「北京五輪のエラー後、妻に“死にたい”と話しました」 G・G・佐藤氏を号泣させた野村克也の“亡くなる10日前”の言葉

「北京五輪のエラー後、妻に“死にたい”と話しました」 G・G・佐藤氏を号泣させた野村克也の“亡くなる10日前”の言葉

野村克也氏 ©文藝春秋

「ユニホームを脱いでからが勝負だ」。監督は選手に何度も説いた。人生後半戦をどう生きるか。それが問われる――。野村克也の薫陶を受けた“野村チルドレン”は、プロ野球選手を引退後、ビジネスの世界で活躍している。誕生日の6月29日、3人のビジネスリーダーが、「野村の教え」を紹介してくれた。

『 遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと 』の著者で、野村の“最後の話し相手”となった、元サンケイスポーツ記者、現在はジャーナリストの飯田絵美氏が、住宅測量・地盤改良企業の副社長として会社を率いるG・G・佐藤氏に聞いた。(全3回の1回目。 #2 , #3 を読む)

◆◆◆

■高校・大学では試合に出ることは滅多にない補欠だった

――G・G・佐藤の登録名でプレーした佐藤隆彦さんは、現在、住宅測量、地盤改良企業として知られるトラバース副社長で、トラバースエンジニアリング社長。中学生の頃、野村沙知代さんがオーナーのシニアリーグ「港東ムース」で、野村との縁を得た。

 野村さんは(シニアリーグの)試合前になると顔を出してくれました。「次はカーブが来るぞ」「スライダーだ」と言うと、本当に投手が投げてくる。「このカーネル・サンダースみたいな人、すげー」と思ったのが初対面の印象です。

 港東ムースの練習は「野球を辞めたい」と思うほどきつくて、入団当時30人いた同学年は、卒団式では10人になっていました。その一人ひとりに、沙知代さんが色紙を渡してくれたんです。野村さんの直筆で、『念ずれば花ひらく』としたためてありました。

「やりたいこと、夢というものは、一生懸命に念じれば叶う。必ず叶うんだ。夢が叶わなかった人は、途中で念ずることを止めた人なんだぞ」

 野村さんの説明を聞いて、目の前がパーっと明るく開けました。「そうか、諦めなければ夢は叶うんだ」と、心に強くインプットされたんです。

 高校では通算3本、大学では通算1本しか本塁打が打てない選手でした。試合に出ることは滅多にない補欠。「やっぱりプロ野球選手なんて無理なんだ」とくすぶるときもありました。そんなとき、あの色紙の言葉が思い出されてくるんですよ。「もう1日だけ頑張ってみよう」「この一瞬だけやってみよう」と。

■2008年北京オリンピックで痛恨の落球を連発

 北京に行く前、「オリンピックの試合なんて余裕だ」と思っていました。現実は全然違った。国際大会のプレッシャーはものすごい。対戦したのは、キューバ、米国、韓国といった国際チームです。監督やコーチは星野仙一さん、田淵幸一さん、山本浩二さんという顔ぶれ。

 星野監督は「金メダル以外いらない」と宣言。準備不足だった僕は、「負けられない」と恐怖を感じてしまった。

 2つのエラーをした準決勝の韓国戦の後、誰も僕を責めなかった。「お前のせいじゃない」と言ってくれた。「申し訳ない、情けない」という思いで部屋に閉じこもりました。

 気持ちの切り替えができないまま、米国との3位決定戦でまたエラー。夜、誰とも話したくなくて。唯一妻と電話で話しました。「死にたい」と……。

 あの失敗から12年間、話題にできなかった。引きずりました。

■野村が亡くなる10日ほど前、偶然の再会が人生を変えた

 野村さんが亡くなる10日ほど前に、テレビ番組(「爆報!THEフライデー」)のインタビューで千葉県の野球グラウンドへ行ったら、ベンチに誰かが座っている。野村さんでした。見た瞬間、号泣ですよ。言葉が出なかったです。そして言われたんです。

