「潰れてもええから放ったれと」43歳・能見篤史が今も勝負できる理由

「潰れてもええから放ったれと」43歳・能見篤史が今も勝負できる理由

能見篤史

 最近はすっかり年を実感することが増えた。常に体に何となくのだるさや違和感があり、すっきりしないところへ、たまに本物の痛みや不調が混じって来る。この間の尿管結石は人生トップクラスの痛みだった。以来、1日2リットルの水は欠かせない。気が付けば病院へ行くことにも慣れ、あれこれの検査結果に一喜一憂。そんな話をある時、同級生で、時折ボヤキを聞いてもらう大阪桐蔭の西谷浩一監督に向けるとこう返ってきた。

「江戸時代なら僕らもういませんからね」

 一般的に江戸時代の平均寿命は50歳前後と言われており、時代が違えば、もうこの世にいない年。だから少々の不調はやむなし、ということだ。

 思えば西谷監督との付き合いも20年を超え、共に今年で53。しっかりと人生の後半戦へ突入している。

 どんよりとした気分で日々過ごしていると、最近はプロ野球を見ていてもベテラン選手の一投一打にひと際目が向くようになった。40歳を超えてなお怪物、猛者が揃う世界で戦う姿には、佐々木朗希の164キロとはまた違う趣きがある。階段を駆け上るのも躊躇する今だからこその感情で、能見の1イニング、数球にも、大したもんや、と見入ってしまう。

■2度の引退危機…「潰れてもええから放ったれ、とふっきれたんです」

 というわけで能見である。1979年、「江夏の21球」が誕生した年に生まれたサウスポーは僕と10歳違いの43歳。コーチ兼任の今季もまだ2試合の登板ながら、連覇を目指すチームの戦力として投げ続けている。自分が43の頃を思えば、140キロ超えの球を続けているだけでとんでもなく大したもの。しかも、今もスタイル抜群、ロマンスグレーの髪に色白の二枚目というのもまた大したものだ。マウンドでの立ち姿も、投げっぷりも含めた美しきサウスポーにはちょっとした思い出がある。

 ドラフトブームの火付け役となった、雑誌「野球小僧」の仕事で大阪ガス時代に取材したことがある。2004年の夏の終わり。30歳で脱サラをしこの世界へ飛び込み4年、トンカツ屋でのアルバイト生活から抜け出し、ライターとして仕事が回り始めた頃だ。

 大阪ガスの練習グラウンドのネット裏にある小さな部屋で話を聞いた。「よろしくお願いします」と入ってきた時の“男前感”に圧倒されながら、すぐにもう1つ感じたのが人としての落ち着き。これはその時点で25歳の年齢によるところも大きかったはずだが、高卒だから入社7年。野球を軸に考えれば、入れ替わりの激しい社会人チーム、それも強豪で7年。事前に調べると4年目までは主だった大会での登板もほとんどなく、戦力になっていなかった。それでいての7年。まずはこのあたりに興味が向き、話を進めていった。

 鳥取城北時代は平安の川口知哉(元オリックス)、水戸商業の井川慶(元阪神ほか)と「高校左腕3羽ガラス」と呼ばれていた。……と、取材準備の段階で知った。3人の高校時代、僕はサラリーマンのいち野球ファン。川口以外の2人は知らなかった。

 能見本人は高校から直接プロへ進みたいと考えることもあったそうだが、周囲の勧めで大阪ガスへ。しかし、4年目までは鳴かず飛ばず。少し投げてはヒジ、肩に痛み、違和感が出た。周囲からは故障に敏感過ぎるとの声もあったようだ。一方で投げたら投げたで、制球難に苦しんだ。好調時は打者が狙ってきても空振り、ファウルが取れるストレートが一番の武器だったがいかんせんコントロールが悪かった、と本人。

「4年目くらいまでは体の不安もありましたけど、投げていても常にフォアボールが気になって、2ボールになると、いつもヤバイ、ヤバイってなってましたね。一時は投げるのが怖くて体より気持ちが病んでいました」

 4年が終わったところで“クビ”の危機があったとも言った。しかし、おそらくは好調時のボールの魅力を捨てきれない人が「もう1年」と頑張ったのだろう、首がつながった。5年目から常時セットポジションで投げるなどすると、徐々に制球が安定。試合で投げる機会も少しずつ増えた。

 そのタイミングでオフに監督が交代。すると新監督との面談の席で「来年ダメなら入れ替えの対象になる」とはっきり告げられた。2度目の引退危機だ。取材時、その監督にも話を聞くと、同時にこうも言ったんです、と加えてきた。「『同じ辞めるなら壊れるまで投げて辞めろ。まだ出来たのに……と思いながら辞めるほど悔いが残るものはない。監督に投げさせられて潰れて辞めた、と思うくらい投げてみろ』、そう言ったんです」

