「みんなに言われるよ。最近テレビ出ないねって」オスマン・サンコン(73)が語る“来日50年目の現在地”

「みんなに言われるよ。最近テレビ出ないねって」オスマン・サンコン(73)が語る“来日50年目の現在地”

オスマン・サンコンさん

「高田純次はわけわかんないの!」オスマン・サンコン73歳が振り返る、伝説の早朝バズーカと“深夜2時の珍客” から続く

 80〜90年代を中心に『笑っていいとも!』(フジテレビ)や『元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)などで活躍した、ギニア出身のオスマン・サンコンさん(73)。元々はギニアの外務省職員として働いていたサンコンさんが来日して、今年でちょうど50年。

 そもそも、なぜサンコンさんは日本に来ることになったのか。そして、現在はどんな生活を送っているのか。ギニアでの知られざる“エリート時代”と、今の活動について伺いました。(全2回の2回目/ 前編から続く )

◆ ◆ ◆

――テレビへの出演が増えていくなか、本来のお仕事であるギニア大使館での業務も同時にこなしていらっしゃったのだと思います。当時はかなり多忙だったのでは?

サンコン 結構忙しかったね。だから、途中から大使館の仕事は休職して、ギニアから別の人間を呼んでもらったよ。それからは、行けるときだけ大使館に行くようにしてた。

――テレビの撮影となると、何時に終わるかも読めない部分がありますよね。

サンコン 『笑っていいとも!』は生だったけど、『元気が出るテレビ!!』とかはロケが多くて。結構時間掛かるのね、ロケ。もう、朝早くから夜遅くまで長時間、きっついねぇ〜。

 いやいや、ホントきついですよ。日本人、よく働くね。一日中働くし我慢強い。僕なんか元々朝寝坊だから負けたと思ったよ。それに、夜寝たと思ったらバズーカ来るし(笑)。

■テレビの仕事を抑えるようになった理由

――(笑)。テレビでサンコンさんの姿を見ると、つられて笑顔になっていました。

サンコン 子どもの頃から明るかったからね。生まれ育った環境かな。兄弟22人いて、みんなでマンゴーとったりかくれんぼしたり。いつも賑やかな場所にいたから自然と明るく育ったよ。

――ただ、ある時期からテレビで拝見する機会が減ってしまったように思います。

サンコン みんなに言われるよ。最近テレビ出ないねって。テレビのオファーはたくさんあったんだけど、講演会の依頼もすごく来てたの。日本とギニアの違いとか、僕の兄弟の話、僕が足を怪我して障害を持った話とか、色々オファーがね。

 そのうちテレビの仕事と講演会の日が重なっちゃったり、収入も色々あって減ってきたの。だから、テレビの仕事を抑えて、講演会の仕事を優先させたんだよね。それで全国の学校とか地方を回るようになった。

■「オスマン、お前日本行って来てくれ」

――そうだったんですね。そもそもの話になるのですが、サンコンさんは1972年にギニアの外務省に入られて、そこからどのような経緯で来日されることになったんでしょうか。

サンコン 当時のギニアの大統領が、「日本はこれから絶対大きくなるから、ギニア大使館開いた方がいいよ」って。それで「オスマン、お前日本行って来てくれ」って言われたのが最初。

 ギニアから日本ってかなり遠いんだよ。でも、日本の能力とか技術、日本人の器用なところとかが手に入ればギニアにとって非常にいいんじゃないかって。ギニアは地下資源すごく豊富なの。金とダイヤモンドね。だから日本人もギニアで働いたり、お互いwin-winになればいいねって話から始まった。

――それは、サンコンさんが外務省で働き始めて、どれくらいのタイミングで言われたんでしょうか?

サンコン 外務省に入って半年。まだ23、4歳の頃だね。運も良かったの。国家公務員テストを受けて、僕、ギニアで1番ですよ。それで、僕ともうひとりの2人だけで日本に行くことになったの。でも、当時は日本の情報とかほとんど知らないまま飛行機に乗ってさ。なんだか冒険みたいだったよ。まじ。

 それが、いざ日本に来てみたら、想像と全然違ってびっくりしたね! ビルがたくさん建ってて都会なの。僕の中では、日本人はちょんまげして着物着て、刀を差してる感じかと思ってたから、全くイメージと違ったね(笑)。

■大使館ではどんな仕事をしていた?

サンコン 日本の外務省の車が羽田空港まで迎えに来てくれたんだけど、そこから帝国ホテルに向かう間も、窓から外の景色を見ては「すごい! すごい!」ってひたすら驚いて。日本語も全くわからない状態で来たけど、これは色々勉強しなきゃなって思ったよ。

――大使館では、設立準備の他にどんなお仕事をされていたんですか?

サンコン 外務省や企業に出向いてそれぞれの文化や技術をギニアに繋いだり、海外との連絡がスムーズになるようにしたね。今は色んな国と簡単に連絡取れるようになったけど、当時は非常に難しかったの。

 それに、自分でもサンコンプロジェクトと言って、ギニアに小学校を建てたり、ギニアと日本で一緒に仕事が出来るように色々進めてるよ。

■「僕の好きな言葉、義理人情と浪花節ね」

――来日から50年が経ちました。改めて日本に来たことをどう思いますか?

サンコン 結果、すごく良かったと思う。旭日双光章(※きょくじつそうこうしょう。国や公共に対し功労のある者に授与される章)ももらえたし、日本のみんなにお世話になってる。家を4軒持てたり、ギニアから家族や兄弟を呼んで、学校に入れて将来を作ってあげられた。

 日本の医療技術もすごいよ。僕の母は86歳で亡くなったけど、ギニアでは今でも平均寿命は60ちょいだからね。母が80歳のときに日本の病院に入院してもらったけど、そのおかげでかなり長生きできたと思ってる。

 それに、日本ではたくさんの友人もできて、もう30年40年の付き合いよ。僕の好きな言葉、義理人情と浪花節ね。やっぱり持ちつ持たれつ、お互い様。義理がすたればこの世はなしって日本で学んだの。だから日本に恩返ししたいと思ってる。

 もちろん、全く簡単じゃないこともあったよ。事務所的に、元マネージャーとかに相当やられたんですよ。お金取られたの。15年とか30年前の話だけどね。1000万とか5000万とか。もう3回もやられたんだよ。そんな話をビートたけしにしたら「気持ちわかるよ」なんて言ってくれて。でも僕が選んだ道だからね。

■日本とギニアを行ったり来たりしたい

――お金を持ち逃げされてしまったんですね。

サンコン でも大丈夫、大丈夫。また立て直し。みんながそうじゃないもん。日本人、全部そうじゃない。そういう人たちもいるんだっていう風に考えればいいと思うよ。そういう人たちもいるけど、全員じゃない。

 今73歳なんだけど、実は80くらいにはギニアに帰ろうかなって思ってる。もう年齢も年齢だしね。日本の方が稼ぎはいいけど、ギニアでも稼げたらいいなって。今、国に戻る準備として、ギニアに興味がある日本の技術者たちと一緒に組んで仕事してるの。日本とギニアを行ったり来たりしたいなって。夏は日本、冬は暖かいギニアとかね(笑)。

 あとは、ギニアの学校にソーラー発電を入れたり、日本で定年した先生とかも招きたいね。それに未だにアフリカは死亡率高いから何とかしたいし、アフリカにはまだ母子手帳が無いから取り入れたいなとか。

 僕はまだまだ活動するけど、僕がいなくなってもずっとその橋を残したいんですよ。ブリッジ。あぁ、サンコンいたなって思ってもらえるようにね。

撮影=三宅史郎/文藝春秋

(松永 怜)

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