「『お前には投げさせない』と告げると…」佐々木朗希“高3夏の登板回避事件”の一部始終

「『お前には投げさせない』と告げると…」佐々木朗希“高3夏の登板回避事件”の一部始終

佐々木朗希 ©共同通信社

「お前には投げさせない」。佐々木はボロボロ涙を流した。ノンフィクションライターの柳川悠二氏による「佐々木朗希『怪物』を育てた男たち」を全文転載します。(「文藝春秋」2022年6月号より、全2回の1回目/ 後編 に続く)

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■「球速も、変化の幅も別次元」

「令和の怪物」こと千葉ロッテの佐々木朗希にとって、プロ3年目の4月は、無双状態にあった。

 10日のオリックス戦で、史上最年少の20歳で完全試合を達成し、さらに一三者連続三振の新記録も樹立した。緊迫の最終回、颯爽とマウンドに上がり、27個目のアウトを簡単に奪う姿を見て、高田野球スポーツ少年団の監督だった村上知幸は、12年前の記憶が蘇った。

「小学3年生の朗希を初めてマウンドに送り出した時も3人で抑えて帰ってきた。しかも相手は5年生で、初登板なら4球を連発してもおかしくないじゃないですか。とにかく度胸があった。あの日の朗希と、完全試合を達成した姿がだぶりました」

 高田小の同級生で、のちに岩手県立大船渡高校でバッテリーを組んだ及川恵介は、昨オフに母校で自主トレを共にした。

「遠投をしても、常に強いボールを投げてくる。高校時代とは体つきがぜんぜん違う。球速も、変化の幅も別次元。プロに行った時点で、僕らの誇りではあるんですけど……やっぱり、こうした快挙によって、あの夏の國保(陽平)監督の決断が正しかったことを証明してくれた。それが嬉しいです」

 4月17日の北海道日本ハム戦でも8回までパーフェクト投球を続けたが、球数が100球を超えていたこともあり、そのまま降板した。

 2試合連続の快挙までアウト3つの場面で、交代を指示した監督の井口資仁に対しては、好意的な意見が大半を占めた。野球ファンもケガのリスクを案じ、次なる登板へ期待をより膨らませていたのだ。

 2007年の日本シリーズで、中日の落合博満が8回まで完全投球だった山井大介を降板させ、猛批判を浴びた時とは大違いである。

■高3夏の登板回避事件

 目先の勝利を求めつつ選手個人の将来にも意識を向ける――。怪物・佐々木の登場によって、日本の野球界も大きく変わろうとしている。

 大きな契機は2019年夏の岩手大会だろう。佐々木を擁した大船渡高校監督の國保は、強豪・花巻東との決勝で、佐々木を登板させなかった。またそれまで四番に座っていた彼を野手としても起用せず、一打席も立たせなかった。

 試合後、國保が明かした登板回避の理由はシンプルだった。

「故障を防ぐため、です」

 佐々木の起用について、國保は専門家の意見を参考にしていた。とりわけ筑波大時代の恩師で、ピッチングの動作解析の第一人者である川村卓、そして野球選手を主に診察するスポーツドクターの馬見塚尚孝に対し、事あるたびに相談していた。

 そして、國保は、成長過程にある佐々木が160キロ超の剛速球を投げてケガを負うリスクを鑑み、決勝での起用を見送ったのだ。

「ここまでの球数、登板間隔……、投げられる状態にあったかも知れませんが、私が判断して投げさせませんでした。試合途中からマウンドに上げるつもりもなかった」

 私は現場で取材していたが、あの日の記憶は3年近く経過した今でも鮮明に残っている。

「本気で甲子園さ、行ぎたくねえのか!?」

 試合後、報道陣に囲まれた國保が佐々木の状態を説明していると、スタンドから心ない野次が飛ぶ。

 すぐさま擁護する声も飛び交ったが、國保は動揺の色を隠せなかった。グッと押し黙り、取材を一旦終わらせたほどだ。

 佐々木の登板回避は賛否両論が渦巻く国民的論争となり、國保は昨年夏をもって監督を退任している(現在は野球部の副部長として復帰)。佐々木がプロ野球で完全試合を達成した今となっては、あの日の國保の決断を批難する人はまずいない。怪物の将来を守る英断だと語り継がれていくはずだ。

■「チームの勝利」と「佐々木の将来」

 佐々木の育成に携わってきた野球指導者たちは、國保に限らず、「チームの勝利」と「佐々木の将来」を天秤にかけ、後者を選択してきた。

 佐々木が野球を始めたのは、2010年、陸前高田市立高田小3年生の時だ。前出の村上は第一印象を次のように語る。

「昭和の時代は小学3年生でもキャッチボールは当たり前にできましたが、今は違います。ボールの握り方からフォームまできっちり教える必要がある。ただ朗希の場合は、3つ上のお兄ちゃん(琉希)がいたし、お父さんともキャッチボールをしていたのでしょう。投げることに関して何も教える必要はなかった」

