知られざる『笑っていいとも!』の仕掛け人…“伝説の放送作家” 高平哲郎がタモリに見出していた“コメディアンとしての資質”とは

知られざる『笑っていいとも!』の仕掛け人…“伝説の放送作家” 高平哲郎がタモリに見出していた“コメディアンとしての資質”とは

高平哲郎氏 ©文藝春秋

「一番向いている職業は、『詐欺師』とか良く言ってるけど…」数々のアイドル・芸能人を世に送り出した秋元康が明かす“意外な自己分析” から続く

「放送作家」という職業を見聞きしたことはあっても、その仕事内容について、具体的に説明できる人は多くないだろう。はたして彼らはどんな仕事をしているのか。そして、放送作家がテレビ・ラジオ界に与えてきた影響とは……。

 ここでは、社会学者の太田省一氏が、歴史に名を刻む放送作家の実像に迫った著書『 放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか 』(星海社新書)より一部を抜粋。タモリを世に送り出した放送作家、高平哲郎氏の才覚について紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

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■高平哲郎とタモリの「密室芸」

 ビートたけしと並び、「お笑いビッグ3」のひとりであるタモリ。そのタモリにも、やはり縁の深い放送作家がいる。高平哲郎である。

 高平は、1947年東京生まれ。景山民夫(編集部注:『11PM』『クイズダービー』『タモリ倶楽部』などの番組を手掛けた放送作家)とは、同じ中高に通っていた。一橋大学社会学部を卒業後、広告代理店の博報堂に入社してコピーライターに。同時に出版社の嘱託として本や雑誌の編集にも携わった。博報堂退社後は、雑誌『宝島』の創刊にかかわるなど、編集者・ライターとして活躍していた。

 そして1970年代中盤、高平はタモリと出会う。当時新宿・歌舞伎町に「ジャックの豆の木」というスナックがあった。ある日、高平はその店に行かないかと友人から誘われる。福岡でジャズピアニストの山下洋輔が出会った謎の男が顔を出すという話だった。

■タモリのマネージャー役を引き受けることに

「タモリ」と呼ばれるその男は、高平ら店の常連たちの前で、次から次へと奇妙な芸を繰り出した。後に有名になったイグアナの物真似、NHKラジオ『ひるのいこい』のパロディを絶妙に演じたかと思えば、ターザンが中国語やドイツ語のデタラメ外国語で雄叫びをあげるというネタ、さらに同じくデタラメ外国語でアメリカ人と中国人と韓国人、そしてルールを覚えたてのベトナム人が麻雀をして大ゲンカになるという「四か国親善麻雀」など。それらはどれも、いままでほかでは見たことのないようなものだった。

 これが、高平哲郎とタモリ、そして後に「密室芸」と名づけられるその芸との出会いだった(高平哲郎『ぼくたちの七〇年代』、136‐140頁)。タモリは、このスナックの常連のひとりだった漫画家・赤塚不二夫にたちまち気に入られ、その伝手でテレビにも出るようになる。そして高平は、世間の注目を集めるようになったタモリのマネージャー役を引き受けることになった(同書、144‐145頁)。

 1976年にはタモリが初のテレビ番組レギュラーに。そうしたなかで、高平哲郎もテレビ番組の構成の仕事をするようになっていく。

■『笑っていいとも!』にはスーパーバイザーという立場で参加

 担当したのは当然タモリ出演の番組が多かったが、漫才ブームとともにそれ以外の番組にもかかわるようになる。たとえば、漫才ブームの中心メンバーが大挙出演した『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系、1980年放送開始)や『オレたちひょうきん族』などがそうだった。

 こうして関係性を深めた高平哲郎とタモリ、そして漫才ブームの火付け役となったフジテレビ。この両者が合流したところに生まれたのが、『森田一義アワー?笑っていいとも!』である。始まったのは、1982年10月。「密室芸」で正体不明の怪しげなイメージが強かったタモリが、お昼の帯番組の司会をすることを疑問視する声は当初多かった。しかし、フジテレビの賭けは当たり、結局30年以上続く人気長寿番組になったのは、よく知られている通りだ。

