「勤務時間中は、ほとんど歌詞を書いたりライブの構想を練ったり」デビュー40周年・野宮真貴62歳の“神保町OL時代”

「勤務時間中は、ほとんど歌詞を書いたりライブの構想を練ったり」デビュー40周年・野宮真貴62歳の“神保町OL時代”

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“渋谷系の女王”こと野宮真貴さんが、デビュー40周年を記念したニューアルバム 『New Beautiful』 をリリースした。ここに収録されたナンバーの一つが「おないどし」。クレイジーケンバンドの横山剣さんとのデュエット曲だ。そのタイトルの通り、野宮さんと剣さんは1960年生まれの同い年。しかも、レコードデビューを果たしたのもまた同じ1981年という同期生。同じ時代を生きてきた二人が、音楽、ファッション、カルチャーについて語り合う。(全2回の1回目/ 2回目 を読む)

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■船越英一郎さん、氷室京介さん、コロッケさんも同い年

野宮 私と剣さんは1960年生まれの同い年。ということで、私のニューアルバム『New Beautiful』では、剣さんが作詞作曲した「おないどし」という曲をデュエットしました。

横山 この機会に、僕らと同じ年に生まれた芸能人の名前を挙げてみましょうか。みなさん、今年62歳を迎えます。

野宮 誰がいますかね。私が知ってるところだと、ザ・コレクターズの加藤ひさし君とか。

横山 いいっすねぇ! 女性なら、黒木瞳さん、清水ミチコさん、山田邦子さん、高田みづえさん、浅野ゆう子さん、岸本加世子さん……。男性なら、船越英一郎さん、真田広之さん、佐藤浩市さん、氷室京介さん、コロッケさん……。

野宮 改めて確認してみると、かなりバラエティに富んでますね。

横山 もう、孫がいても全然おかしくない年齢なんですよね。

野宮 だって、私たちの息子や娘の世代がこの世界でも活躍してますから。今回のアルバムに「CANDY MOON」を提供し、レコーディングにも参加してくれたGLIM SPANKYの松尾レミちゃんは、お母さんが私の一つ年下だって言ってました(笑)。

横山 僕らのバンドのお客さんも、3世代にわたるようになりましたよ。

野宮 ところで、私たちが初めて会った時のことって、覚えてます?

横山 もちろん。ピチカート・ファイヴのお二人がやっていたTOKYO FMのラジオ番組「readymade FM」の収録に、僕がゲストで呼ばれたんですよね。2000年かな。

野宮 そう。クレイジーケンバンドに夢中になっていた小西康陽さんが、興奮しながら「絶対に真貴ちゃんも好きだよ」と言っていて、会うことになったんでした。

横山 小西さんのレーベルから出した『ショック療法』という僕らのアルバムはすでに出来上がっていましたが、野宮さんにお目にかかるのは初めてでした。ドキドキしちゃって、言いたいことの何十分の一ぐらいしか言えなかった(笑)。

野宮 私も小西さんもおしゃべりが上手いタイプじゃないから、妙に間が空いて、緊張させちゃったかもしれません。ラジオには向いてないんですよ。ご迷惑をおかけしました。

横山 いや、最高でした(笑)。考えてみれば、野宮さんと僕は、ちょうど1980年に20歳を迎えたことになる。若い頃、どこかで偶然出くわしたりしてる可能性もありそうですよね。

■僕、野宮さんの出ていたライブハウスで働いてましたよ!

野宮 その頃の私は、「いぢわる少年団」というバンドから改名した「パズル」のヴォーカルとして、いろいろなライブハウスに出演していました。

横山 いぢわる少年団! BTSこと防弾少年団みたいですね。世界に通用しそう(笑)。

野宮 その時に出ていたライブハウスの名前を挙げると、例えば、青山の紀ノ国屋の近くにあった「be-bop」とか……。

横山 be-bop! 僕、そこで働いてましたよ!

野宮 えーっ、本当?

