「昔な、こういう投手がいたんだ…」全盛期の落合政権を支えた伝説のワンポイントリリーバー“小林正人”が誕生した“意外なきっかけ”
2022年05月26日 07時00分 文春オンライン

小林正人氏 ©文藝春秋
「松坂世代」として高校時代から注目を集める選手でありながら、プロ入り後は目立った成績を残せず、毎年クビになることを恐れていたという小林正人。そんな彼にとって大きな転機になったのが、落合博満監督、そして、森繁和投手コーチからのある一言。そして、かつて、西武ライオンズの黄金時代を支えたある投手の存在だった……。
はたして、小林正人はいかにして、チームに欠かせない控え投手になったのだろうか。ここでは、第53回大宅壮一ノンフィクション賞、第32回ミズノスポーツライター賞最優秀賞に輝いたフリーライター鈴木忠平氏の著書『 嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか 』(文藝春秋)の一部を抜粋。選手の適性を見込んで伝えた、あるアドバイスについて紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
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■メンバー表に列記されたピッチャーたち
小林正人は毎年2月になると決まってパズルを始めた。プロ野球のキャンプインに合わせて作成されるB4サイズのメンバー表を手に、投手陣の顔触れをじっくりと眺める。
まだシーズンの殺伐とした空気からは遠い沖縄のホテルの一室で海風を感じながら、それを元に頭の中でパズルをする。
今年も自分の居場所はあるか?
人間と人間の隙間を見つけだす、人生をかけたパズルである。
2011年シーズンを前に、中日からは5人の投手が去り、4人の投手が入ってきた。そのうち小林と同じ左投げは2人─大学出の新人投手とベネズエラからやってきた28歳の外国人選手だった。とくに外国人のことは気になった。
先発なのか、リリーフなのか。どんなピッチャーだろうか。
小林はメンバー表に列記されたピッチャーたちの名前を見渡してみた。
エースの吉見一起を筆頭にセットアッパーの浅尾拓也、ストッパーの岩瀬仁紀ら替えの利かない巨大なピースから、俗に敗戦処理と呼ばれる小さなピースまで、一軍のベンチという限られた枠に当てはめてみた。そうやってパズルは進んでいく。新しい助っ人のことは気になったが、不安で眠れなくなるようなことはなかった。小林には自負があった。
■寮生も例外なく、15人を戦力外に
このチームには、自分というピースでしか埋められない役割がある。
それはプロ9年目でようやく辿り着いた境地だった。
かつての小林は冬が終わってキャンプが始まり、木々が芽吹くころになると、いつも不安に襲われていた。
今年こそクビかもしれない……。
怯えながらも、行くべき道がわからずに彷徨っていた。振り返ってみると、葛藤の出発点は、落合が監督としてやってきたばかりの春であった─。
「お前たちに、言っておかないといけないことがある」
落合が中日の新監督に就任してまもない2004年の3月のことだった。ナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」のロビーには、館長の堂上照が強ばった顔で立っていた。
「今年のオフは、15人くらいの戦力外が出るらしい。寮生も例外じゃないみたいだ……」
寮にいる選手全員を集めて堂上は言った。
「寮生も例外じゃない」という言葉に、その場の空気が急に張りつめた。
堂上によれば、監督となった落合は1人もクビにすることなく現有戦力で1年目を戦うと約束した一方で、シーズンが終われば、必要ないと判断した戦力を、数を限らずに切り捨てるつもりだという。
■プロの世界に抱いていた幻想
それまでの中日には選手寮にいる選手─原則として高卒4年、大卒2年─はクビにならないという暗黙のルールがあったが、落合のメスに聖域はないのだという。
堂上の話を聞き終えた後、小林の心臓は早鐘を打っていた。
クビになるのは……俺だ。
東海大学からドラフト6巡目で入団して2年目だった。プロに入ってすぐ入籍した妻と生まれたばかりの娘がいた。社会人として家庭を築いた一方で、投手としてはまだ半人前だった。一軍のマウンドに上がることすらできていなかった。稼ぐどころか、プロになって手にしたものといえば、劣等感ばかりだった。思い描いていた世界とはまるで違っていた。
小林がこの世界に抱いていた幻想は、ある1枚の写真に象徴されていた。
■いつも持ち歩いていた写真
18歳になる春、小林は群馬の強豪・桐生第一高校のエースとして関東大会に出場した。その開会式でポケットに使い捨てカメラを忍ばせていたのには理由があった。同じグラウンドに並ぶ、横浜高校のエース松坂大輔と記念撮影をするためだ。
式が終わると、小林は松坂を囲む多くの人波をかき分け、本人の元へたどり着いた。すでに全国に名を知られていた松坂は桐生第一のサウスポーの名前に聞き覚えがある様子だった。そのことが誇らしかった。丸刈り頭の2人で同じフレームに収まった1枚は、小林に不思議な力を与えた。
