「一番向いている職業は、『詐欺師』とか良く言ってるけど…」数々のアイドル・芸能人を世に送り出した秋元康が明かす“意外な自己分析”

「一番向いている職業は、『詐欺師』とか良く言ってるけど…」数々のアイドル・芸能人を世に送り出した秋元康が明かす“意外な自己分析”

秋元康氏 ©文藝春秋

 おニャン子クラブ、AKB48、乃木坂46など、時代を象徴すると言っても過言ではない数々のアイドルグループを世に送り出してきた秋元康氏。現在は作詞やプロデュースなど、肩書を一言で言い表せない活躍を続けている同氏だが、放送界に足を踏み入れた際の肩書は“放送作家”だった。秋元氏は、そこからいったいどのようにして、仕事の幅を広げてきたのか。

 ここでは、社会学者の太田省一氏がテレビ・ラジオ界を支え続けた放送作家達の姿を紹介した『 放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか 』(星海社新書)の一部を抜粋。秋元康氏の築き上げてきたキャリアを追う。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■放送作家・秋元康の誕生

 アイドルとテレビの蜜月時代が始まった1970年代。そして1980年代になると、アイドルは、テレビのなかにごく当たり前に存在するものになった。松田聖子や中森明菜、そして小泉今日子など人気女性アイドルが次々登場したかと思えば、ジャニーズからも、田原俊彦、近藤真彦、野村義男の「たのきんトリオ」がブームを巻き起こし、さらにシブがき隊や少年隊も後に続いた。「アイドル」という言葉の定義には曖昧な部分もあるにせよ、少なくともなんとなく「アイドルとはこういうものだろう」という世間のイメージが、そうしたアイドルたちを通じて出来上がっていった。

 当時社会現象を巻き起こしたおニャン子クラブが歌う楽曲の作詞を一手に引き受けた秋元康は、そんな1980年代のアイドルシーンを担ったキーパーソンのひとりだ。さらに秋元は、ご存知の通り、時を隔てて2000年代以降、AKB48とその姉妹グループ、さらに乃木坂46など坂道シリーズの作詞・プロデュースで再度大きな成功を収めた。日本のアイドル史を語るうえで、欠かせない存在である。

 その秋元康も、スタートは放送作家からだった。

 秋元は、1958年東京都目黒区生まれ。小学校低学年で、同じ東京の保谷市に引っ越した。少年時代は、将来は東京大学に入り、そこから大蔵官僚になることを目指していたという。しかし、私立の進学校として有名な開成中学の受験に失敗。公立中学を経て、高校は中央大学付属杉並高校に進学した(『MusicMan』2010年11月17日付けインタビューなど)。

■中央大学文学部に進学後、本格的に放送作家に

 そんな秋元が放送の世界に入ったきっかけは、高校時代に聴いたラジオの深夜放送である。それは、当時若者に人気を誇ったコメディアン・せんだみつおがパーソナリティの『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』(ニッポン放送、1974年放送開始)という番組だった。そのなかに、「せんみつの深夜劇場」という、古今東西の名作をパロディにするコーナーがあった。

 ある日、そのコーナーを聞いて「何か、自分でも書けるような気がした」秋元は、試験勉強も忘れて、『平家物語』のパロディをノート20頁にわたって徹夜で書き上げた。普段から下ネタ満載のそのコーナーに合わせたエッチなものだったが、番組宛てに送ってみた。するとそれが担当者の目に留まり、スタジオに遊びに来ないかと誘われるようになった。そして、その番組の構成作家だった奥山p伸の弟子として、中央大学文学部に進学後、本格的に放送作家になった(秋元康『さらば、メルセデス』、71‐76頁、126頁)。ただ、すぐに放送作家としての仕事が大忙しになったため、大学は中退することになる。

■秋元康ととんねるず、そしておニャン子クラブへ

 こうして放送作家になった秋元康は、若さを生かし、テレビやラジオの番組を数多く掛け持ちする売れっ子になった。そのなかで最も重要な出会いとなったのが、とんねるずとの出会いである。

 最初のきっかけは、『モーニングサラダ』(1981年放送開始)という日本テレビの朝の番組だった。とんねるずのネタを気に入った秋元康が、彼らを「お目覚めコント」という1分間のコーナーに抜擢したのである。そこから両者の交流が始まった(『秋元康大全97%』、181頁)。

