「店頭にテレビをおいている店の前は黒山の人だかり」「毎日が祭りのようでした」1959年11月ーーテレビ開局直後の沖縄民の熱狂ぶり

「店頭にテレビをおいている店の前は黒山の人だかり」「毎日が祭りのようでした」1959年11月ーーテレビ開局直後の沖縄民の熱狂ぶり

1959年、テレビ開局直後の沖縄県民の熱狂ぶりとは? ©iStock.com

「那覇市内の数ヶ所の街頭テレビや店頭にテレビをおいている店の前は黒山の人だかり」――1959年、沖縄で初めてテレビ局が誕生した後、人々の反応はどのようなものだったのか?

 当時の貴重なエピソードを集めた、NHK沖縄放送局チーフディレクター渡辺考氏による新刊『 どこにもないテレビ 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

■新たな文化の萌芽

 沖縄のテレビの原点を記録した映像は、那覇市久茂地にある沖縄テレビ(OTV)本社2階にある収蔵庫の一番奥にあった。

「私はもちろん、その時代を直接は知らないのですが、開局当時はフィルムで撮っていたということで、その古いフィルムがこちらになります」

 目の前のスチール棚に重ね合わせるようにあったのは、錆も目立つ数個のフィルム缶だ。夕方のニュース前の忙しい時間、合間をぬって番組アーカイブスを案内してくれたのはアナウンサーの平良いずみである。

「沖縄初のテレビ局として創成期に撮影された貴重な映像の一部が、ここにあるフィルムたちです。もっと大量にあったはずですが、多くの映像はVTRに転写され、さらにそれらがデジタルデータ化されと、時代を経て形を変えて、60数年分の映像がアーカイブされています」

 後日、OTVプロデューサー山里孫存の計らいで、デジタル化された初期のフィルム映像を見せて貰ったのだが、そこにはモノクロームで時代が刻印されていた。

 1959年11月1日の開局時の様子を記録したものが、もっとも古い映像だ。この日、那覇市内の映画館で「沖縄テレビ放送開局祝賀公演」が開かれ中継された。無音なのが残念だが、琉球古典の踊り手、歌い手、演奏者たちが揃い、何かを演じている。

 OTVの三十年史によると、古典芸能の代表的踊り手・島袋光裕が、祝いの宴では必ずといっていいほど踊られる『かぎやで風』を披露し、親泊興照が『上り口説(くどぅち)』などを演じたという。なぜか、柔道や剣道の乱取りをやっている映像もあった。撮影場所は、テレビスタジオだが、どのような由来のものかは定かでない。

 那覇の港に中継車が陸揚げされ、十数名の男たちがそれを取り囲む様子も記録されている。みんなが笑顔で、テレビマンたちの歓喜と高揚があふれていた。那覇の目抜き通りで行われたパレードでは、その中継車を先頭に横断幕をつけた幌付きトラックなどが続き、牧歌的な市民たちの歓迎ぶりが写し出されていた。派手さこそなかったが、開局時の映像には、沖縄の新たな文化の萌芽が匂いたっていた。

■フィルムに刻まれた社会

 那覇市内とおぼしき街頭に続き、人山が見えてくる。電器店なのだが、そこには「沖縄テレビ放送開始」という張り紙があり、人々が大型のブラウン管に群がり、釘付けになっていた。神妙な顔つきで画面を見つめる老婆が印象的だ。この頃、テレビ受像機は、沖縄全体でまだ2600台が出回っていたに過ぎなかったという。

 テレビ開局直後の街の熱狂ぶりを、琉球新報はこう伝えている。「テレビをみる人たちは道路にあふれ、歩きもできないどころか身動きさえできないしまつで、やがてこれが交通の妨害にならなければよいがと案ずるほどだ」(1959年12月)。翌年1月の大阪毎日新聞はこう報じる。「那覇市内の数ヶ所の街頭テレビや店頭にテレビをおいている店の前は黒山の人だかり」。

 放送開始からしばらくの間は、本土でもテレビ開局時に繰り広げられた光景が沖縄でも見られたのだ。この頃、ヤンバルの離島・瀬底島の中学生だったのちのNHKディレクター仲松昌次は、当時をこう回顧する。

「修学旅行で那覇に行った時、国際通りの一画で、人が溢れていたんです。電気店の前にテレビが置いてあり、プロレス中継をやっていたんです。で、それに夢中になって、帰宿時間が遅れ、先生に怒られたことを覚えています。その後、瀬底島にもこの『文明』はやってきました。とはいっても、最初の頃テレビは島全体で2、3台しかありませんでした。島一番の商店の店先のテレビに、夕方になると島中の子どもたちが群がり、時代劇などに一喜一憂しましたね。毎日が祭りのようでした。その時の興奮が、僕がテレビに進むきっかけになったのかもしれません」

