「これだけ世に出てないと、忘れられるんじゃないかな」デビュー40年…腹話術師・いっこく堂(59)が語る“現在地”

「これだけ世に出てないと、忘れられるんじゃないかな」デビュー40年…腹話術師・いっこく堂(59)が語る“現在地”

いっこく堂さん

「いっこく堂って今何してるのかなと思って調べたら一人でリモート会議やってた。」

 2022年1月下旬、漫画家・おおひなたごう氏がそんな言葉と共にTwitterにあげた動画には、腹話術人形の“師匠”と“カルロス”を相手にした一人三役の「 リモート会議 」をするいっこく堂氏(59)の姿が。その芸の凄さもあって、24.6万件の“いいね”がつくほどの注目を集めた。

「今何してるのか」を筆頭に、ものまねタレント時代、舞台俳優から腹話術師となった経緯などについて、話を聞いた。(全2回の1回目/ 続きを読む )

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■「忘れられるんじゃないか」という心配が常にある

――「リモート会議」の動画が大いにバズりましたね。そのきっかけとなったおおひなたごうさんのツイートには、約25万もの“いいね”がつきました。

いっこく堂 あ、それがあってインタビューしてくれてるわけですね。なにも話題がないのに、なんで呼んでくれたんだろうって不思議だったんです。

 Twitterの件は、僕のことを思い出してくれて嬉しいなっていうのが率直な感想で。もうね、この業界にいると「これだけ世に出てないと、忘れられるんじゃないかな」っていう心配が常にあるんです。まぁ、ずっと個人でやってますし、事務所としても強いわけじゃないですから。なので、あんなふうに呟いていただいて、そこからみなさんに思い出してもらっただけでも本当に嬉しいなって。

■コロナ禍でステージが激減

――「これだけ世に出てない」原因には、やはりコロナの影響もありますか。

いっこく堂 僕はステージの人間なので、コロナ前は一番多い時で年間200本ぐらい公演をやっていましたけど、それが丸々なくなりましたから。でも「なんで俺だけ」とは思わないですね。大きな意味でいえば誰もがそういう状態ですから。

 日常を当たり前だとは思っちゃいけないっていう意識でずっと生きてきたので、「しょうがないな」と受け入れてはいます。コロナが収束しても、元の状態に戻るんじゃなくて、さらに新しいところに進むべきじゃないかって考えていますね。

――ステージ以外での活動の場は、どこに移されていましたか。

いっこく堂 稽古だけしていました。本当になにもない感じだったので。かといって荒んだ生活にはなりませんでした。やることは毎日あって、1日10キロ走るのは21年前からの日課になってますし。腕立て伏せと腹筋もやっているし、それプラス稽古をやってという感じで。新しい芸もあることはあるんですけども、いまは必要とされてないなっていうのがありまして。出せる時になったら出そうかな、みたいな。

――「リモート会議」はいっこく堂さんのYouTubeチャンネルにアップされた動画ですけど、コロナでステージが減ったからこそ動画配信に注力しようという考えは?

いっこく堂 もっと配信したいし、ネタもたくさんストックしてあるんですよ。ただ、なかなか映像制作が追いつきません。1日も早く、生で近くで見てもらえる日が戻ってほしいです。

■『笑ってる場合ですよ!』で優勝、ものまねタレントに

――昔のお話もお伺いしたいのですが、実は俳優を目指されていたんですよね。1982年、19歳で横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)に入られて。

いっこく堂 俳優科に入りました。僕の1期後輩がウッチャンナンチャンさんですね。

――在学中に『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系、1980〜1982年)のコーナー「ザ・ぼんちの物まねグランプリ」へ出て、優勝されています。

いっこく堂 俳優になる近道は、ものまねタレントになることだと思ったんです。『笑ってる場合ですよ!』でやったネタは、『俺たちは天使だ!』(日本テレビ系、1979年)の柴田恭兵さんのセリフ「そして、その報酬を俺たちがいただく!」とか(笑)。あとは水谷豊さんの「あらららら〜」なんかもやったかな。これ、よくインタビューで話してますけど、田原俊彦さんのモノマネを最初にやったのは自分なんですよ。「僕はね〜、ヨッちゃん、ヨッちゃん〜」って。

 それを観てくれた芸能事務所の社長から「やってみないか」と声が掛かったので、専門学校を退学して、事務所に入りました。学校は6ヶ月しか通ってないです。

■高校生で『欽也のそっくりベスト10』出演

――もともと、ものまねは得意だったのですか。

いっこく堂 高校の頃から先生のものまねとか芸能人のものまねをやっていて、学校で人気者でした。高校2年の時にも、TBSでやっていた愛川欽也さんの『欽也のそっくりベスト10』(1981年)に出ました。沖縄予選を勝ち抜いて、チャンピオン大会まで進んでるんですよ。当時の流行歌のなかに、谷村新司さん、前川清さん、トシちゃんのものまねを入れるというネタをやって。

――高校生でキー局の番組に出てしまうと、凄まじい万能感を得てしまいそうですね。

いっこく堂 そうですね。沖縄の高校生が東京に行って、全国放送の番組に出ちゃうわけですから。いずれにせよ、若い時はもう自信満々で怖いもの知らずですよ。『笑ってる場合ですよ!』に出た時も、自己紹介で「演劇学校に通っています」と得意になって答えてました。「演劇学校に通っているんだ。すごいだろう!」みたいな(笑)。あの時のビデオを観たら笑っちゃうし、恥ずかしくて、恥ずかしくて。まぁ、度胸がありましたね。

