「私と志村じゃ、19も年が違いますからね」いかりや長介と志村けんの“愛憎入り交じった”師弟関係の真実

「私と志村じゃ、19も年が違いますからね」いかりや長介と志村けんの“愛憎入り交じった”師弟関係の真実

いかりや長介さん ©文藝春秋

「客席がサーッと引くのが手にとるように分かった」あの志村けんが…“石みたいだった”ドリフ新参者時代 から続く

 志村けんさんは18歳の頃、すでにドリフとして人気を博していたいかりや長介さんの付き人になるために、雪の降る玄関口でいかりやさんが帰るのを震えながら待ち続けたという。その5年後、志村さんのドリフ加入で二人はメンバーとして肩を並べることになる。

 ここでは、著書に『昭和芸人 七人の最期』などがある演劇研究者・笹山敬輔さんの『 ドリフターズとその時代 』から一部を抜粋。いかりやさんと志村さんの複雑な関係について紹介する。2003年5月、いかりやさんは体にガンが見つかり緊急入院していた――。(全2回の2回目/ 前編を読む )

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■師匠と弟子

 ドリフのメンバーは、詳しい病状を一切知らされていなかった。すでに病名はマスコミに公表されていたものの、いかりやは退院直後に『踊る大捜査線THEMOVIE2レインボーブリッジを封鎖せよ!』の舞台挨拶に出席し、完治をアピールしていた。だが、実情はガンがステージWの段階にあり、放射線治療によって進行を遅らせるだけで精一杯だった。

 いかりやの声帯は放射線によって損傷し、ナレーションを務めていた番組の収録で声が出ないことがあり、しばらくして降板している。ガン細胞は顎にも転移し、10月からはカテーテルを通して抗ガン剤投与が開始された。いかりやは薬の副作用のため、口からものを食べられなくなり、胃に穴をあけて栄養剤を直接注入する器具を取りつけている。

 12月初旬、息子の浩一は医師から余命宣告を受けた。「早ければ3ヶ月、もって半年」。父には言えなかった。

 そんななか、いかりやは生涯最後の仕事を行う。来年はドリフが40周年を迎え、それを記念して12月23日に『40年だよ?ドリフ大爆笑』が放送される。その際、1983年から同じ映像を使っているオープニングとエンディングを一新することにしたのだ。5人揃っての仕事は『紅白』以来、2年ぶりである。節目とはいえ、撮り直すチャンスは過去にいくらでもあったはずで、やはりこのとき心に期するものがあったのだろう。

 12月8日、メンバー全員がフジテレビの砧(きぬた)スタジオに集合した。いかりやは7月に退院したときの映像と比べても別人のように?せこけ、声がほとんど出ていない。収録前、いかりやはメンバーを前にして、「悪い。俺、声出ないから、おまえら頼むな」と声をかけた(『週刊ポスト』2004年4月9日号)。

 放送では、1983年版に続けて新しいオープニングが披露された。1983年版では不機嫌そうに見えた加藤が、今回はとびきり楽しそうだ。テーマ曲『ドリフの大爆笑テーマ』(原作詞・岡本一平/作曲・飯田信夫)の歌詞「兄さん姉さんパパにママじいちゃんばあちゃんお孫さん揃ったところで始めよう」は、まさにドリフの真髄である。

 エンディングでは、いつも最後にいかりやが「次の回も一生懸命がんばります。ごきげんよう」と力強く言っていたが、それはなかった。代わりに、立ち位置を離れてふざける加藤と志村を目にして、いかりやが微笑み、正面を向いて一礼して終わる。言葉こそないが、それがドリフのリーダーいかりや長介による最後の挨拶だった。

 雪の日に志村がいかりやの自宅を訪れてから、35年が経過していた。そのとき36歳だったいかりやは72歳に、18歳だった志村は53歳になった。その間、蜜月の師弟関係を築いていた時期もあれば、「共演NG」だった時期もある。互いの不仲がささやかれてからは、もう20年だ。『全員集合』が終了してからは、二人はグループを離れた場所で、ドリフと違う立場を経験してきた。

■2000年前後、二人の発言内容も変わってくる…

 いかりやは俳優の仕事をするなかで、はじめて一人のメンバーになった。これまではドリフのリーダーとして、ずっとグループの全責任を背負ってきた。だが、映画やドラマの現場では、監督や演出家に身を任せられる。上手くいかなくても、自分一人が悩まなくていい。誰かに頼れるということが、とても新鮮だった。

 また、共演する俳優同士で横のつながりが生まれた。いかりやは語る。「メンバーってのはいいなと思ったのは、同次元でメンバー同士でぐちをこぼしたりできるんですね」(『person』2002年4月号)。