最後の夏は甲子園の1回戦で敗れたが、群馬に戻ってからも、テレビの中の松坂に釘付けになった。PL学園高校との延長17回の死闘も、翌日の準決勝でテーピングを剥ぎ取ってマウンドに上がった姿も、そして決勝でのノーヒットノーランも、松坂が甲子園のスターになっていく姿を、まるで自分のことのように目に焼きつけた。
そのころの小林はいつもあの写真を持ち歩いていた。それを見ると、何だってできるような気持ちになった。自分も世の中が呼ぶ「松坂世代」の一員であり、彼を筆頭にして並んだ星のひとつなのだという事実が未来を明るく照らしてくれるような気がしていた。
だが平成の怪物から遅れること4年、大学を経てプロの世界に入ってみると現実を突きつけられた。
■「クビ」という単語に自分の名前を連想するように
それまで小林はストレートで打者を抑えてきたが、ブルペンのすぐ横に自分より速い球を投げるピッチャーがいた。そのまた隣にはさらに上がいた。こんな世界で自分は何を頼りに成功すればいいのか。二軍のマウンドに上がることさえままならない小林には、それがわからなかった。
はっきりしていたのは、松坂はこの世界ですでにエースであり、50を超える勝利を手にしていたということ、まだ何者でもない自分との間には果てしない距離があるということだった。
松坂だけではなかった。同じ東海大学から巨人に入った久保裕也は1年目から東京ドームで華やかな照明を浴びていた。早稲田大学からダイエーに入ったサウスポーの和田毅は新人王を手にしていた。松坂世代とひとくくりにされ、遠くからは並んで光っているように見える星の群れも個々の明度には歴然と差があり、序列があった。アマチュアでは顕在化しなかったその差が、プロの世界ではこれでもかというくらい浮き彫りになった。
いつしか松坂と並んで映ったあの写真は小林の手元を離れ、遠いものになっていた。クビという単語に真っ先に自分の名前を連想するようになっていた。
2004年の秋、館長の堂上が言った通り、落合は15人の選手に戦力外を通告した。その中に小林の名前は含まれていなかった。その理由が、小林にはわからなかった。
■落合から受け取った1本のビデオ
なぜ、俺ではなかったのか……。
そして新しい春が来るたびに、次こそは自分の番だという不安に襲われ、身を縮めながら秋まで過ごさなければならなかった。人々が待ち望む季節を小林は怖れた。
小さなきっかけが訪れたのは、ようやく一軍で4試合に投げた3年目の秋だった。オフシーズンの練習をしているところへ、投手コーチの森繁和がやってきた。何か思惑を秘めているような顔をしていた。
「お前、腕を下げてみないか?」
森は縁の細い眼鏡の奥を光らせて言った。オーバーハンドからサイドスローへ転向してみないかということだった。思いつきではなく、タイミングを計っていたかのような口調だった。
この年はシーズン中から森の視線を感じることがあった。ブルペンでピッチング練習をしていると、小林のことをじっと見ている。そして、フラッとブルペンにやってきた落合もまた森と何やら話し込みながら、自分の方へと視線を送る。そういうことが何度かあった。もしかしたら、俺は期待されているのかもしれない……と内心では思っていた。
「昔な、こういう投手がいたんだ」
腕を下げるという言葉の真意を測りかねていた小林に、森は1本のビデオを手渡した。
自宅に帰ってそれを再生してみると、画面の中にはひとりのサウスポーがいた。小柄で細身のその投手はモーションに入ると低く沈み込み、地面スレスレのところからボールを投げていた。
永射保─1970年代後半から80年代半ばにかけて、西武ライオンズ黄金時代の幕開けを支えたリリーバーだった。
■落合と森から注がれていた視線の意味
永射は「左殺し」の異名を取った。左の横手投げという希少性を生かして、左バッターの背中から襲ってくるようなストレートとカーブで各球団の主砲を封じた。自軍のピンチでマウンドに上がると、ロッテの二冠王レロン・リーや南海のホームラン王・門田博光、日本ハムでサモアの怪人と怖れられたトニー・ソレイタら左打ちの強打者を淡々と打ち取ってマウンドを降りていくのだ。
永射の存在は、天下無敵であったはずの彼らに左打ちであることを呪わせた。リーはあまりに永射に抑えられたため、1981年のある試合で、本来とは逆の右打席に立ったほどだった。
小林は30年近くも昔の永射の投球に食い入った。古びた映像を何度も巻き戻した。ゲームの勝敗を左右する場面で1人の打者を抑える。そうやってこの世界を生きていく方法もあるのだということを永射の姿は示していた。エースではない。主役ではない。だが、舞台の片隅に自分だけの場所を持っている。小林にはそんなワンポイントリリーバーが眩しく見えた。
落合と森は同じ時代に敵として、味方として永射を見てきたのだ。小林はシーズン中に落合と森から注がれていた視線の意味を理解した。
そういうことだったのか……。
セ・リーグのライバル球団を見渡してみると、阪神の金本知憲をはじめ、巨人の高橋由伸と阿部慎之助、広島の前田智徳といった左バッターたちがライバル球団の主軸として君臨していた。
■ずっと抱えていた憧れに別れを告げ、フォーム変更を決意
小林にとっては雲の上の存在だったが、落合と森は彼らを飯の種にしろと言っていた。21世紀の永射になれ、というのだ。
腕を下げてみないか?
