正しさでは間に合わない他者に、うなずくことができるか…ある家族の「地獄」を描いた物語

正しさでは間に合わない他者に、うなずくことができるか…ある家族の「地獄」を描いた物語

『くるまの娘』(宇佐見りん 著)河出書房新社

 私は家族制度を否定している。否定しなければあの狭い家では生きていけなかった。私を育てた善良な人たちと、家族という名のもとにおかしくなった距離感を別のものとして捉えるためには、私とあの人たちが共に暮らす構造そのものを批判しなければならなかった。あの人たちが悪いのではない。構造が悪い。そう言ってやることであの人たちを憎まないようにしたかった。だがこの構造を拒む姿勢は、自分も含め、数多の個を取りこぼす傲慢さなのかもしれないとも思う。宇佐見りん『くるまの娘』を読んだ後では、私は何も言えない。

『くるまの娘』はある家族の地獄を描いた物語である。普段は穏やかだが、ひとたび火がつけば暴力をふるう父、脳梗塞の後遺症とアルコール依存に苦しみしばしば錯乱する母とともに、主人公かんこは暮らしている。兄も弟も家を出て行った。かんこだけが残される。一家は祖母の葬儀のため、車中泊で旅に出ることになる。とっくに崩れた家族の歯車は、日々にアクセルをかけられて、更に軋み出す。

 かんこは暴力を振るう両親を、助けを求める傷ついた人たちであり、自分の親であり子どもでもあると見做している。かんこは旅の果てに、暴力は天から降ってきて血に受け継がれるものだと結論づける。

 私はこの小説とは「思想上」相容れない。この小説に身を委ねることができない。だがそれは作品の評価を下げる理由にはならないのだ。本書は他者であった。私が構造という言葉でふだんピントをずらしている相手と、必死に向き合いながら生を紡いでいる他者であった。そのような生を前にして、やはり私は、言葉に窮する。私が生のよすがにしてきた「思想」が全く意味をなさなくなる場所にいる人に、お前は何ができるのか、と問い詰められているような気がする。そうやって読者の生を問い糺してくる血まみれの両腕が、あらゆる頁から伸びている。そう見える。

〈もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった〉(124頁)

 この世を変える力をかんこは望んでいない。この世を捨てて一家の車を選びたいと言う。ここに掬い取られているのは、政治の言語が持つ網の目の粗さを容易にすり抜けてしまう痛切な個人だ。何でもない顔ですれ違う隣人が、生きるか死ぬかの境界線上にいる可能性を、私は果たしてまともに想像してきたのだろうか。正しさでは間に合わない他者に、本当にうなずくことができるだろうか。

 読みながら、ずっと試されているようで、ずっと苦しかった。この苦しみが他者と共に生きるということなのだと、本書は静かに、しかし痛烈に、叩きつけている。私には、そう届いた。

うさみりん/1999年、神奈川県生まれ。小説家。2019年、『かか』で第56回文藝賞を受賞、デビュー。同作は第33回三島由紀夫賞も受賞した。21年、『推し、燃ゆ』で第164回芥川龍之介賞を受賞。50万部を超えるベストセラーとなる。
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たかしまりん/1995年、東京都生まれ。ライター、編集者、アナーカ・フェミニスト、社会史研究者。各所で批評、書評を執筆。

(高島 鈴/週刊文春 2022年6月23日号)

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