「このカフェに入ってきた最初の女性と結婚する」…愛する妻を理解できない“伝統的な男性”を女性監督のまなざしで描く

「このカフェに入ってきた最初の女性と結婚する」…愛する妻を理解できない“伝統的な男性”を女性監督のまなざしで描く

© 2021 Inforg-M&M Film – Komplizen Film – Palosanto Films – Pyramide Productions - RAI Cinema - ARTE France Cinéma – WDR/Arte

 1920年のマルタ共和国、独身の船長ヤコブは「このカフェに入ってきた最初の女性と結婚する」と宣言し、美しき女性リジーとすぐに結婚する。だが長年男たちに囲まれ海上生活を送っていたヤコブは、パリの社交界で浮名を流してきたリジーに振り回されるばかり。嫉妬や疑念が渦巻き、二人の結婚生活は混乱に満ちたものになっていく。

『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』は、パリやハンブルクを舞台に、愛する妻を理解できず、ひとりもがき苦しむ夫の姿を繊細に描く。原作はハンガリーの作家ミラン・フストが1942年に発表した小説。10代でこの小説に魅了されたイルディコー・エニェディ監督が数十年をかけ映画化を実現し、自分の妻(女)を観察する夫(男)の物語を女性監督の視点から描くという、多層的でユニークな映画が誕生した。そもそも、なぜ女性であるエニェディ監督は、ヤコブという男の姿を描こうとしたのか。

■女性のまなざしで“伝統的な男性”を眺める映画

――監督はミラン・フストの原作を10代の頃に読んで感銘を受けたとのことですが、それ以来、長年この小説の映画化を考えていらしたのでしょうか。

エニェディ 長いこと映画化を考えていたのはたしかです。ただ、私の初めての監督作『私の20世紀』(1989年)の製作環境は非常に複雑なものでしたので、ミラン・フストの小説の映画化もやはり非常に複雑な製作現場になるだろうと、自分でもよくわかっていました。そこで『私の20世紀』を撮り終わったあと、どうなるかは考えずまずは脚本を書いてみることにしました。残念ながらその時点では映画化権を獲得できなかったのですが、時間を経てようやく権利を取得し、このたび映画化が実現したというわけです。

――映画を見て、一見古典的な物語のようでいて、男性と女性の複雑な力関係という点では実に現代的な物語だと感じました。以前に書かれた脚本と、今回の映画化のために用意された脚本は、時代を経て内容は変わっていったのでしょうか。

エニェディ 実際にはわずかな変化しかありませんが、その変化は意義深く重要なものでした。デビュー作の『私の20世紀』で、私は様々なテーマを扱いましたが、そのうちのひとつが、女性と男性が社会のなかで果たす役割についてでした。当時から、それが自分の興味を引くテーマだったのです。ただ以前の私はまだ楽観的で、社会に存在するジェンダーギャップは早い段階で改善されるだろうと思っていました。性別に関係なく平等に権利を与えるのが社会にとって望ましいことは、誰が見ても当然のことですから。ところが数十年後の今になってもジェンダーギャップの改善が実現しないなんて、当時は考えてもいませんでした。

 今回ようやくこの映画の製作が決まったのは、偶然にも#MeToo運動の始まりと同時期でした。映画の中の女性は異質な存在として描かれがち。私はその構図を少しひっくり返してみたのです。女性というアウトサイダーの視点から異質な存在である男性=ヤコブを見つめたわけです。つまりこれは、女性のまなざしによって、本物の“伝統的な男性”を眺める映画なのです。

――妻(女)を観察する夫(男)の物語であると同時に、それを女性である監督の視点から描くという、とても多層的な映画というわけですね。たしかに、ヤコブから見たリジーは奔放でしたたかな悪女のようですが、物語に進むにつれ、問題を抱えているのはむしろ嫉妬深くプライドの高いヤコブの方だとわかってきます。

