「正常位の正常とは何なのか」と疑問を呈し…40年前から“フェミニスト”、伊丹十三の何が新しかったのか

「正常位の正常とは何なのか」と疑問を呈し…40年前から“フェミニスト”、伊丹十三の何が新しかったのか

伊丹十三 ©文藝春秋

『お葬式』『マルサの女』など数々の映画作品を残した伊丹十三。しかし伊丹が当時の男性には珍しく、フェミニズム的視点を持っていたことはあまり語られていない。漫画家の瀧波ユカリが、伊丹の魅力やエッセイに残された先進的な発言を振り返る。

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 私、伊丹十三が大好きなんです。そう言うと映画のファンだと思われて、どの作品が好き?って聞かれたりするんですが、そういうことじゃないんです。伊丹十三が好きなんです。なぜかというと、伊丹十三はバキバキのフェミニストだからです。

■警戒しながらページをめくると…

 出会いは古本屋、私は20代前半でした。『再び女たちよ!』というタイトルの文庫本。「伊丹十三って、何年か前に亡くなった映画監督だよな。『マルサの女』の人だっけ? 映画は見たことないしどんな人か知らないけど、このタイトルだもの、きっとえらそうなことを書いているんだろうな!」とギンギンに警戒しながらページをめくると、そこにあったのは物腰柔らかでありながらどこか潔癖、それでいてユーモラスでサービス精神に溢れるエッセイ。当時の私が持った感想はふたつ。「何これ面白い!」と「読んでいていやな気持ちにならない!」

「いやな気持ちにならない」とはどういうことか。当時から私は、男性作家の書く女性向けエッセイって上から目線なところがあるなって思ってたんです。もっとあからさまに書くと「賢くなれない女という性を持って生まれてしまったあなたたちに男の僕が優しく教えてあげるね、ああ気持ちいい〜」という本音が漏れちゃってるよって感じ。でも『再び女たちよ!』には、それがなかった。それでいて批判的精神に満ちていて、安っぽさや俗っぽさや薄っぺらさに対して非常に辛辣。辛口批判は女性にも向けられるし「女はこうあってほしい」といったことも語られます。だけど、いやじゃない。なぜなら彼の求めるものが「良妻賢母」ではないから。「わが思い出の猫猫」にはこうあります。「女は猫であってもらいたい。男の尺度で推し計れぬものであってもらいたい」。思い通りになる女など願い下げだ、というわけなのです。

 2021年の今、フェミニズム視点で読めば「ここはちょっとな……」って箇所はいくつかあります。しかしこれを書いていた頃の伊丹はまだ宮本信子と結婚したあたり。『ヨーロッパ退屈日記』(1965)、『女たちよ!』(68)、そして『再び女たちよ!』(72)において、海外での俳優生活で磨かれた最先端の時代感覚と批判的精神をいかんなく発揮してきた伊丹ですが、フェミニストとしての伊丹はここから。2児をもうけ主夫になり、料理や精神分析にのめり込み、新しい角度から世の中を眺めていくことになります。70年代半ばまでの著作は、いわば伊丹の「フェミニズム前夜」の作品。知的好奇心を刺激してやまない一流のエッセイのそこここに、フェミニストとしての萌芽が感じられるのです。

■伊丹の発言が新しすぎて…

『再び女たちよ!』刊行から7年後の1979年、さも続編ですよって感じで刊行された(ように今は見えるけど実際はどうだったのか不明)のが大問題作『女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!』です。アナウンサーの田原節子さん(当時は村上姓。後に田原総一朗氏の妻。04年没)との巻頭対談では「伊丹が、いつの間にかバキバキのフェミニストになってるう!!!」と度肝を抜かれます。たとえばセックスの体位について、正常位の正常とは何なのか、男が女を組み敷く形だから「正常位」なのかと疑問を呈したり。男性について「自分とも人ともいつも勝負しているので世界がすっかり歪んでしまっている」「女をたくみに『いかす』ことによって見えざる敵を倒している」と喝破したり。「女性の対人関係における感度の良さは社会によって作られるものであり、性差別社会の産物」と的確に言い切ったり。今っぽく言うならまさに、うなずきすぎて首がもげるし膝を叩きすぎて半月板損傷するやつです。ウーマンリブ運動に参加していたバリバリのフェミニストの田原さんですら、伊丹の発言が新しすぎてきょとんとしてしまう場面もしばしば。全部すごいんだけどもうここだけどうしても読んでほしいので抜粋します。

伊丹「やっぱり女に対する果て知れぬ軽蔑があるんですよね、男の中には。どんな駄目な男よりまだ下があってそれが女だというような安心の上に男は安住してるわけで──つまり、男にとって女というのは勝負の対象じゃないんだね、勝負すりゃこっちが勝つに決まってる相手、要するに一段ランクが下の劣等人種という発想が男には抜きがたくあるのね。だから、見ているけど見てないわけね。女の中に人間を見てない。自分と同じ人間を見てない。だって女は人間じゃないんだもの、彼にとって」