 この言葉を今度は能見に伝えると「そこで、潰れてもええから放ったれと、ふっきれたんです。それが去年。あれだけフォアボールを連発していた投手があんな大舞台(日本選手権)で放れるなんて誰も思ってなかったと思いますよ」。6年目の開花を心地よさそうに振り返った。日本選手権でチームの準優勝に大きく貢献し、敢闘賞を受賞。土壇場で踏み留まり、ドラフト候補に舞い戻ったのだった。

■能見と川口が描いた人生のコントラスト

 当時、能見からの話を聞きながら、僕の頭にはもう1人のサウスポーの顔が浮かんでいた。その頃、プロ入り7年、オリックスでもがいていた能見の同級生、川口のことだ。実は脱サラした直後から、川口を追いかけていた。

 97年の夏の甲子園準優勝投手。斎藤佑樹が更新するまでの夏の甲子園大会最多、820球を1人で投げ抜いた姿に惚れ込んだ、元々のファン。こちらも甲子園のマウンドが似合う美しいサウスポーだった。ドラフトでは4球団が1位指名で競合し、本人が希望していたオリックスが指名権を獲得。

 しかし、順調だったのはここまで。1年目のフォーム修正で投げ方がわからなくなり、まったくストライクが入らなくなった。その後はイップスとも闘いながら、崩れていく川口を4年、5年と追いかけた。

 能見の制球が安定し始めたといった高卒5年目。川口も腕の出所を下げ、ようやく普通にストライクが取れるようになった。秋には1軍で初先発も経験。浮上の兆しが見え、能見が社会人で開花した6年目には、オープン戦で一定の成績を残した。

 しかし開幕1軍を逃すと、以降、再浮上の機会は巡って来なかった。7年で自由契約。

 すると西武ドームで行われたトライアウトで川口が投げた8日後、能見はドラフトで阪神から自由枠での指名を受けた。関西ではテレビ、新聞が大々的に報じたニュースを見ながら、まさに人生のコントラストを感じたものだった。

 あれから18年。引退後の川口は家業を手伝ったのち、女子プロ野球の指導を経て今春、事務職員、野球部コーチとして母校へ戻ってきた。平安の練習グラウンドで久しぶりに話を聞くと「壊れたままだったら人に教えられなかったですけど、プロ5年目に普通に投げられるようになったんで教えることが出来る。今となっては失敗したことが僕の財産です」と明るく語った。雑談の中で今なお現役で投げ続ける“同級生”の話題を向けると「頑張ってますよね」と短く一言。様々な思いが蘇ってくるのだろう、と想像した。

■「人生はいろいろ。どうなるかわからないですよ」

 能見の今季初登板は6月12日の交流戦。古巣阪神相手に1イニング、10球を投げ無失点。登板後にはツイッターで「能見さん」がトレンド入りした、とニュースになっていた。

 その投球は録画して夜遅くに観戦。いいものを見た、次もすぐ見られるだろう、と気持ち良く眠ったが、2日後に登録抹消となり、再登録は今月6日。

 この日は試合開始からテレビで見ていたところ、1点ビハインドの8回に登場。気分的には不意を突かれた格好で、小学生の娘を隣の部屋へ追いやり、1球、1球を気合を入れてみた。結果は四球、送りバント、空振り三振のあと、愛斗にレフト前へしぶとく運ばれるタイムリーを許し、最後はファーストゴロ。1回1失点も、ストレート系中心に存分に腕を振っての若々しい投げっぷりだった。

 “あの時”の取材でも「とにかく腕を振ること。こっちが振らないと向こう(打者)も振らないから」とピッチングの生命線を語っていた。この夜も能見らしく腕を振り、そこからまだしっかり勝負できるストレートにフォーク、スライダー、ツーシーム。老いに抗いながらの渾身の17球にはやはり味わい深いものがあった。

 この6日後には川口がコーチを務める平安が京都府大会の初戦を突破。甲子園を目指す戦いをスタートさせた。春先、川口に話を聞いていた時「ほんとに人生はいろいろ。どうなるかわからないですよ」と実感を込めて語る場面があったが、まさに、である。

 3羽ガラスの3番手だった男が今も勝負のマウンドへ上がり続けている。そして、その人生もここからまたどう展開していくのか。衰え顕著、7年後には還暦の僕が心配しているわけではないが、出来ればこの先も2人の美しきサウスポーの近くをウロウロしながら、時に同級生である高校球界の名将の周辺も行き来しながら、江戸時代なら余生の日々をほどほどには楽しみたいもの。これが今のささやかな願いである。

 ひとまずは、まだ50試合以上の戦いを残している中、今シーズン、あとどれくらい“能見さん”のピッチングを見ることが出来るのか。疲れた大阪のおじさんライターに力を与えてくれるような、渾身の投球を大いに楽しみにしている。

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(谷上 史朗)

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