残る道はこれしかないと思った。この頃からですね、今の僕のポジティブシンキングがはじまったのは」

 監督からはこんなことも助言された。

「セッターは、誰よりもボールと仲良くならなければ良いトス、いいレシーブは出来ない。セッターとして最も大事な指先の感覚は、ボールにどれだけ触ったかで決まるんだ」

 眞鍋は監督の言葉をその日から実行した。授業のときはボールを膝に乗せ、教師の話に耳を傾けながら指先の感触を確かめ、寝る前は布団に仰向けになり天井に向けてパスを上げた。また寝るときはボールを枕元に置くなど、片時もボールを離すことはなかった。

 眞鍋はバレーにどっぷりはまった。

 あるとき指を怪我し、コートの外から練習を眺めたことがある。よくよく練習を注視すると、コート内には情報がふんだんに詰まっていることを発見した。

「スパイカーの助走のコース、タイミング、ジャンプしたときの身体の向き、個人個人の癖、セッターのトスの高さ、球質……。目を凝らすと、かなりの確率でコースが予測できたんです。コート内の情報を拾って分析し、それを予測として活かせれば、レシーブもトスも、より確実なものになる」

 データバレーを標榜する眞鍋の原点となった発見だった。

 日々バレーを研究し、感覚として捉えていたものを頭の中で理論化してみると、セッター能力が格段に高まった。眞鍋は経験を得るのに必要な歳月を、頭脳という武器で飛び越えたのである。インターハイで1回、国体で2度優勝を果たす。

■「僕たちが泊まるホテルは、ファンで満杯」

 大阪商業大学に進学すると、西日本では敵なしだった。4年間の在学中に、西日本インカレ、関西学生リーグのすべてを制覇。

 大学4年時に、神戸で開かれたユニバーシアードに日本代表として初選出された。日本はそれほど期待されていなかったにもかかわらず、この大会で優勝した。その年、日本で開催されるワールドカップに、ユニバーシアードのメンバーだった川合俊一、熊田康則、井上謙(ゆずる)、植田辰哉などが出場し、男子バレー人気に火がついた。ミュンヘン五輪に続く男子バレー人気の第二波が日本女性を襲った。眞鍋が少し鼻の下を伸ばし、懐かしそうに言う。

「僕たちが泊まるホテルは、ファンで満杯。平日の練習も体育館が見学者で混み合っていた。今で言えば、韓流スター並みの人気だったんじゃないですか。僕も、川合さんや熊田さん、井上さんのおこぼれみたいなものですけど、ファンレターはダンボールで届いたものです」

 かつて川合は、その人気ぶりをおどけながら語っていたことがある。

「大げさじゃなくて、バレンタインデーにはチョコレートがトラックで運ばれて来るんです。その一方、給料日間近になるとジュースを買うお金もなくて水を飲んでいました。だから、チョコレートではなく、腹の足しになるようなものを送ってくれればよいのに、って恨めしかった」

 男子バレー人気が沸騰していた1986年、眞鍋は男子バレーの名門・新日本製鐵に入社する。新日鐵には後に男子全日本監督となった田中幹保、植田辰哉が在籍、後輩に中垣内祐一が入社するなど、野武士集団のようなチームだった。誰もが自分の意見を引っ込めない。時には口論では物足りず、取っ組み合いの喧嘩にまで発展することがあった。

「当時の監督は幹保さん。彼は穏やかな性格だけど、常に『眞鍋、お前はどう思う?』って、いつも考えることを求められた。チームメイトとは四六時中議論していたし、このときに頭も心もガッツリ鍛えられた」

■“史上最悪の10位”

 88年のソウル五輪に初出場。男子バレー人気に後押しされ、意気揚々とコートに立ったが、予選リーグで1勝しかすることが出来ず、日本史上最悪の10位に沈んだ。世界の男子バレーは進化し、優勝したアメリカはリードブロックというオリジナルの技を編み出していた。井の中の蛙では、世界に勝てないことを悟った。

 だが、海外移籍などは考えもされなかった時代である。眞鍋の最大の関心事は、目の前のライバルだった富士フイルムを倒すこと。それには、ライバルを丸裸にする必要があると考えた。若い選手を試合会場に送り込み、攻撃のパターンやブロックなどを守備のフォーメーションに応じ6台のビデオカメラで撮影。今のようにIT機器がないため、その6種類のビデオを再生、一時停止し、ダビングを繰り返すのは気の遠くなるような作業だったが、富士フイルムの戦術が透視でき、選手個々の癖も手に取るように分かった。