横山 クールスRCというバンドのリーダー、佐藤秀光さんがやってた店なんですよ。僕は、うっかりした経緯からクールスRCのスタッフになり、その結果、be-bopを手伝うことになりました。

野宮 うっかりした経緯って、簡単に言うけど、一体何なんですか?(笑)

横山 高校生の頃の僕は、アメリカに移り住んだ友人から古着を仕入れて、公園で行商をしたり、原宿の店に卸したりという仕事に手を染めていたんです。といっても、伝手はないから、最初はまったくの飛び込みで古着屋を訪れて交渉していた。そんな中、偶然入ったのが、クールスのドラマーである秀光さんの経営する「CHOPPER」という洋服屋だったんです。

野宮 ずいぶんバイタリティ旺盛な高校生ですね(笑)。

横山 CHOPPERは古着を扱わなかったけど、その時の縁で、クールスRCの裏方を務める傍ら、CHOPPERやその系列店のbe-bopで音響や照明係をやりました。スタッフの数も少ない店で、僕は出演者のアテンドもしてたから、恐らくは野宮さんにも会ってるはず。

野宮 うわー。じゃあ、実は、その時すでにニアミスしてたのかもしれない。

横山 高校を3校ほど転々として、結局ドロップアウトしちゃった直後だったんですよね。僕が最初に入った高校は、実は堀越だったんですが。

野宮 じゃあ、当時から芸能界を目指してたってこと?

横山 作曲家になりたかったから、何かコネを作るために芸能コースに入ろうとしたんですが、あそこに進むには、労働大臣の許可を得た芸能プロダクションに在籍している必要があるらしい。「僕、個人でやってるんですが」と言ったけど、「それじゃダメ」と(笑)。

野宮 個人でやってる中学生(笑)。

横山 しょうがないんで普通科を受けたら、何とかギリギリ合格しました。

■制服のブレザーの内側に安全ピン100個ぐらい仕込んだりして

野宮 普通科はどんな感じでした?

横山 ただの厳しい学校(笑)。とにかく校則がガチガチで、バイトもバイクもダメなら、女子生徒との会話も禁止。何のために入ったのか分からなくって、転校しました。

野宮 私の通ってた女子高も、すごく厳しかった。校内でレコードを貸し借りする際は、新聞紙にくるんで、セロテープで留めて、さらに風呂敷で包まなきゃいけない。学校の中では絶対に中身を開かないという条件でようやくお許しが出たんです。

横山 すごい学校ですね。

野宮 抑圧が強かったから、反発もしましたよ。パンクが台頭した時代だったから、制服のブレザーの内側に安全ピン100個ぐらい仕込んだりして。表向きは、ちゃんと校則守ってるように見えるんだけど(笑)。

横山 その姿勢、真性パンクですよ。カッコいい!

■昼は神保町でOL、夜はバンド活動にディスコに…

野宮 高校を卒業してからは、英語の専門学校に2年通いました。その間に、さっき言ったパズルというバンドで活動を始めたんですよ。レコード会社と契約できるかと思ったもののなかなか上手くいかず、親の手前もあって、専門学校を出た後は1年ちょっとOLをやってました。

横山 野宮さんがOLだったというのは初耳です。どんなお仕事だったんですか。

野宮 コンピュータプログラマーの派遣会社で働いてました。神保町にあったそのオフィスでもっぱら電話番をしてたんだけど、勤務時間中はほとんど、歌詞を書いたりライブの構想を練ったりしながら過ごしてましたね。5時ぴったりにタイムカードを押した後は、練習スタジオ行ってリハやってという毎日。

横山 会社にはどんな服装で通ってました?

野宮 ニューウェーヴ少女だったので、ミニスカートにモヘアのセーターとか着ていっちゃってた。ところがある日、見積書を取引先の富士通に届けてくれと頼まれて、この格好じゃまずいなと。当時流行していたニュートラ・ファッションの後輩OLに服を全部交換してもらって、富士通まで行きました。刈り上げショートには全然似合わなかったなあ(笑)。

■「シカゴ」で買ったベースボールシャツは、よく着てたなあ

横山 野宮さんは、どんな店で洋服を買ってたんですか。

野宮 まずは、大川ひとみさんの「MILK」。小さい店だったから、足を踏み入れるのに結構勇気が要りました。お金はなかったから、そうそう洋服は買えなかったけど。ラフォーレ原宿の地下にあった「フィオルッチ」にもよく行きましたね。それから、名前は忘れちゃったけど、今、原宿の東急プラザの立つ場所にあったセントラルアパートの地下には、小さくて素敵なお店がたくさんありました。外タレが来日すると決まって立ち寄るというロック系のお店もあって、そこの壁には錚々たるミュージシャンのサインが並んでいた。

横山 古着屋でいうと?