 高平哲郎は、この『笑っていいとも!』には、スーパーバイザーという立場で参加した。メインMCのタモリ以外は各曜日で出演者も企画も違っていたので、それらを全体的に統括する役割である。高平自身はこの役割を、「とにかく面白く」なるように意見を言う「雑誌の編集長」のようなものと考えていた(『週プレNEWS』2016年7月26日付けインタビュー)。

■『今夜は最高!』に生かされた編集者的感性

 ただ、高平哲郎の放送作家としての真骨頂は、やはりタモリならではのテイストの笑いをメインにした番組にあった。

 タモリと言えば、『笑っていいとも!』を思い浮かべるひとがおそらく多いだろう。だが、タモリのコメディアンとしての資質、やりたい笑いに最も忠実につくられた番組は、『笑っていいとも!』の前年に始まっていた日本テレビ『今夜は最高!』と言っていい。

 メインのタモリに加え、女性ゲストのパートナー、それに回替わりの男性ゲストの3人で番組は進行する。最初に短めのコント。このオチで、タモリが「今夜は最高!」と番組タイトルをコールする。その後は3人でお酒を酌み交わしながらのトーク、さらに長めのコント(「寅さん」など名作映画のパロディなどが多かった)、タモリがトランペット演奏を披露する3人の歌のコーナーと続いてエンディング。

■「バラエティ・ショー」的なバラエティに惹かれていた

 ちょっと詳しく書いたのは、この『今夜は最高!』が、音楽、トーク、コントをつないで構成される「バラエティ・ショー」のフォーマットに従っていたことをわかってもらうためだ。先ほど1980年代のバラエティ番組はお笑い芸人メインの笑いに特化したものになったと書いたが、『今夜は最高!』は、むしろ1960年代の『シャボン玉ホリデー』などの伝統に近いものだった。

 それは、パロディ芸に一日の長があり、トランペットを吹き音楽への造詣も深いタモリだからこそできることだったが、同時に高平哲郎の嗜好に沿ったものでもあった。スタンダップ・コメディの研究家としても知られるように、アメリカのショービジネスやエンターテインメントに通じていた高平は、笑いに特化した日本的バラエティよりも、「バラエティ・ショー」的なバラエティに惹かれていた。

 また、こうした「バラエティ・ショー」的番組は、先ほどふれたように、彼の編集者的感性が最も生かせる番組スタイルであった。『今夜は最高!』もまた、「雑誌のようなもの」であると、高平自身も振り返っている。雑誌に例えれば、それは、「表紙があって、グラビアがあって、座談会があって、読み物があって、音楽欄がある」ものだったからである(高平哲郎『今夜は最高な日々』、114頁)。

■日本のバラエティ番組史を語るうえで忘れてはならない人物

 草創期の放送作家たちが活字世代であり、小説家に転身したケースが多いことはここまで何度かふれてきた。高平哲郎も、活字世代の感性を色濃く持っている。しかし、彼の場合は、ライターとしてだけでなく、編集者として活字にかかわったところが特徴だ。そのことが、1980年代のテレビにおいて、放送作家としての独自のポジションを築くことにもつながった。

 高平哲郎は、恒例になったフジテレビ系列の『FNS27時間テレビ』の立ち上げにも携わった。発想の出発点は、先行する日本テレビの『24時間テレビ』の感動路線に対抗して、徹底した笑い重視の番組をつくることだった。タモリの司会でやることを踏まえ、フジテレビ(当時)のプロデューサー・横澤彪から相談を持ち掛けられた高平は、「日本テレビと間違って一円玉のぎっしりつまった壜が河田町のフジテレビに届けられる」というパロディ的アイデアを出し、それは本番でも実行された(同書、170‐171頁)。こういったところからも、日本のバラエティ番組史を語るうえで忘れてはならない人物である。

【前編を読む】 「一番向いている職業は、『詐欺師』とか良く言ってるけど…」数々のアイドル・芸能人を世に送り出した秋元康が明かす“意外な自己分析”

(太田 省一)

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