「正直、がっかりしました」巨人ファン・徳光和夫がプロレス実況を命じられて味わった苦痛、当時は「八百長疑惑もあって…」

「正直、がっかりしました」巨人ファン・徳光和夫がプロレス実況を命じられて味わった苦痛、当時は「八百長疑惑もあって…」

若かりし徳光和夫はなぜ「プロレス実況」を嫌がったのか? ©文藝春秋

 ジャイアント馬場、アントニオ猪木などプロレスラーとの交流も深い徳光和夫だが、実は若かりし頃はプロレスに苦手意識を持っていた時代も。

 会社からプロレス実況を命じられ落ち込んでいた徳光氏を救った、先輩アナウンサーの言葉とは? プロレスライターの斎藤文彦氏による新刊『 猪木と馬場 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■徳光和夫さんが語ってくれた“馬場さんとの思い出”

 ぼくは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のプロレスラーとしての全盛期とその人柄をひじょうによく知る人物とお話をすることができた。フリー・アナウンサーでタレントの徳光和夫さんである。昭和と平成をまたいでスポーツ中継からバラエティーまでありとあらゆるテレビ番組の司会者やコメンテーターとして活躍してきた“テレビの顔”が、かつてはプロレス中継の実況アナだったという事実はいまとなってはあまり知られていない。

 徳光さんがプロレス中継を担当したのは23歳から31歳まで、テレビ業界の番組改編カレンダーでいうと1964年(昭和39年)から1973年(昭和48年)までの8年間。日本プロレスの“金曜夜8時”から全日本プロレス初期の“土曜夜8時”のゴールデンタイムの番組で、馬場が日本プロレスのエースの座にあった時代――馬場&猪木の“BI砲”の時代――馬場の日本プロレス退団と全日本プロレス設立という激動の時代のどまんなかでマイクを握っていた。

■徳光和夫が語った「ジャイアント馬場」との思い出

 徳光さんが取材場所に指定してきたのは、永田町にあるザ・キャピトルホテル東急の3階ロビー横のレストラン「ORIGAMI(オリガミ)」だった。旧キャピトル東急ホテル内にあった「オリガミ」は、在りし日の馬場がたいへん長い時間を過ごした場所としてプロレスファンにはよく知られている。

 馬場がオーナー社長だった時代の全日本プロレスの事務所は、かつては旧防衛庁の庁舎があり現在は東京ミッドタウンに姿を変えている一角から道路を渡って斜め前の六本木7丁目の雑居ビルのなかにあった。だが、馬場は六本木のオフィスよりもこの「オリガミ」を仕事の打ち合わせやマスコミの取材場所に使い、食事や憩いの場として愛用し、オフの日は午後のひとときから深夜近くなって自宅に帰るまでの半日を店の奥のゆったりしたブースに腰かけて過ごしていた。

「オリガミ」は洋食メニューのレストランだけれど、馬場が「きょうは天ぷらが食いたいなあ」とつぶやけば、「オリガミ」のすぐとなりにあった和食の店「源氏」から天ぷらのフルコースが運ばれてきた。

「天ぷら屋さんはカウンター席が6席あるだけの狭いスペースで、スツールもちいさいし、馬場さんは体が大きいので、自分がそこへ行くとお店に迷惑がかかるだろうと考えたわけです」

 徳光さんは「馬場さんご自身は、もちろん、そんなことはいいませんよ」と前置きしてから、懐かしそうな顔でこう述懐した。

「馬場さんはそういう細かい気配りをされる方でした」

■プロレス中継配属に「がっかりした」

 徳光さんにとって最初のプロレスの記憶は、中学1年生のときにテレビから聞こえてきた、日本テレビ第1期生で徳光さんにとっては大先輩にあたる江本三千年氏の震えるような声までさかのぼる。

「六尺四寸五分、マイク・シャープ。五尺七寸五分、力道山。……国民は泣いております。大衆は泣いております。私の目にも涙……」という江本アナウンサーの名調子がいまも徳光さんの耳の奥のほうに残っている。

 国内最初の民放テレビ局として1953年(昭和28年)に開局した日本テレビは、翌1954年(昭和29年)2月、日本のプロレス史のプロローグである力道山&木村政彦対シャープ兄弟の歴史的な一戦を生中継し、プロレス界とは古くから密接な関係にあった。

 徳光さんが実況アナウンサーとしてプロレス中継に配属されたのは、日本テレビに入社して2年めの1964年(昭和39年)秋だった。プロ野球中継、とくに読売ジャイアンツの長嶋茂雄の躍動するプレーの実況がやりたくてアナウンサーを志したため、プロレス中継担当の業務命令には「正直、がっかりしました」という。

 それまでプロレス中継番組の実況アナウンサーは徳光さんの先輩の佐土一正氏と清水一郎氏のふたりで、佐土氏は力道山の現役時代のほとんどの試合の実況を担当し、清水氏は力道山時代の1957年(昭和32年)から全日本プロレス中継に移行後の1978年(昭和53年)まで約20年間にわたり“プロレス中継の声”として活躍した。

 徳光さんは当時の状況をこうふり返る。

「佐土さんはニュースを読まれたり、清水さんはスポーツ中継以外にドキュメンタリーのナレーションを担当したりで、ほかにも番組を持たれていた。プロレス中継の実況は、なり手がいなかったんでしょうね。私自身は当初、プロレスにはアレルギーというか嫌悪感を持っていました。プロ野球をやりたかったので、プロレスはやりたくなかった」