野宮「赤富士」とか「シカゴ」とか。

横山 うわー、懐かしい! まさに、僕が古着を買い取ってもらってた得意先ですよ。

野宮 シカゴで買ったベースボールシャツは、よく着てたなあ。あとは、渋谷のファイヤー通りにあった「文化屋雑貨店」で小物を買ったり。

■新宿の「ツバキハウス」なんかは結構通いましたね

横山 原宿には、日本におけるクラブの走りともいわれる「ピテカントロプス・エレクトス」もありました。

野宮 私、ポータブル・ロックというバンドのメンバーとして、ピテカンには何回か出演したことがあります。

横山 僕も、クールスRCのライブをピテカンでやったことがある。野宮さんが属していたニューウェーヴ系文化と、僕らが属していたリーゼント系文化は、生息圏がまったく違うように思われがちだけど、be-bopやピテカンといった場所を舞台に、原宿あたりでは意外な形で交流があったんですよ。ピテカンの店長は、ブラックキャッツというロカビリーバンドのベーシストで、「クリームソーダ」の店員だった陣内淳君が務めていたし。

野宮 クラブではなくまだディスコと呼ばれていたけれど、新宿の「ツバキハウス」なんかは結構通いましたね。

横山「テアトル新宿」の上にありましたね。文化服装学院の学生とか、お洒落でとんがった感じのお客さんが多かった。

野宮 個性的な格好した人がいっぱいいましたね。黒いゴミ袋で作ったスーツを着てる子とか(笑)。ツバキでは、高木完ちゃんをはじめ、東京ブラボーのメンバーとか、あの辺のバンドの人たちと知り合いました。

横山 新宿でいうと、花園神社の近くにあった「第三倉庫」も面白かった。後に「ミロスガレージ」に名前が変わった場所ですね。

野宮 他にもいろんなディスコに行きました。ただ、お金が全然なかったから、誰かのライブの打ち上げに潜り込んでご飯食べたり、水曜日のレディースデーに無料で入ってフリーフードにありついたりすることが主な目的だったかも(笑)。

■当時、横浜の人間は東京のディスコには行かなかった

横山 野宮さんは縁遠かっただろうけど、黒人音楽系の店も僕は行きつけにしてました。六本木の「ソウル・エンバシー」とか。

野宮 ニューウェーヴ系とブラックミュージック系のディスコには棲み分けがあるから、両方の店に顔を出してた人って珍しいですよね。

横山 そっすねぇ、そもそも、当時、横浜の人間は東京のディスコには行かなかった。そういう意味でも僕はハイブリッドなんです(笑)。

野宮 服装も、店によって変えてたんですか。

横山 はい。大袈裟に言えば、ツバキ行く時はロンドンのモッズ系、六本木はサーファー系、横浜のディスコはソウルマン系みたいな。

野宮 剣さんのように、別系統のディスコを行き来する友達はいました?

横山 いなかった(笑)。単独行動してました。まあ、それぞれのディスコに行けば、それぞれの顔見知りはいたんですが、横の交流はまったくない。

野宮 昔から、まったく異なるジャンルを自由に横断してたんですね。クレイジーケンバンドのサウンドの雑食性のルーツを見る思いがします。

横山 まあ、節操がなかっただけとも言えますが(笑)。

野宮 真貴

1960年生まれ。81年「ピンクの心」でソロデビュー。82年結成のポータブル・ロックを経て、90年ピチカート・ファイヴに加入。元祖“渋谷系の女王”として「渋谷系」ムーブメントを世界各国で巻き起こす。以来、音楽・ファッションアイコンとしてワールドワイドに活躍する。 www.missmakinomiya.com

横山 剣

1960年生まれ。クレイジーケンバンド・リーダー。地元横浜を中心に活動し、81年にクールスRCのコンポーザー兼ヴォーカルとしてデビュー。以降、いくつかのバンドを経て、97年に「東洋一のサウンド・マシーン」クレイジーケンバンドを結成。作曲家として和田アキ子、SMAP、堺正章、渚ようこなどに楽曲を提供する。

「好きなのに恋愛が始まらなかったおとなの男女に」同い年の横山剣と野宮真貴がいま“持続可能な男女関係”を歌うワケ へ続く

(下井草 秀)

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