小林は森の言葉をもう一度、反芻してみた。
希少性を武器とする左のワンポイントになるということはこの先、舞台の片隅で、脇役として生きていくということだ。
小林の胸に一瞬、松坂とふたりで並んだ写真がよぎった。
まっさらなマウンドに上がり、スピードボールで打者をねじ伏せる。ずっと抱えていた憧れに別れを告げることになる。
それから小林は、まだ何者でもない自分と結婚した妻と物心ついたばかりの幼い娘の顔を浮かべて、青春の匂いがする微かな未練を断ち切った。そして森に返事をした。
「やります。お願いします」
その日から小林は、誰とも違う角度からボールを投げるようになった。低く、もっと低く。ありったけ重心を下げたところから重力に逆らうように投げていく。そのフォームは想像していた以上に苦しいものだった。
■マウンドにやってきた落合の一言
だから結果が出ないときは、かつてのように上から投げてみたこともあった。随分とスムーズに投げられるように感じた。ただその度に、心の底に残っている未練に気づき、それを振り払うように自分に言い聞かせた。
俺は何のために、下から投げると決めたんだ……。
世代トップランナーである松坂の背中を追うのではない。誰とも違う道をひとり歩く。盤上のある一瞬だけ光を放つ駒になるのだ。その先に生きる道があるはずだと、小林は信じた。一寸先も見えない闇のなかでは、そうするしかなかった。
ようやく生きる道が見えたのは6年目を迎えた2008年のことだった。
開幕まもない阪神とのナイトゲーム、小林は同点の7回からマウンドに上がった。ツーアウトながら2塁にランナーを背負い、打席に3番の新井貴浩を迎えていた。落合がベンチを立つのが見えた。
ああ、交代か……。
小林はそう判断した。おそらく次の1点が勝敗を分ける。右の強打者を迎えた場面での降板は無理もないことのように思えた。
だが、マウンドにやってきた落合は予測とはまったく逆のことを言った。
「勝負だ」
抑揚のないその声を聞いて、小林はあえて右バッターの新井と勝負するのだと理解した。左殺しである自分への指示としては妙な気もしたが、落合が言うのであればそうするしかない。
■投手としての道
すると、正捕手の谷繁がマスク越しに小林の目を見て言った。
「お前、わかってるか? 新井を敬遠して、金本さん勝負ってことだぞ」
それを聞いて、小林は頭が真っ白になった。
タイガースの4番金本は左打ちだったが、投手の左右に関係なく、リーグで最も対戦を避けるべきバッターだった。毎年のように30本以上のホームランを放ち、とりわけ勝敗を分ける場面では他に並ぶ者がないほどの強さを発揮する。だから、どの球団のバッテリーも勝負どころでは金本を1塁へ歩かせていた。
そんな打者と勝負しろ、と落合は言った。小林の全身を高揚感が駆け巡った。左を殺す。そのための駒として認められた瞬間だった。
新井を歩かせて塁を埋めると、スタジアムがどよめいた。阪神ベンチもざわついていた。何より静かに打席に入ってくる金本からただならぬ空気が漂っていた。小林はかつての永射と同じようにゲームのヤマ場で最強の左バッターと向き合った。
鼓動が速くなり過ぎたためかもしれない。結果的に金本にはフォアボールを与えた。試合は引き分けに終わった。多くの者にとっては長いシーズンの、ある一試合に過ぎなかったかもしれない。ただ、ゲーム後も小林の胸は痺れたままだった。松坂に出会ったころの誇らしさが微かによみがえっていた。投手としてどう生きていくのか、その道が見えた気がした。
小林が春を怖れなくなったのは、それからだった。
【続きを読む】 「相手はお前を嫌がっているのに…」落合が球速130キロにも満たないサウスポーにポツリと伝えた“アドバイス”の“真意”とは
「相手はお前を嫌がっているのに…」落合が球速130キロにも満たないサウスポーにポツリと伝えた“アドバイス”の“真意”とは へ続く
(鈴木 忠平/週刊文春)
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