「いいか、おまえはエラーをしたけど、北京オリンピックと言えば、人が思い出すのは星野とおまえのことだけや。人の記憶に残るというのは、すごいこと。誰にだってできることじゃない。それが、どれだけ難しくて素晴らしいことか、おまえ、分かるか? くよくよすんな」

 目が覚めた思いがしました。野村さんの言葉をきっかけに、「隠すことはないんだ」と視点が180度変わったんです。

 それを機に、YouTubeやツイッターなどSNSを始めました。最初に投稿したのは、ジャムを塗ったパンを床に落としてショックを受けている表情という画像でした。“パンを落とす”が、“落球”につながる。バズりました。「落とし癖があるな」と笑いになった。

 この反応に驚きました。これまで、失敗を笑いに変えたり、持ちネタにするなんて、やってはいけないことだと思っていたから。それが、自分の失敗をSNSで発信することで「勇気をもらえた」と反応があった。「自分の失敗が誰かを勇気づけることに繋がるんだ」と初めて知りました。

 いま、野球教室で中学生に伝えているのは、「ミスをしたら、まず自分を許そう」ということです。

■過去は変えられる

 過去の失敗と向き合うこと。どう捉えるか次第で、過去の出来事が別の景色に見える。過去は変えられるんです。

〈誹謗中傷への心のケア〉〈失敗を恐れずに挑戦する〉。この2つは、僕の人生の大切なコンセプトになりました。

 SNS上では、「自分の視点は神の視点=正解」だと思い込み、心無い言葉を吐く人もいる。このせいで傷ついたり、立ち直れない人がいる。自殺する人もいる。僕も「死にたい」と思い詰めたことがあるから、気持ちは痛いほど分かる。仕事をしながら、人の心をケアする活動もしていきたいと考えています。

■心に誓った後半人生のゴール

(最後に所属した)ロッテを辞めた後、会社を経営する父に正式にアポイントを取りました。改めて「働かせてほしい」と申し出ました。感謝の思いがあったからです。

 父は僕がプロ野球選手になったことを誰よりも喜んでくれた。米国やイタリアに行くときも支えてくれた。今度は自分が恩返しをする番だ、と。

 3年間をかけて、測量士補、二級土木施工管理技士、宅地建物取引士など業務に関する資格を取りました。

「組織はリーダーの力量以上には伸びない」

 この言葉を肝に銘じています。人材や資金があっても、リーダーの力量次第で組織が育つか育たないか、決まってしまう。「リーダーとは、考え、ビジョン、方向性を示すことができるか」だと気づきました。つまり、「言語化できるか」。

 これまでのプロ野球選手は、漠然と考えながら野球をやってきました。それを言語化したのが、ノムさん。

■まずは「できるか」を模索する、動いてみる

「ID野球」と言えば野村さんの代名詞。シンプルで分かりやすいフレーズです。ID野球とは準備野球だと僕は思っています。準備野球とはプロセスを大事にすること。

「野球という競技には間合いがある。その間に準備ができる。そのプロセスを大切にしろ」と、野村さんはおっしゃった。準備こそがすべて。ビジネスでもプレゼンでも“段取り8割”と言います。

「一回もらった意見を心に落とせ、自分のパレットに入れろ。その色をすぐに使わなくても、パレットに落としておけば、いつか使う日が来るかもしれない。色々な色を持っている方が、何かを選ぶときに役立つ」

 この言葉も忘れられません。さまざまな意見を否定から入らず、まず一度受け止めよう、と。わが社の2022年のコンセプトは『NONO』。「NOと言わない」という意味です。

 誰かに提案をされたり、アクションを求められたとき、「できません」とは言わない。NOと言わず、まずは「できるか」を模索する、動いてみる。

 野村さんが亡くなり、父の仕事を継いだ僕に目標ができました。「僕が死んだとき、ノムさんのように思ってもらえる人になりたい」。そのために、会社を率いるリーダーとして、野村さん流の「見つける、育てる、生かす」を徹底したいと思っています。

「9回無死満塁で投手は桑田真澄。“初球から打て”と言われ金縛りに…」 元ヤクルト・城友博が野村監督に“気に入ってもらうため”の“戦略” へ続く

(飯田 絵美/ノンフィクション出版)

関連記事(外部サイト)