 そして1983年、フジテレビで『オールナイトフジ』がスタートする。一般の女子大生が司会やレポーターをする土曜の深夜番組で、台本の読み間違えやたどたどしいレポートぶりなど、素人っぽさが大きな反響を呼び、一躍「女子大生ブーム」を巻き起こした。秋元康はこの番組に構成作家として参加、その縁でとんねるずが起用されることになる。

 ここでとんねるずは、彼らが得意とする体育会系のノリでスタジオ狭しと暴れ回り、若者のあいだで人気を得るようになる。その象徴とも言えるのが、カメラ引き倒し事件だ。

 1985年1月のこと。とんねるずが番組内で持ち歌の『一気!』(1984年発売)を歌った。学生の飲み会の盛り上がる様子を歌ったコミックソング的な内容で、作詞はもちろん秋元康。曲中、学ラン姿のとんねるずの2人はいつものノリで歌いながら激しく動き回り、暴れていた。すると、調子に乗った石橋貴明に引っ張られ、揺さぶられたテレビカメラが倒れ、レンズが破損するなど壊れてしまった。「やっちゃった」という表情の石橋と、呆然とする木梨憲武。

■52週中36週でおニャン子クラブ関連の曲が1位に

 始末書どころの騒ぎではないが、こうしたことも、逆に彼ららしいハプニングとしてとんねるずの人気に拍車をかけた。その後も秋元康ととんねるずは放送作家と演者の立場でタッグを組み、長寿番組となった『とんねるずのみなさんのおかげです。』(フジテレビ系、1988年放送開始)などの番組をともにつくっていくことになる。

『オールナイトフジ』からは、もうひとつ秋元康の運命を変える出来事が起こった。『オールナイトフジ』の成功を受け、番組スタッフがスピンオフとして企画したのが、『オールナイトフジ女子高生スペシャル』である。これもまた好評で、この番組をベースに夕方の帯番組が企画され、スタートする。それが、おニャン子クラブの出演する『夕やけニャンニャン』(1985年放送開始)だった。ここでも秋元康は企画の立場で番組にかかわった。

 番組内では、おニャン子クラブ新メンバーを選ぶオーディションコーナー「アイドルを探せ」も放送された。その審査員でもあった秋元は、おニャン子クラブの本体、さらには派生ユニットやソロデビューするメンバーの楽曲の作詞を一手に引き受けた。それらは圧倒的なおニャン子ブームにも後押しされ、軒並みオリコンチャートの1位を獲得。1986年に至っては、なんと全52週中36週でおニャン子クラブ関連の曲が1位になった。その頃の秋元康は、自分のことをよく自虐的に「おニャン子成金」と呼んでいた。

■映像イメージから詞を生み出す秋元康

 そもそも、秋元康の作詞家デビューは、1981年のことである。曲は、アニメ『とんでも戦士ムテキング』(フジテレビ系、1980年放送開始)の挿入歌「タコローダンシング」。プロフィール上は、同年発売のAlfee(現・THE ALFEE)のシングルのB面「言葉にしたくない天気」になっているが、それはそちらのほうが「かっこいい」と秋元自身が考えたためだったという。

 飛躍のきっかけになったのは、翌1982年発売の稲垣潤一「ドラマティック・レイン」である。これがオリコン週間シングルチャート8位を記録し、秋元康にとっても初のヒット曲となった。続けて、秋元がラジオ番組の構成を担当した縁で親交のあった長渕剛の「GOOD‐BYE青春」(1983年発売)もヒットし、作詞家として軌道に乗り始めた。

 同じく1980年代、歌謡曲の作詞家として一世を風靡した松本隆は、自分の詞を「小説的」とする一方で、秋元康の詞を「映像的」と評した(前掲『秋元康大全97%』、19頁)。

 自分の詞が映像的な理由として、秋元は、自分が「テレビ番組の構成台本作家を経ていること」を挙げている。1970年代から1980年代にかけて人気だった音楽番組『ザ・ベストテン』の放送作家のひとりであった彼は、「売れる歌というのはセットが作りやすい」、すなわち「視覚的なイメージを喚起しやすい」と感じていた(同書、19頁)。

■「テレビっ子」第一世代に結びつく側面

 実際、初期の秋元康は、詞を映画のようにイメージしていた。たとえば、喫茶店にいる恋人同士が主人公だとすれば、まずカメラが喫茶店を映し出し、2人のアップに移動して、また外の風景に行く。また「ドラマティック・レイン」であれば、「今夜のおまえは ふいに 長い髪 ほどいて」といったフレーズも、視覚を刺激し、場面の映像が浮かぶようなものであり、そんなふうに映像のイメージをそのまま言葉にしていた(同書、19頁)。

