大手企業の内定を辞退して巨人にテスト入団 “最底辺”の育成選手が驚いた菅野智之、坂本勇人の言葉

大手企業の内定を辞退して巨人にテスト入団 “最底辺”の育成選手が驚いた菅野智之、坂本勇人の言葉

現役時代の筆者・小山翔平(左)

 阿部慎之助さん、坂本勇人さん、長野久義さん……。小さい頃からテレビの向こう側にいたスターが、自分の目の前にいる。あの感激を今でもありありと思い出すことができます。

 たった3年のプロ野球人生。それも育成選手だった僕のことを知っている野球ファンなど、ほとんどいないでしょう。

 今回はプロ野球選手として「最底辺」にいた僕の目から見たプロ野球の世界、巨人で出会った人々について書かせてもらいます。

■実績ゼロの就活生がプロテストに挑戦

 まずは僕のプロ入りの経緯について記させてください。大学(関西大)でのリーグ戦出場は代打での1試合のみ。今にして思えば、僕の野球に臨む態度も悪かったのでしょう。いくら練習や実戦で結果を残してもリーグ戦で使ってもらえず、僕はいつしか腐っていました。

 大学3年秋から就職活動に専念するため、グラウンドにほとんど出入りしなくなりました。大手企業から内定をいただき、あとは卒業を待つばかり。そんな時に、僕は自分の人生に疑問を抱きました。

「このまま就職して、いいのだろうか?」

 引っかかっていたのは、中途半端に投げ出した野球のこと。僕は内定を辞退させていただき、野球を続けたいと考えるようになりました。

 大学4年の夏、巨人が入団テストを開くことを知りました。僕は京都府出身ですが、祖父が巨人ファンだった影響からずっと巨人を応援していました。憧れの巨人に挑戦する最初で最後のチャンス。1年近くも野球から離れていましたが、母校である東山高校の練習に1カ月半ほど参加して入団テストに備えました。

 そのかいあってか、テストでは自分の持ち味である守備面を強くアピールできました。ドラフト指名される確約などありませんでしたが、ちょうど捕手が不足していたチーム事情もあって幸運にも育成ドラフト6位で滑り込みました。プロテストを受けたことは仲のいい友人数名にしか伝えていなかったので、大学野球部の同期は「どういうことや?」と混乱したようです。

 秋には東京ドームでのファン感謝デーで、新人選手のお披露目がありました。新人は東京ドームのVIPルームで待機し、高い位置からイベントを眺めます。眼下に広がる非日常的な空間に、「えらいところに来たな……」と身が引き締まりました。思えば、これが初めてプロ野球選手になれた実感だったのかもしれません。

■エース・菅野智之からの驚きの一言

 プロのレベルは僕が想像していた以上に高く、驚きの連続でした。

 なかでもブルペンでボールを受けさせていただいた、上原浩治さんや菅野智之さんは衝撃的でした。上原さんは現役晩年で球威こそ衰えていたのでしょうが、フォークのコントロールは異常と言っていいレベルでした。

 僕が低めにミットを構えると、上原さんから「もう少し低く構えて」と指示されます。言われた通りの場所に構えると、そこへ本当にピンポイントでフォークを落としてくる。さらに「次はそこからもうひとつ落として、ワンバウンドさせるね」と言うと、その言葉通りにワンバウンドさせる。変化球を予言通りに操るコントロールに、驚きを通り越して恐怖すら覚えました。

 菅野さんのコントロールも、テレビゲームの『パワプロ』で遊んでいるかのように正確でした。菅野さんは調整のためよくジャイアンツ球場に来ていたのですが、いつもブルペン捕手に僕を指名してくださいました。僕は僕でファームの練習もあるのですが、1軍のエースからのご指名なので練習を抜けてでも捕球させてもらいました。

 ある日、ロッカールームで菅野さんはこう言いました。

「小山はマジで日本一キャッチングうまいと思うわ。みんなも受けてもらったほうがいいよ」

 周りには1軍で活躍するリリーフの先輩方もいました。キャッチングには自信がありましたが、まさか菅野さんに認めてもらえるなんて……。夢のような、ふわふわとした気分になりました。