 新日鐵の黄金時代が始まる。93年にその腕を買われ、30歳の若さで選手兼監督に就任。

 だが、ソウル五輪に出場して以来芽生えた海外のバレーを知りたいという欲求は大きくなる一方だった。36歳になった眞鍋は、残された時間は少ないと焦った。

 日本の一流企業が抱える男子バレーの選手は、引退するとそのまま社員として働く。目指す企業に就職したいがために、学生時代バレーにはげんだと口にする選手もいるくらいだ。バレーはいわば就活の一環だという。もし、眞鍋が海外移籍を決めるとなると、新日鐵を退職しなければならない。そんな決断はまだ誰もしたことがなかった。

 眞鍋は周囲や家族の反対に遭ったものの、将来の安泰より挑戦する道を選ぼうと思った。

 99年イタリアのセリエA・イベコパレルモに移籍。海を渡った男子バレー選手第一号となる。

 世界で初めてプロリーグを発足させたイタリアには、各国を代表する選手が顔を揃えていた。戦術も高度で、レベルの高さは国際大会並みだった。眞鍋には毎日が刺激的で、自分のバレー観も大きく変わっていくのが分かった。

■バレー人生すべてを女子バレーに注入した

「企業に守られている日本と、自分の腕がすべてというプロではこんなにも意識が違うのか」

 たとえば日本なら、全体練習のあとの居残り練習は、コーチの指示によるものだった。ところがイタリアでは、選手個々がコーチを捕まえ、「あと10分だけでいいから付き合ってくれ」「あと10本でいいからトスを上げてくれ」という必死な声が、日常茶飯事に聞こえた。

 食事一つ取ってもそうだった。試合で最大限のパフォーマンスを上げるため、1週間前から蛋白質、炭水化物の摂取量を計算しながら料理を口にしていた。食事はおいしく食べるものではなく、身体の機能を高める手段に過ぎないのだ。

 年齢やキャリアも関係ない。彼らはチーム内の激しい競争を勝ち抜いて活躍し、名前を売り、お金を稼ぐという明快なプロ意識を持っていた。バレーに自分の人生そのものを賭けていたのである。

「戦術、戦略を論じる前に、もう意識レベルで日本は彼らに勝てないと思いましたよ」

 子供を生んでから再びコートに立つ女性選手も大勢目にした。結婚したら辞めるのは当たり前という価値観の日本では考えられない、と眞鍋は目を丸くした。しかも、そんなベテラン勢がイタリアでは中心選手としてチームを引っ張っている。

 眞鍋はセリエAで学んだ世界標準を日本に伝えたいと1年で帰国。プロ選手として旭化成、松下電器(現パナソニック)、そしてまた旭化成とチームを渡り歩きながら、41歳まで現役を続けた。旭化成時代には選手を続けながら、大阪体育大学大学院に学ぶ。日本のスポーツ界にも急速に科学が取り入れられるようになり、一からバイオメカニクス、コーチ学、心理学、生理学などを学びたくなったからだ。さらにもう一つ大きな理由があった、と眞鍋は言う。

「それまで20年間以上セッターをやってきましたけど、プレイしているときの自分の判断は果たして正しかったのかどうか、客観的に分析してみたいと思ったんです」

 セッターがトスを上げるときの判断は一瞬だ。だが、判断の基準となる情報は無数にある。チームの作戦、試合前の分析、味方スパイカーのその日の調子、サーブレシーブの流れ、相手スパイカーの助走の仕方、腕の振り、ブロックの付き方など目に見える情報のほかに、試合展開、得点差、自分のこれまでの組み立てなど、状況が刻々と変わる瞬間を、自分が正しく判断してきたのか。そのほかにも過去の記憶や皮膚感覚、勘などパフォーマンスを決める要素は数限りがない。これらを加味し、コート内で最善と判断したトスが、果たして客観的に見てもそうだったのか。眞鍋は「神は細部に宿る」といわれる領域を分析してみたくなったのだ。

 2年かけて論文を発表した。バレー競技の常識を破るような新発見はなかったものの、コートの外から見る客観的な視点が養われ、数字による合理性を確信。これが後に、全日本女子を率いる上で、大きな財産となった。いや、眞鍋のバレー人生そのものを一滴も残さず、女子バレーに注入したといってもいい。

(吉井 妙子/文藝春秋)

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