■息子に対して「男なら泣くな」と言わない

 70年代の日本の男性が何読んで何食ったらこうなるんだ。十三、恐ろしい子……! エッセイも今の感覚にひけを取らないほど先進的です。当時の日本ではほぼありえなかった立ち会い出産の良さについて語る「二人目」、主夫として家事と子育てをこなす友人の先進的な考えを紹介する「男女平等」、息子に対して「男なら泣くな」「女の子みたいだぞ」といった言葉は使わないと語る「父と子」。この本にはフェミニズムやジェンダーといった言葉は出てこないけれど、今の私たちがそれらの言葉を使ってやっと説明していることが既に明晰に綴られています。「十三、未来から来た未来人なの……?」としか思えなくて、空恐ろしさすら感じます。しかし実際は未来人だったわけではなく(そりゃそうだ)、ものすごい量の情報を仕入れては、真摯に思考を深めた結果なのだろうと思います。どうして当時の日本において彼にだけそれができたのか、今となってはわからないけれど。

 84年に映画『お葬式』、翌年『タンポポ』、そして87年『マルサの女』の大ヒット。伊丹映画はひとつの社会現象となり、伊丹は一流の映画監督として名を馳せます。伊丹映画ははちゃめちゃに優れた娯楽作品であって、故になかなか気付かれることがないのですが、そこには確かにフェミニズムが通底しています。働き、戦い、子を育て、セックスする、わきまえない大人の女、男の尺度で推し計れぬ女がスクリーンを走り回り、みんなを虜にした。そんな時代があったんだなと懐かしんでしまう場合ではなく、私たちは今こそフェミニストとしての伊丹十三を初めて評価すると共に、彼のすごさを語り継いでいかなければなりません。ああ、最後にもう一度だけ言わせてください。伊丹十三、大好き!!

■伊丹十三必読の6冊

■1『再び女たちよ!』

雑誌『ミセス』連載のエッセイ集。「女とはなにか?」から始まるまえがきで垣間見える女性観や、浴衣姿の少女を呼び出す「花火」での少女への接し方が興味深い。「流れゆく女友だち」では女性への偏見がチラリ。過渡期にある30代の伊丹が楽しめる。

■2『女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!』

伊丹のフェミニズムの蕾が育児によって開いたことがわかる一冊。ワンオペの一日を綴る「知的生活者諸君!」、1歳4ヶ月の次男と向き合う「夜泣き」など育児あるある多数。後半の育児論の鼎談はあまりピンとこないけど田原節子との巻頭対談は最高。

■3『日本世間噺大系』

伊丹の得意技のひとつ「聞き書き」を活かして世間話を集めた一冊。絶対読むべきなのは「生理座談会」! 4人の人妻がそれぞれの生理について語り合います。こういうテーマでしゃしゃり出るのではなく聞き書きという手法を取る伊丹、信頼できる。

■4『モノンクル ボクのおじさん』創刊2号

精神分析をテーマにした、伊丹十三責任編集の雑誌。No.2では表紙に〈「いい女」なんていわないでね「いい女」じゃない私はどうしたらいいの?〉の見出しを入れ、巻頭で「レイプされてしまったときの処置」を紹介。伊丹フェミニズムここに炸裂!

■5『ぼくの伯父さん』

没後20年に刊行された単行本未収録エッセイ集。スウェーデンと日本の性教育のあまりの落差に怒りが湧きむせび泣く「怒りの旅」、子どもとポルノと性教育についてユーモアたっぷりに綴る「犬の毛皮」など、大人はもちろん思春期の子どもにも薦めたい名作多数。

■6『フランス料理を私と』

珍本の誉れ高い本作。伊丹十三がゲストの家の台所でシェフの指導のもとフランス料理を作り、それをゲストにもてなしながら対談をする構成。シャドーワークなどのジェンダー論の合間にメインディッシュの説明が挟まるカオス! 文藝春秋でのオールカラー連載を書籍化。

【筆者プロフィール】
瀧波ユカリ/Yukari Takinami 漫画家

1980年北海道生まれ。漫画に『臨死!! 江古田ちゃん』『モトカレマニア』(ともに講談社)、コミックエッセイに『はるまき日記』(文春文庫)、『オヤジかるた?女子から贈る、飴と鞭。』『ありがとうって言えたなら』(ともに文藝春秋)など。現在は『私たちは無痛恋愛がしたい』をウェブ漫画マガジン「&Sofa」(講談社)にて連載中。

(瀧波 ユカリ/週刊文春WOMAN 2021年 夏号)

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