「酒井法子がもし自殺でも選んだら…」サンミュージック相澤社長が語った“事件”の裏側とダンディ坂野大ヒットまでの苦節「売れるまでは肩身が狭かった」

「酒井法子がもし自殺でも選んだら…」サンミュージック相澤社長が語った“事件”の裏側とダンディ坂野大ヒットまでの苦節「売れるまでは肩身が狭かった」

相澤正久社長 ©文藝春秋 撮影/深野未季

 1968年に創業し今年54年目を迎えた芸能事務所「サンミュージックプロダクション」。

 第1号タレントは、現社長の父である創業者・相澤秀禎氏がスカウトした森田健作氏(千葉県知事退任後は同事務所最高顧問に就任)。その後、桜田淳子や太川陽介、松田聖子や早見優、酒井法子に安達祐実など数多くのスターやアイドルを世に送り出してきた。

 そのサンミュージックのこれまで、そしてこれからを相澤正久社長に聞いた。

 取材に同席してくれたのは昨年副社長に就任した、岡博之氏。現役芸人「ブッチャーブラザーズ」のリッキーさんでもある。

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■人力舎に移籍後、養成所の先生に

――もともとはスターやアイドルが多く所属していました。そしていまはお笑い芸人が多数在籍するプロダクションのイメージが強いですね。

相澤社長(以下・社長) いちど1980年代の前半にお笑い部門を始めていました。彼(岡副社長)はもともと森田健作の付き人で、お笑いコンビ・ブッチャーブラザーズを組んでから「お笑い君こそスターだ!」(「笑ってる場合ですよ!」内のコーナー)や「ザ・テレビ演芸」で優勝もしていたんです。だからいい機会だとお笑いも始めてみたもののノウハウがなくて、長くは続かなかった。

岡副社長(以下・副社長) 僕らコンビは、人力舎に移籍しました。そこで養成所の教える側もやるようになりまして、生徒の第一号が「アンジャッシュ」でした。弟子みたいなもんですから、あの騒動のときには「アホかお前は!」って連絡しましたよ(笑)。

■第五世代が終わりかけの頃は大変だった

社長 亡くなった会長(秀禎氏・2013年逝去)は元々バンドマンでした。当時のプレイヤーからしたらお笑いのひとたちというのは“前座”で、歌手がメインだという意識の時代。でも私はアメリカの大学留学時代にたくさんショーを観た経験から、コメディアンってすごく大事な存在だと思っていたんです。

 お笑いというのは、7年から12年サイクルでブームが来ては去っていく。1997年、ちょうどブームが去ったときにもういちどスタートさせようかと。その時に、餅は餅屋で、ノウハウを持ち元々サンミュージックにいたファミリーだからということで、岡(副社長)と山部薫(ブッチャーブラザーズ)に任せたわけです。

副社長 いまをお笑い第七世代というのであれば、第五世代が終わりかけの頃です。90年代の終わりですね。

社長 次のブームのときに2、3人世に出る子ができればと思いましたが、これがなかなか大変でした。

■「ゲッツ!」が売れたときはすごかった

社長 アイドルタレントはこちらが全部作り上げて路線に乗せていくという作業ですが、お笑いってそうじゃない。芸人は自分たちでネタも演じ方も考え、衣装を選び、お客さんの反応を見ながらさらに進化させる。クリエイティブな職業です。社内でも最初はだいぶ抵抗を受けましたよ、なんでアイドル事務所がお笑いをと。「それは吉本さんに任せればいいんじゃないですか」なんて(笑)。

 反対の声には、「お笑いもいれば前座もできるし全部ウチで賄えるじゃないか」なんて詭弁も使いつつ試行錯誤していきましたが、なかなか厳しかった。

副社長 しんどかったですね。「(売れっ子輩出まで)5年いただけるのなら」と言ったものの、実際5年後にダンディ坂野がいきなり売れるまでは肩身が狭かったです。

――1999年に「爆笑オンエアバトル」(NHK)、2000年には「内村プロデュース」(テレビ朝日)、そして2002年には「エンタの神様」(日本テレビ)などお笑い番組がスタートしています。狙い通り、お笑いブームが再来しました。

社長 「あ、来たな」とは思っていました。でもその波のなかで売れたのが「ゲッツ!」のダンディ坂野だったのはびっくりしました。あの時はすごかったですからね。

■色とりどりのお笑い芸人が80組所属

副社長 ダンディ本人はあまりの生活リズムの変わりように「2、3か月でボーっとした」って言ってましたよ。売れる前は、僕らブッチャーブラザーズの弟子生活をしていましたから。「『ゲッツ!』のネタ一本でいけ」と応援し続けて、マツモトキヨシのCMと内村プロデュースで急激に知名度があがりました。

社長 真っ白なスケジュールが、いきなり真っ黒になりましたからね。あのときはまだお笑いのスタッフも3、4人しかいなくて追いつかなくて。だからかつて松田聖子が爆発的に売れたときを経験している歌の班のスタッフも総動員で手伝いました。

 でも、嬉しかったですよ。正直な話、それまでは役員会でも「いつになったらお笑いは採算がとれるのか」と、針のムシロみたいでしたから(笑)。私はどうしても“社長の息子”だというのがありましたし、別業種から中途入社した身でもありましたから……。

――そこから20年。プロダクションのホームページのお笑い部門には80組もの所属がいますね。

社長 実際は預かっている芸人も含め、それ以上にいると思います。皆に慕われ中心になってくれている(カンニング)竹山君や、“優しい漫才”という新しい分野開拓に成功したぺこぱ、“オタク”なカズレーザー(メイプル超合金)などなど、色とりどりですね。

■“2代目”がサンミュージック入りしたワケ

――経営上の収益としてはお笑いが大きいですか?

