「自分の判断は正しかったのか」大船渡・國保元監督が明かした“佐々木朗希を預かるプレッシャー”

「自分の判断は正しかったのか」大船渡・國保元監督が明かした“佐々木朗希を預かるプレッシャー”

高3夏は岩手大会決勝で敗退 ©共同通信社

「『お前には投げさせない』と告げると…」佐々木朗希“高3夏の登板回避事件”の一部始終 から続く

「お前には投げさせない」。佐々木はボロボロ涙を流した。ノンフィクションライターの柳川悠二氏による「佐々木朗希『怪物』を育てた男たち」を全文転載します。(「文藝春秋」2022年6月号より、全2回の2回目/ 前編 から続く)

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■「オール気仙」の仲間と甲子園を

 岩手県では中学3年生が最後の夏を終えると地域選抜チームが結成され、硬式球と同じ大きさ・重さでゴム製の「Kボール」でプレーする。中学で軟式野球をプレーした球児が硬式球に慣れるための取り組みだ。

 腰の痛みが癒えた佐々木は、沿岸部の球児が集まる「オール気仙」に加わった。「オール気仙」の代表をつとめた布田貢は、前出の鈴木や志田の恩師でもある。

「初めて朗希のピッチングを見たのは小学4年生の頃です。小6と同じぐらいのスピードボールを投げていた。フォームが美しく、小学生なのにストイックに野球に取り組んでいることが伝わってきました」

「オール気仙」が、布田が監督をつとめる中学の軟式野球部と練習試合を行った際、布田は「佐々木の真っ直ぐを狙え」と指示。すると佐々木は五者連続のヒットを浴びた。

「当時の朗希はストレートに頼りすぎていた。試合後に呼んで、『どうして打たれたのか分かるか。お前は真っ直ぐしか投げないだろう。いいか、速い球を活かすためには、変化球が必要なんだぞ』と。彼は指先も器用で、変化球も投げられた。スライダーやカーブといった変化球を効果的に使えば投球の幅は広がると伝えたかったんです」

 佐々木がクローザーを務めた「オール気仙」は岩手大会で優勝し、東北大会でも準優勝。それまで最速133キロだった佐々木は、Kボールで141キロを記録する。

「腰痛からようやく快復し始めた段階なので、無理させないようにしました。三振を多く奪っても、球数が多くなれば体への負担は大きくなるので、『球数を考えながら投げなさい』と指導していました」

「オール気仙」でのプレーを終えた佐々木は、進路の決断を迫られた。甲子園常連校の花巻東は、寮費以外が免除となるという、大谷翔平と同じ好条件を提示し、それでも迷っていた佐々木に対し「受験当日まで返事を待つ」と伝えてきたという。

 しかし、佐々木は大船渡高校を選ぶ。「オール気仙」で一緒だった仲間と甲子園を目指すためだ。また女手一つで三兄弟を育てる母の側にいたいという気持ちもあったという。

 佐々木は大船渡高校に入学した直後から注目を集め始め、高校1年で147キロ、高校2年で157キロ、そして3年春には163キロと、球速は着実にアップし続けた。

 前述の筑波大・川村卓は、高3になったばかりの佐々木のピッチングを目の当たりにし、衝撃を受ける。

「160キロをこの体で投げてしまうのかと。腕の振りのセンスが抜群でしたが、逆に言うと、腕だけで投げているようにも見えた。危ないなと思いました。体のサイズと腕の振りだけで、それだけのスピードボールを投げられてしまうんです。いずれ故障をするのは明らかで、指導者が投球を制限してあげないといけない。本人は痛みもないので、『なぜ投げさせてくれないの?』と思うかもしれませんが、その役割を担ったのが國保監督でした」

■國保が独断で決めた登板回避

 2019年夏の岩手大会決勝の登板回避について、「オール気仙」の布田は、こんな感想を抱いた。

「指導者ならば、エースで負ければ仕方ないと考えるのは当然のことです。それでも國保監督は大事な試合でエースに投げさせなかった。誰よりもそばで彼の状態を見ていた國保監督が下した決断ですから、正しかったと思います。誰の目から見ても将来有望な選手を預かるのは、本当に難しい」

 あの試合以来、國保が自身の決断に言及することはなかった。しかし、ちょうど1年が経過した2020年夏、岩手大会の初戦後、國保は私にだけ口を開いてくれた。

「あの判断に関して、これまで朗希と話したことはありません。彼から『投げさせて欲しかったです』とも、『投げなくて良かった』とも聞いていません。おそらく僕に気を遣って、避けているんだと思います。あの日から毎日のように、自分の判断が正しかったのか、逡巡していましたが、答えは見つかりません」