 また、秋元康本人が言うところでは、彼は、歌詞は書くが、小説は書けない。直木賞を受賞したなかにし礼のように作詞家から作家になったひともいるが、秋元にはそれが難しい。それは、テレビのようなマスメディアの場で仕事をしてきたため、小説のように自分自身が色濃く投影されるものより、まず多くのひとに認知されるものを考えることが自然に身についてしまっているからだと言う(同書、20頁)。

 このあたりは、世代的な背景もありそうだ。1960年代の草創期の放送作家たちは活字世代である。それゆえ、文筆活動への憧れも強く、実際野坂昭如や井上ひさしなど、多くの放送作家が小説家に転身していった。なかにし礼も1938年生まれで、彼らに近い。それに比べ、1958年生まれの秋元康は、生まれたときにすでにテレビがあった世代、いわゆる「テレビっ子」第一世代である。結局、歌詞が「映像的」というところに関しても、そうした世代的なものに結びついている側面が背景にあるだろう。

■「企画者」という秋元康の本質

 放送作家としての秋元康は、実は青島幸男の孫弟子にあたる。先述の師匠・奥山p伸が、青島の弟子だったからである。

 そういう目で見ると、2人には似ているところも感じられる。秋元康にとんねるずがいたように、青島幸男にはクレージーキャッツがいた。とんねるずもクレージーキャッツも、ともにバラエティ番組を中心に活躍するコメディアンであると同時に、歌手としてもヒット曲を連発した。そしてその詞を、それぞれ秋元康と青島幸男が書いた。

 クレージーキャッツが高度経済成長期、とんねるずがバブル景気の頃と、活躍した時代はもちろん違うが、歌詞のテイストにも重なるものがある。

 基本は、遊びの精神だ。クレージーキャッツが歌う青島幸男の詞も、とんねるずが歌う秋元康の詞も、遊び心であふれている。植木等が、高度経済成長期の日本人の生真面目さや勤勉さをからかうように「無責任」を高らかに、そして陽気に歌い上げたとすれば、とんねるずは、バブル景気の軽さがもてはやされる時代のなかで、パロディ精神にあふれた曲を次々と世に送り出した。「雨の西麻布」(1985年発売)は演歌のパロディ、「ガラガラヘビがやってくる」(1992年発売)は童謡のパロディ、一見真面目な「情けねえ」(1991年発売)も長渕剛のパロディだった。

 言い換えれば、既成の常識に対してなにか仕掛けていくという共通点が、青島幸男と秋元康にはある。

■どのような詞を歌わせれば、多くのひとに支持されるのか

 ただもう一方で、違っているところもある。青島がタレントとなって自ら表舞台に出ていったのに対し、秋元は決して演者にはならず、終始黒子に徹している。秋元本人によれば、なにか面白いことを考えて誰かにやらせて楽しむ「フィクサー的」ポジションを好むのは、中学時代から変わっていないという(同書、15頁)。

 時代に対して仕掛けつつ、自分が表に立つポジションにはつかない。その点について、秋元康は、こう自己分析する。「僕が17歳の時の構成台本作家から始まって一貫しているのは、まずゲリラであるということなんですよ。それと、思いつきがベース。思いつきだけは天才的だと思う。多分僕が一番向いている職業は、「詐欺師」とかよく言っているけど、「企画者」なんですよ」(同書、20頁)。

 企画者であるという点には、阿久悠との共通点が見出せるだろう。阿久が、CMをつくるのと同じ要領で歌謡曲の詞を考えていたことは、前に書いた。それは結局、歌詞をひとつの企画と考えるのと本質的には同じことだろう。ある歌手に、どのような詞を歌わせれば、それがより多くのひとに支持されるのか? そのコンセプトを決めることから、作詞は始まる。それは、先述のように、秋元康が常に「マス(大衆)」を念頭に置いているということとも通じている。

【続きを読む】 知られざる『笑っていいとも!』の仕掛け人…“伝説の放送作家” 高平哲郎がタモリに見出していた“コメディアンとしての資質”とは

知られざる『笑っていいとも!』の仕掛け人…“伝説の放送作家” 高平哲郎がタモリに見出していた“コメディアンとしての資質”とは へ続く

(太田 省一)

関連記事(外部サイト)