社長 お笑いの割合が大きいのは確かです。この2年以上のコロナ禍で、歌手は新曲リリースのキャンペーンができなかった。その点、バラエティ番組に出演ができるお笑いは強かったですね。あと芸人は世間からの認知が高いので、コマーシャルの起用が多めなのもコロナ禍では非常にプラスとなりました。

――振り返ると相澤さんはアメリカの大学を卒業後、旅行会社に就職をしました。

社長 タダで旅行できるところがないかなって探して(笑)。親父も、「(芸能界に)来なくていい、好きなコトやれ」という感じでしたから。僕は30歳でサンミュージックに入りましたが、きっかけとなったのは当時の総務部長の「30年後のサンミュージックのことを考えて、今から入ってくれ」という言葉でした。仕事を覚え、実績をつくり、人脈を作るのにはそれだけ時間がかかるよ、ということです。

 ちょうど松田聖子がデビューする半年前。でも僕はマネージャーは希望せずに、企画制作のほうを選びました。コマーシャルの売り込みをしたりコンサートを企画したりという仕事です。

■ハワイで「これまでにないアイドル」と出会った

――実は巷で言われている「早見優さんはハワイの三越でスカウトされた」というのは違うそうで。

社長 そうです。知り合いから噂を聞いた親父に言われて、ハワイにいた早見優(1982年デビュー)に最初に会いに行ったのは僕でした。日焼けした肌に健康美、ひと目見てこれまでにないアイドルのタイプだ、と。当時は「帰国子女で英語がペラペラ」とかいませんでしたからね。早見優のテレビ「アメリカンキッズ」は、僕が企画制作でプロデューサーもしていました。

 彼女がやっていた、ヘアコロンシャンプー(資生堂)のイメージガールの後任を決めるオーディションを全国でやって、決勝大会を東京でテレビ局と組んで番組にしたり――。そんなことを全部自分でやれるという面白さが仕事を覚えていく醍醐味でした。そのなかで覚えざるをえなくなるのが著作権や著作隣接権、商品化権、意匠権、それに肖像権などの権利関係。こういうことを実践で覚えられていったっていうことは、親父に感謝しなきゃいけないですね。「勝手にやっていい」と、縛らないでいてくれたおかげですから。

■のりピー語、博多弁の寿限無…酒井法子の“魅せ方”

――そのオーディションに現れたのが、酒井法子さんですね。

社長 そうです。1985年の「ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」の九州地区の代表としてやってきたのが、当時14歳の酒井法子でした。九州大会では、まだどこか田舎の雰囲気が残る子でしたが、2週間後の東京で会ったときにはガラっと雰囲気が変わりまるでレディのようでした。本選の特技審査のリハーサルでは彼女は落語の「寿限無」をやったんですが、本番になったら突然博多弁で披露したんです。自分の見せ方を知っていることに非常に驚きました。

 残念ながら彼女はそのオーディションでは1位になれなかったけれど、その努力や輝き方を見て、デビューを決めました。「のりピーマン」のキャラや「マンモスうれピー」なんてのりピー語は全部彼女が自分で作り上げたもので、人気を博していた台湾や香港なんかではたくさんの海賊版グッズも出ていましたね。1998年に香港で、僕がプロデュースした2万4000人を集めたコンサートをしたんです。そのときには日本から行ったファンは30人で、あとは全部現地のファンでした。

■自殺でも選んだら…心配だった6日間の逃走劇

――その直後に、結婚。そして2009年に元夫(当時)とともに覚せい剤での逮捕で世間を大きく騒がせることになりました。

社長 できちゃった結婚でしたからね。翌年にも香港でのコンサートが決まっていたのを、報告を受けて急遽延期してもらったり、と慌てたのはよく覚えています。

 事件はもちろん全然想像もしていなかったけれど、やっぱり結婚相手がどうだったのかなと思いますよ。小さい頃から複雑な家庭環境で人間関係に苦労していたのか、まわりの人にとにかく気を遣う少女でした。だから、「みんなでファミリーになって、本音を言える関係を築こう!」ってやってきたんですけれど……。

副社長 15歳から芸能界で活躍していて、大人になってからの初めての知らない世界で。ワルっぽいところが魅力的に見えてしまったところがあるんでしょう。

――事件当時、逮捕まで6日間の逃走劇となりました。

社長 本当にあのときはどうしよう、と。記者会見を開いたものの、とにかく法子に、「なにも心配しないで戻っておいで」としか呼びかけられなかったですよね。

 特に僕が心配だったのは、岡田有希子のことがあったから。自殺でも選んだら……ってことでした。

“早逝”岡田有希子、“元夫と逮捕”酒井法子、“不倫”ベッキー…それでも「サンミュージックはファミリー」なワケ「大事なことは優しさを常に持つこと」《相澤社長インタビュー》 へ続く

(名村 さえ/Webオリジナル(特集班))

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