■育成選手に意見を求める坂本勇人

 菅野さんが調整登板した実戦形式のマウンドでも、バッテリーを組ませてもらう機会がありました。練習後、菅野さんは僕にこんな言葉をかけてくださいました。

「配球もテンポも小山が一番よかったよ。早く1軍に来てくれよ」

 そもそも1軍はおろか、僕は育成選手なのに……と思わずにはいられませんでしたが、菅野さんの言葉は大きな自信になりました。その後、ファームディレクターの方が僕を視察にきてくれました。後で聞いたところ、菅野さんが「支配下にしたほうがいい」と推薦してくれていたと知り、ますます恐縮しました。

 野手では坂本さんもお世話になった大先輩でした。坂本さんが脇腹を痛めてファームで調整に来られた時、僕は「こんなチャンスはない!」とばかりに坂本さんに話しかけました。

「小山翔平という育成選手です。こういう悩みがあるんですけど、坂本さんはどう思いますか?」

 こちらは失うもののない育成選手ですから、臆することなく向かっていきました。そんな姿勢を坂本さんは「若手はそうでなきゃダメだよ」と買ってくれました。

 坂本さんの凄さは、僕のような実績も技術もない人間に「どういう意識で打ってる?」「どんなトレーニングしてる?」と平気で質問してくることです。僕を育てるために聞いてくれたのかもしれませんが、坂本さんほどの超一流選手でも「もっとうまくなりたい」と貪欲に探求しているのだと知りました。

 育成選手だからと言って、差別的な扱いを受けたことも嫌な思いをしたこともありません。素晴らしい先輩、仲間、指導者の方々との出会いがありました。とくに3年目は春先のキャンプから少しずつ結果が出始めて、手応えがありました。

 それでも、僕はいつも大事な時期にケガをしていました。自分自身が情けなく、もどかしくなりました。大学時代にもっと練習していれば。試合に出られなくても、もっとやれることがあったのでは……。そんな後悔ばかりが募りました。

■「お前を支配下に上げようという話があった」

 プロ3年目、2020年の秋。僕は宮崎で行なわれるフェニックス・リーグのメンバーに入っていました。でも、球団関係者から内々に「今年限りで戦力外だ」と聞かされていました。

 クビになるとわかっているのに、来季に向けた戦いに身を投じなければならない。気持ちを奮い立たせたつもりでも、どこか身が入ってなかったのでしょう。僕は村田修一コーチから叱責を受けました。

「シーズン中は『出してくれ』とベンチでアピールしてるのに、なんで今日は代打のチャンスもあったのに準備してへんねん!」

 試合後、僕の様子がおかしいと思ったのか、村田コーチ、杉内俊哉コーチ、實松一成コーチが僕に声をかけてくれました。お三方から「お前らしくないぞ」「絶対に何かあったろ」と問われ、観念して今年限りでクビになることを伝えました。すると村田コーチは「そうなんか……」と絶句した後、こんな話をしてくれました。

「実は今年、お前を支配下に上げようという話があったんだ。その時期にコロナ禍になったり、紅白戦で原(辰徳)さんが最終チェックするタイミングでお前がケガしたりで風向きが変わったんだ」

 そこまで高い評価をいただいていたとは知らず、僕はうれしいやら悔しいやら複雑な思いを噛み締めました。僕にはあと一歩、プロで戦うための実力が足りなかったということなのでしょう。

 結果的に、僕はプロの世界で何も成し遂げられないままユニホームを脱ぎました。今は一人の巨人ファンに戻り、チームの勝敗に日々一喜一憂しています。

 それでも、社会人として生きる僕にとって、プロでの3年間は血となり肉となり自分の生活を支えてくれています。阿部コーチや村田コーチが口酸っぱく言っていた「8割は準備で決まる」という言葉は、今も仕事をする時に胸に刻んでいます。

 僕には新たな夢があります。近いうちに起業し、大きな企業に成長させてプロ球団を持つという夢です。僕は死ぬまでに叶えたいと考えています。

 底辺のプロ野球選手だったとはいえ、読売ジャイアンツという素晴らしい球団でプレーできたことは僕にとって誇りです。そして、「いずれはジャイアンツと戦いたい」という希望を胸に、自分の夢を追っていきます。

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(小山 翔平)

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