 同級生に比べれば体は大きいが、飛び抜けてはいなかった。球速も、目を見張るようなものではない。それでも村上は、3年最後の試合で佐々木少年に投げさせようと思い立つ。それが前述の初登板だ。

「今年1月、地元の成人式で再会した時に確認したのですが、朗希は、あの日の対戦相手や場所までしっかり覚えていた。朗希にとっても特別な思いがあるのかもしれません」

 高田高校の外野手として1988年夏の甲子園に出場した村上だが、小学生の時にヒジをケガし、投手を断念した経験があった。それゆえ佐々木少年に対しても毎日のように「痛いところはないか?」と確認し、無理強いすることはなかった。

 翌年からエース候補として佐々木に投げさせたい。そう村上が考えていた矢先、突然の別れが訪れる。

 2011年3月11日の東日本大震災で、佐々木の実家は津波に流され、父・功太さんと祖父母を亡くしてしまう。残された家族は陸前高田を離れ、隣接の大船渡市に引っ越すことになった。

 村上が続ける。

「当時、私は陸前高田市役所で市長の秘書を務めており、震災の取材に訪れる報道陣の対応も担当していました。混乱の中、記者会見用の資料を準備していた時に、朗希のお父さんが亡くなったことを知ったと記憶しています。葬儀社にお勤めだったお父さんはがっちりした体型で、とても優しかった。野球経験はなかったと思いますが、練習試合では塁審を務め、選手の送り迎えもされていましたね。朗希とは引っ越しした後、練習試合で再会しました。『うちのエースになっていたはずなのにな』と羨む気持ちもありながら、成長を目の当たりにして嬉しかった」

■登板後に「腰が痛い」

 高校日本代表の合宿で163キロをマークし、佐々木が「令和の怪物」として注目を集めるようになった2019年春以降、私は幾度も大船渡を訪れ、佐々木を指導した人々への取材を重ねてきた。その1人が、大船渡市立第一中学の軟式野球部でコーチを務めていた鈴木賢太だ。

「中学時代の朗希は成長痛と付き合わなければならず、投げられない時期も長かった。7回を投げ切った経験は1度もなかったと思います。そういう事情からエースナンバーを背負ったのは2年生の秋だけです。中学3年に進級する直前、練習試合の登板後『腰が痛い』と訴えてきた。市内の病院をいくつも回りましたが、『痛みは身体の硬さからくるものだ』と言われて……」

 小学校卒業時に身長が160センチほどだった佐々木は、中学の3年間で、20センチ以上も急激に伸びた。中学進学前から、鈴木は佐々木に対し、柔軟性の大切さを説き、ストレッチの方法を指導していた。すでに佐々木は柔軟な体を手に入れていたため、腰痛の原因が体の硬さにあると説明されても、鈴木は納得できなかった。

 そこで高校時代の大谷翔平も通った青森県八戸市の医院に連れて行くと、腰の疲労骨折だと判明した。

「医師の説明では、だましだましで投げることは可能とのことでした。佐々木をマウンドに立たせれば、夏の大会で勝てるかもしれない。しかし、『彼は将来、ものすごい選手になる可能性を秘めている。この時期を棒に振ってでも、完治に向けて治療を優先させるべきかもしれない』と説明されました」

 投げさせるか否かの判断は、鈴木ら指導者に委ねられたが、鈴木が迷うことはなかった。

「私自身、肩のケガをして、野球ができない時期が何年もあった。朗希は、最後の夏に賭けていたので、投げたかったはず。でも彼の野球人生を、中学生で終わらせることは絶対に避けなければならなかった。『お前には投げさせない』と朗希に告げると、悔しさのあまり、ボロボロと涙を流していました」

■中2では120キロ程度

 第一中学のグラウンドには他の小中学校と同様、仮設住宅が立ち並んでいた。グラウンドの脇にある狭いスペースでしか、練習することができなかった。そういう環境下でプレーしていた佐々木を「野球脳が賢かった」と評するのは、野球部長を務めていた志田一茂だ。

「たとえば、野球の技術書を読むとしますよね。自分がこう投げたいという理想のフォームを見つけたら、朗希は、すぐさまマウンドで再現できるのです」

 仙台大出身の志田は大学の野球部で、後にプロ入りする投手と練習していたが、佐々木は彼らに見劣りしなかった。

「中2の朗希は球速が120キロ程度でしたが、素材では負けていなかった。高校に入ってからも、50メートルを5秒台で走ったとか、いろんな情報が聞こえてきていました。さすがに163キロを投げるとは思いませんでしたが(笑)」

(文中敬称略、 後編 に続く)

「自分の判断は正しかったのか」大船渡・國保元監督が明かした“佐々木朗希を預かるプレッシャー” へ続く

(柳川 悠二/文藝春秋 2022年6月号)

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