 志村は『だいじょうぶだぁ』以降、番組の全責任を背負うリーダーになった。共演者とスタッフをまとめ、あらゆる場面で決断していかなければならない。対等に相談できる相手はなく、いつも孤独だった。志村はリーダーの資質について問われたとき、次のように答えている。「まず忍耐。それから心を込めてやっていればいつかは通じる、わかってくれるってこと」(『地上』2006年4月号)。

 いかりやと志村は互いの立場に立つことで、分かりあえる部分が生まれたのではないか。2000年前後になると、二人の発言内容も変わってきた。

 いかりやは当初からドリフを素人集団だと公言してきた。クレイジーキャッツと比べて、才能がある人間は一人もいない。だからこそ、必死になって稽古を重ね、チームワークの笑いに徹してきた。いかりやは自身についても次のように語る。

「“喜劇人”とか“喜劇役者”とかいう言い方があるけど、僕はそれでもない。そういう名称の人はもうちょっと上手です(笑)」(『女性自身』2000年12月5日号)。

 いかりやの徹底した自己卑下には、彼のパーソナリティもあるだろうが、その源流をたどると、敗戦後の東京で青春時代を送れなかった悔恨に行き着くと思う。

 だが、志村については、1999年に行われた阿川佐和子(あがわさわこ)との対談で次のように語った。

■志村といかりや、互いに対する印象は?

〈ドリフの前座やってるときから、体を使って動くという独特のキャラクターはありましたね。入ってからも、個人的にやるとこは、むしろあいつのほうが優れているところがあった。そういう意味では、ドリフで唯一あいつだけかな、才能があったのは(笑)。僕はいつも、うちはアンサンブルをなくしちゃったら何も残らないと言ってるんですけど、あいつはソロでいける奴ですね。〉(『週刊文春』1999年4月8日号)

 一方、志村は「今のいかりやさんが面白いと思わない」と発言してから、いかりやについて言及することを避けてきたように見える。だが、2003年のインタビューでは次のように語った。「ドリフやいかりやさんの考え方とかは、僕は間違ってないと思ってますからね」(『文芸ポスト』2003年夏号)。

 二人は師匠と弟子でありながら、同じグループのメンバーになった。その複雑な関係性が、愛憎入り交じった感情を生んだのだろう。それにくわえて、周りが詮索しすぎた面もある。私も含めて、ファンはみなドリフの関係が気になるのだ。いかりやは亡くなる2年前、志村との仲を次のように語った。私はこの言葉を信じたい。

〈私と志村じゃ、19も年が違いますからね。仕事以外では、なかなか分かりあうのは難しいかもしれません。でも、不仲というわけじゃない。〉(『person』2002年4月号)

 2004年3月20日午後3時30分、いかりやは入院先の病院で永眠した。テレビ局は訃報を速報で伝えている。遺体が自宅に運ばれ、仕事先からメンバーが次々に駆けつけた。高木と仲本は、そのときの状況を次のように語る。

 高木「かけつけたのは、僕が一番早かったんじゃないかな。仕事帰りに飛んで行きました。長さんを前にして『バカヤロー』って思わず叫んじゃったよ。これからどうすんだよ、ドリフをどうすんだよ、って。」(『文春オンライン』)

 仲本「その日、僕は登別で芝居に出てました。そこへ連絡があってね。すぐに飛行機でお通夜にかけつけて、また仕事に戻らなきゃならなかったけど、あのときばかりは涙があふれてきてね。」(『文春オンライン』)

 3月24日、葬儀と告別式が青山葬儀所で営まれた。花で埋め尽くされた祭壇には、キリンラガーのCMでウッドベースを弾くいかりやの写真が飾られている。出席者は約800人、一般の弔問客が1万人も参列するなか、午後1時に式がはじまり、加藤がメンバーを代表して弔辞を読んだ。

■志村が語る“師匠”の姿

「40年間一生懸命、一生懸命走ってきて、絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで、一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人で、ドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね」

 午後3時を回り、メンバーや元付き人たちが棺を霊柩車に運び、出棺を迎えた。沿道からは拍手とともに、「オイッス」「次いってみよー」「ありがとう」の声がかかった。

 テレビカメラは、葬儀の最中に志村の目からこぼれる大粒の涙を映していた。数日後に志村は雑誌の取材を受け、師匠の死を次のように語っている。

〈全身の力が抜けましたね。もうかよ、って感じです。付き人にしてもらい、なおかつメンバーに入れてもらってチャンスを与えてもらった。今の僕があるのは、いかりやさんのおかげですから、本当に感謝しています〉(『週刊ポスト』2004年4月9日号)

 志村はある場面を思い出していた。昔、二人で酒を飲んだことがある。そのとき、志村はいかりやから次のように言われた(『BIG tomorrow』2004年11月号)。

「お前、俺に似てるよな」

 いかりやと志村は、自他ともに認める似たもの同士だった。いかりやの笑いを継ぐ者は、志村しかいないのだ。

(笹山 敬輔/文春新書)

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