 デジタル化されたOTVの初期映像は、まだまだある。

 あるフィルムには、野球の中継が映されていた。広いスタジアムに構えられたカメラはたった2台。これだけで野球全体をとらえるのは、さぞたいへんだっただろうと思われた。

 アイゼンハワー米大統領の来沖の映像もあった。日米安保闘争さなかの1960年6月、当初、日本を訪問する予定だったアイゼンハワーは、安保改定反対の高まりを警戒し、東京行きを中止していた。しかし、フィリピンと台湾、韓国、そしてアメリカ統治下の沖縄には予定通り訪問していたのだ。東京のキー局としても、自分たちで予定していた撮影ができない分、沖縄での映像に期待が高まったという。そんなこともあり、OTVは、この要人来沖撮影に全力を注いでいた。

 大統領専用機は嘉手納飛行場に降り立ち、その場でスピーチする様子や、オープンカーで一号線を南下、那覇に向かってパレードするシーンも残されている。沿道につめかけた人々の数は夥しいもので、米兵の警備はものものしい。OTV黎明期のエピソード集『テレビはじまりや』によると、この日、OTVはニュース撮影だけでなく、琉球政府の中にカメラを構えて中継をしたという。肝心のアイゼンハワーが来る前に電波が途切れるアクシデントがあったようだが、なんとか回復、無事放送を終了した。米大統領が沖縄に滞在していたのは、わずか2時間ほどにすぎなかった。

 レトロな味わいのあるかまぼこ型のバスが悪路を走る映像もある。カットが変わると、満席の客が乗っている。バスを降りた老若男女が足を踏み入れたのは、沖縄南部にある洞窟(ガマ)である。沖縄戦で亡くなった人々を悼む慰霊巡拝の人々だった。当時、沖縄では今のようなリゾート観光などはなく、他県から来沖する人々の多くは、沖縄戦の遺族たちだった。

 那覇市内にある開南小学校の様子もあった。子どもたちは、本土の教科書を使っているが、書かれている値段表示は当然ながら円である。先生が、年端もいかない子どもたちに円とドルの換算方法を黒板に図示しているのが興味深かった。

 OTVアーカイブスにあった初期のフィルムには、当時の沖縄社会がくっきりと刻まれていた。

■すべてが生放送

 OTVが開局した時点で、全国ですでに開局していた民放テレビ局は、北海道から鹿児島まで30あまり。当時、ローカルテレビ局の放送を支える命脈が、「マイクロ波回線」だった。放送する番組をマイクロ波という電波に変換し、電電公社の施設を通して、他の放送局に伝達する仕組みを指す。この時点ですでに本土のどこの放送局も東京のキー局とマイクロ波回線で繋がっていて、東京制作の番組を瞬時に入手することができ、番組編成にさほど困ることがなかった。しかし、沖縄は本土から遠く離れたアメリカ統治下の島なので、鹿児島まで延びていたマイクロ波回線は、まだ到達していなかった。

 いやおうなしに、テレビ番組は毎日東京からの空輸で運ばれてくるフィルムと沖縄で制作する生番組に頼ることになる。そのため、ローカル番組数が多く、20パーセントが自前で、準キー局(大阪のテレビ局)並みの制作量だったという。

 OTVの当初の放送時間は、朝、昼、夜とわかれ、あわせて5時間だった。

 夜の時間帯のメインは自社制作で、月曜は『リズムへの招待』という音楽番組、火曜は『職域対抗紅白芸能合戦』という視聴者参加番組。水曜はのちに『水曜劇場』と改称される舞台中継。木曜は視聴者参加のクイズ番組『アベック・クイズ』。金曜が、米国民政府・USCARの広報番組『人・時・場所』。土曜は郷土芸能の紹介番組『伝統の庭』。日曜が視聴者参加番組の『のど自慢』だが、これはNHKのものと違うようだ。やがて『日曜劇場』というドラマも始まる。

 それらのラインアップの中でもとりわけ人気を集めていたが、水曜の舞台中継だった。

「最初はね、四角いものから映像と音が出て、珍しかったよ」具志堅用高が語った“生まれて初めてテレビを見た瞬間” へ続く

(渡辺 考)

関連記事(外部サイト)