 登板回避は当日朝の様子を見て、國保が独断で決めたという。

「朗希のコンディション、歩き方、表情を見て決めました。球速が速いので、肩やヒジだけでなく、どこに故障が出るかわからない。もしナインに『今日は朗希を投げさせない』と伝えていたら、やっぱり『投げさせてくれ』と訴えてきたと思うんです。そうなったら朗希の登板は避けられないと思いました。決勝のマウンドに疲労困憊の状態で上がり、力んで投げてしまえば、仮に甲子園に行けたとしても、肩、ヒジ、腰などに、将来に残るようなケガを負うリスクは高かったと思います」

 國保は2017年に、佐々木の入学と同時に大船渡に赴任し、その年の秋から監督に就任する。佐々木という金の卵を預かるプレッシャーは大きかったと振り返った。

「あの高い身長で、滑らかなフォームで、変化球も投げられて、牽制も上手い……。野球の歴史を変えるかもしれない才能を、壊さずに次のステージへ送り出さなければならない。メジャーリーグのマーク・プライアーやスティーブン・ストラスバーグ、日本でいえば大谷翔平、ダルビッシュ有といったレベルに挑戦できる投手はごく一握りしかいない。1年の夏に、朗希は147キロを出しましたが、その時、彼らに並ぶ素材だと確信しました」

■「朗希の体は成長途中だった」

 ふたたび話を2019年夏の岩手大会に戻す。決勝前日の準決勝で、佐々木は129球を投げて完投。さらに4日前の4回戦では延長12回まで194球を投げていた。

 球数や登板過多を気にするのならば、準決勝の大勢が決した段階で、佐々木を降板させて継投策に踏み切ることもできたはずだ。あるいは、他の投手で準決勝に臨み、決勝に備えることも考えられたはずだ。

「高校野球は負けたら終わりのトーナメントです。逆算して投手起用をしようとは思うんですけど、現実には目の前の試合を一つずつ勝つことに注力せざるを得ない。準決勝で他の投手を起用していたらどうなったか。それを考えもしましたが、やはり答えは見つかりません」

 高校卒業を迎える段階にあっても、佐々木の身体には骨端線(成長線とも呼ばれ、骨が伸びたり太くなっている時に現れる)が残っていた。

「骨密度を測っても、血液検査でも、朗希の体はまだまだ成長している途中でした。その状況で身体を酷使したら、反動は大きかったと思います。プロ入りした当時も、体作りができる状態になるまで成長を待つ段階だったと思います」

■「上の舞台で恩返ししたい」

 ドラフト1位で入団した千葉ロッテも、そうした情報を共有していたのだろう。1年目は体作りに専念し、二軍でも公式戦登板はなかった。そして、2年目の5月、満を持して一軍初登板。2度目の先発となった交流戦の阪神戦でプロ初勝利を挙げた。

 前出・筑波大の川村は、プロ入り2年目に入って体が大きくなり、3年目に入ると体幹トレーニングの効果で下半身が固定され、コントロールが安定したと解説する。

 高校時代の佐々木はスライダーを武器としていたが、昨年からフォークを中心に投球を組み立てている。

「高校時代は、ヒジや肩への負担を考え、國保監督がフォークをあまり投げないように指示していたのでしょう。佐々木君の特徴は、ボールを離すリリースポイントが非常に高いことです。彼のストレートは、バレーボールのスパイクのように、下向きの角度で捕手に向かってズドンとくる。同じ角度で、140キロ台後半のフォークを投げられれば、打者はとても判別できない。末恐ろしい逸材だと思います」(川村)

 高田野球スポーツ少年団の監督だった村上や、第一中学のコーチだった鈴木は、彼ら自身がケガで野球がままならない時期を経験していた。また大船渡高校の國保は、筑波大を卒業後、米国の独立リーグに挑戦した経験を持ち、そこでケガによってメジャーの舞台から都落ちしてきた選手を幾人も目にした。

 佐々木を指導した野球人はみな、宝石箱に入ったダイヤモンドを扱うように佐々木を大切に育て、次のステージへと送り出してきた。

 その一方で、チームの勝利よりも、自身の将来を選択されてきたことに、佐々木自身は少なからず負い目を感じていた。3年前の試合直後、佐々木はこう囁いた。

「(登板回避は)自分の将来を考えてのことだと思う。上の舞台で結果を残すことで恩返ししたいです」

 仲間に報いるためにも、プロの舞台で成功するしかない。そうした自覚が、「令和の怪物」を覚醒させ、完全試合の快挙に導いたのではないか。

(文中敬称略)

(柳川 悠二/文藝春秋 2022年6月号)

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