 “プロレスの父”力道山が生きていた昭和30年代――徳光さんの学生時代――の時点で世間一般にはすでにプロレスに対する“八百長論”が蔓延していた。当時はまだ新しいメディアだったテレビが全国放送していたプロスポーツは野球、大相撲、ボクシング、プロレスの4種目。視聴率ではジャイアンツ戦のナイター中継がナンバーワンで、プロレスはその次に人気があった。

「テレビの人気とプロレスの人気……。プロレスが存在していなかったら、テレビがあんなに早く一般の家庭に普及することはなかった。それはほんとうだと思います。でも、八百長疑惑もあって、そのことがずっと頭のなかに残っていたんですね」

 そんな徳光さんの心を揺さぶったのは、尊敬する先輩アナウンサーの清水氏から受けたレクチャーだった。

 清水氏は23歳の新人アナウンサーだった徳光さんにこう語りかけた。

「なあ、徳光、そもそもスポーツはショーだろ。プロレスは最高のショーだぞ」

「プロレスというものは受け身のスポーツだ。いかに技を大きく見せるかだ。そのために選手たちは体を鍛えている。その鍛え方はハンパじゃない。それを八百長だどうだというのはおかしい」

 徳光さんがプロレス中継を担当するようになった64年は、馬場が2回めのアメリカ長期ツアーから帰国し、日本プロレスのエースとなった年。馬場は1941年(昭和16年)3月生まれの徳光さんよりも3つ年上だったが、徳光さんは馬場に対して“同期”という感覚を抱いた。馬場がプロ野球選手として挫折してプロレスに転向し、徳光さんもまたプロ野球中継のアナウンサーになれずにプロレス中継に配属されたことも、若き日の徳光さんが馬場に親近感をおぼえたひとつの理由だったのかもしれない。

「清水さんの『2m9cm、134kg、世界の巨人、ジャイアント馬場がいま最上段のロープをひとまたぎして入場であります!』という実況を聞いて、カッコイイなあと思いましたね」

「レスラーの強さは、技を受ける強さなんだ、しっかりとした筋肉、真綿のような筋肉で全身を覆っているんだ。だんだんとそれが理解できるようになり、技を仕掛けられた選手の受け身、受ける選手の痛さをしゃべったほうが観ている人たちに伝わる。それを心がけました」

「アメリカ人レスラーのようなオーバーアクションはできないかもしれないけれど、日本人レスラーには受け身がある。馬場さんだってほんとうは攻撃型の選手なんでしょうけれど、試合では耐えて、耐えて、最後に逆転する。あっ、これがアメリカでおぼえてきたプロレスなんだ。ほんとうのアメリカン・プロレスを知っているのは馬場さんなんだ。そこから馬場さんというプロレスラー、馬場さんという人に興味を持ったわけです」

■馬場さんからの教え「二の足を踏め」

 プロレス中継を担当するようになると毎週のように地方都市に出張する生活が始まり、結果的に大好きだったプロ野球を観る時間が減った。シリーズ興行の巡業中には試合会場以外の場所でも馬場と接することが多くなり、プロレスについて語り合うこともあったし、日本の歴史や海外の文学や美術・芸術など、プロレスではないいろいろなことについても話をするようになった。

「プロレスもさることながら、人間的に魅力のある方でした。プロレスは人と接する仕事ですよね。馬場さんは例の調子でボソボソと語るわけです。親しき仲にも礼儀あり。どんなに親しくなっても、相手のなかに土足で上がり込むようなことはしてはいけないんだと。今日なら大丈夫かなと、踏み込めそうな日であったとしても、長い人間関係を築くためには『二の足を踏め』と教えられました。私はアナウンサーとしての道を馬場さんから教わったのです」

■「馬場さんに惹かれて、プロレスが大好きになった」

 馬場のそんな“石橋を叩いて渡る”ような生き方を「アメリカで身につけたもの」と徳光さんは分析する。

「馬場さんは若いころ、片道切符でアメリカに渡り、西も東も回った。アメリカでの武者修行の時代に人と人とのつながり、結びつきを大切にすることで、人間関係、人としての地位、ポジションをつくっていったのではないか。人間力というんですか、それをプロレスに活かしていったのではないか。だから、馬場さんはアメリカのマーケットに圧倒的に強かった。プロレスラーとしてもプロモーターとしても広いアメリカを掌握していた」

「ニューヨークのテレビスタジオで試合をやって、それからすぐに中古のキャデラックを運転して、何時間も何時間もかけてフロリダの試合会場に移動するわけですね。車のなかで馬場さんは自問自答を続けた。どんなレスラーになったらいいのかということと同時に、どう生きていけばいいのか、人間的に成長するにはどうしたらいいのかということを自らに問いかけた。そういうとき、馬場さんは『上を向いて歩こう』を口ずさんだ。これが馬場さんの大きさ、リングを降りたときの魅力になっていた」

「馬場さんはハワイが好きで、ワイキキの景色をよく油絵に描いていた。雲、波、風があって……、その自然に力強さとロマンがある。『大宇宙のなかに人間がいるんだ』と語られていました。そういう馬場さんに惹かれて、私はプロレスを大好きになり、プロレスと深く付き合うようになっていったんだと思います」

 徳光さんは、猪木については「寛ちゃんは寛ちゃんでものすごく魅力的な方」と語り、「お酒をいっしょに飲む機会は、むしろ馬場さんよりも寛ちゃんのほうが多かった」とふり返る。

“最高視聴率は54.9%”それでも「猪木VSアリ戦」が観客しらける「世紀の大凡戦」と批難されたワケ へ続く

(斎藤 文彦)

関連記事(外部サイト)