――『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系、1980〜1986年)も当時人気でしたが、こちらには挑まなかったのですか。

いっこく堂 実はオーディションを受けたけど、落ちたんですよ。横浜放送映画専門学院の入試と並行して受けたんですけど、ディレクターに「君は役者の方が向いてるよ」って言われて。要するに面白くなかったんでしょうね。でも、ちょっと嬉しくもあったんですよ。「やっぱり、俺は役者なんだな」って(笑)。

 その時のネタ見せには、とんねるずさん、でんでんさん、ぶるうたすさんがいましたね。みなさんのネタを見て「面白いし、なんかすごいな」って思いましたね。

■駆け出し時代にできた、明石家さんまとの縁

――事務所に入っても、司会業が多かったそうですね。

いっこく堂 温泉旅館での司会が多かったですね。たまにキャバレーやパブに呼ばれて、そのショータイムにものまねをやらせてもらったり。

 あと、吉本興業さんの芸人さんたちと営業で地方へ行きましたね。明石家さんまさんも一緒で。喫茶店で、よくおしゃべりしました。それは、さんまさんも覚えてくれていましたね。

 営業以外でも会う機会があって。さんまさんが司会の『お笑いベストテン』(テレビ東京系、1982年)に、僕もリハーサルに加わったりして、少しだけ関わっていたんですよ。

――さんまさんも『笑ってる場合ですよ!』に出ていましたし、なにかと縁があったんですね。いっこく堂さんがブレイクした時に「あの時の!」と言われたりは?

いっこく堂 いや、最初は気づかなかったみたいです。ある番組でご一緒した時に『笑ってる場合ですよ!』の映像が流れて、そこでようやく「あの時の!」となりました。

■有名劇団を受験、忘れられない言葉

――タレント業を続けて3年が経った1986年に「劇団民藝」に入られています。

いっこく堂 改めて俳優になろうと思ったんです。アルバイト先の仲間が「ここ、すごくいいよ。入所費がタダ」と教えてくれて、「え、タダ!? じゃあ、行こう!」となって。「劇団民藝」のことを何も知らずに即決しました。劇団って、月謝を払うのが普通でしたから。

 同じくタダの、仲代達矢さんが主宰する無名塾も受けて、最終まで残ってるんですよ。そのなかに僕もいて。正直、受かる勢いでしたね。仲代さんの奥様の宮崎恭子さんから「あなた、すごく才能があります」と言われて喜んだのも束の間。

「あなた、家から仕送りしてもらえるの?」「無理です」「うちに入ったらアルバイトする時間はないから、仕送りやってもらえる人とか、家から通ってもらえる人じゃないと駄目だから」と。「あ、これ落とされるやつだ」って(笑)。だけど「でも、才能ある人はどこに行っても成功します」と続けられて。その言葉でかえって自信がつきましたね。

■演劇界の重鎮にウケたものまね

――民藝の入団試験はすんなりと? こちらも名優の宇野重吉さんが主宰する劇団ですから、なかなか難しかったんじゃないかと。

いっこく堂 そうなんです。早稲田大学演劇科、文学座の研究所、桐朋短期大学の演劇専攻などできちんと勉強した人たちが集まってきてますから。でも、僕はものまねやって入っちゃったので(笑)。3次試験まであって、面接で宇野重吉さんとかのものまねを披露したのが、とにかくウケたんですよ。

――劇団民藝の先輩であり、大ベテランの俳優・米倉斉加年さんの一言が腹話術を始めるきっかけになったそうですね。

いっこく堂 巡業公演中の宴会でものまねを披露したら、「みんなで芝居をやっているときより、ひとりで芸を演じているときのほうが、いきいきしているねぇ。ひとりで何かやってみたら」と米倉さんが仰って。

■持ち時間は「3分間」、ブレイクのきっかけは…

――俳優よりも芸人に向いている、と。

いっこく堂 ちょうどその頃、演出家の方に「お前の芝居は駄目だ」って散々に言われて、悶々としていたんですよ。僕の才能がわからない人たちと芝居したってしょうがないなって。米倉さんは役者としても僕を買ってくれていたので、その言葉がことさら響きましたよね。

 で、「よし、自分ひとりでできることをやろう」ということで目を付けたのが腹話術なんですよ。中2の時に初めて腹話術を見た時の衝撃を思い出して「コレだ!」と。1992年に独学で始めて、バイトをしながらボランティアで老人ホームや児童館などを回って。正式に仕事が入ったのは、1995年くらいですかね。

――ブレイクのきっかけは?

いっこく堂 『ポンキッキーズ』(フジテレビ系)の「出てこい! パフォパフォ」というパフォーマンスのコーナーに出演したんです。そしてそれを見た人に「おやこ劇場、子ども劇場に出てみない?」と誘われました。

 おやこ劇場、子ども劇場は、親子で舞台を鑑賞してもらおうという組織なんですけど、まずはその企画会議に出てくれという話でした。関東、関西、東北、北海道、九州、四国と、各地で行われる企画会議で腹話術を披露するんですよ。僕の持ち時間は3分間。そこで好評を得て、オファーが殺到して。年間300本のステージをこなすようになったんです。

写真撮影=末永裕樹/文藝春秋

「腹話術を『教えたくない』という気持ちがありました」いっこく堂(59)が明かす「弟子入り」を断り続けるワケ へ続く

(平田 裕介)

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