エニェディ ええ、私はヤコブという男性を厳しく裁くのではなく、好奇心を持って彼を見つめ、彼の脆さを理解しようと努めました。本作を通して、“伝統的な男性”であるとはどういうことなのかを探求したかったのです。そのため一部の人々は、女性の監督がこのいかにも男性らしい人物を共感をこめて描くなんてありえないと感じたようです。でも人はみな育った環境によってつくられるもの。ヤコブもまた「男はこう振る舞うべき」だと教えられて育ったことで典型的な男性になってしまっただけ。私たちは今まさにこの法則を書き換えようとしています。決して一方的にではなく、あらゆるジェンダーの人々が共に既存のルールを書き換えていければと私は願っています。

■彼女の中の隠れた宝物を一緒に掘り出したい

――リジーという女性は、シーンが変わるごとに印象が変わっていきます。同時に、リジーを演じたレア・セドゥという俳優についても、この映画を通して大きく印象を変えられることになりました。彼女はとても現代的でパワフルな女性に見えますが、この映画ではもっと子供っぽく無垢な印象を見せています。監督は、彼女に対してもともとどのようなイメージを持っていたのでしょうか。

エニェディ 実は当初レアはリジー役には合わないかもと感じていました。ですがパリでのミーティングの際、私が先にカフェの席に着きふと窓の外を見ていると、レアがちょうど外を歩いているのが見えたんです。人に見られているとは全く意識せず道を歩く彼女は美しき沈黙に包まれていました。その姿に、他の映画で見てきたレアとは違う何かを感じました。そして彼女がカフェに入ってきた時、たしかに彼女は素晴らしい役者として数多くの映画に出演してきたけれど、きっとまだカメラの前で見せたことのない新しいものを持っているはずだと感じました。リジーという役を通して、彼女の中の隠れた宝物を一緒に掘り出したいと思ったのです。

――素晴らしいお話を聞かせていただきありがとうございます。そういえば劇中でヤコブがリジーを見つめるとき、カフェの鏡越しや窓を介して彼女を見ることが多かったように思うのですが、もしかして監督自身がレアを窓越しに初めて目にしたことと、何か関係があるのでしょうか。

エニェディ どうでしょう、それはわからないけど(笑)。ある意味でリジーは、ヤコブの人生に起こる物事すべてを突き動かす秘密の力のような存在です。まるで禅の導師のように、彼女は人生にまつわる様々なことをヤコブに教えこみます。そして弟子がバカな真似をすればパーンと頭を叩いたりするわけです。

 同時に、リジーは作中ずっと檻の中にいる存在でもあります。それがわかるのは、アパートのなかに彼女がいる場面です。最初に夫婦が住むのはリジーが元々住んでいたパリのアパートですから、そこではまだ自由を感じることができる。ところが彼らがハンブルクのアパートに移ると、様子は大きく変わります。そもそもハンブルクはとても男性的な街で、家の壁はどれもぶ厚く、窓は細く、天井はとても低い。壁紙も暗い柄が多く使われています。すると、そこにいるリジーの印象もパリにいた時とは異なり、まるで檻の中に閉じ込められたようになってしまうのです。

――そうしたハンブルクやパリのアパート、それからカフェやレストランなどの場所はセットで再現されたのでしょうか? どれも1920年代の街の雰囲気を感じさせる、美しく素晴らしい場所でした。

エニェディ 二軒のアパートはスタジオにセットを組みました。ひとつはリジーの世界を表現する神秘的な場所として、もうひとつはヤコブのように謙虚で質素な住居として、設計図から細かな装飾に及ぶまで正確に表現する必要があったからです。それ以外の場所はすべてパリやハンブルクにある実際の場所で撮影しました。ヤコブが乗る船のシーンは、一部はハンブルクで、他はマルタで撮影しています。

■私がどうして今この映画をつくったのかを感じ取ってもらいたい

――船の上でヤコブが仕事をしている姿は、パリやハンブルクで生活をしているよりもずっと幸せそうに見えました。船上での生活と陸上での生活は、彼にとってどのような違いがあったのでしょうか。

エニェディ 男性という生き物は、規則や習慣に満ちた生活のほうが落ち着けるとよく言われています。少なくともヤコブは、そうした規則正しい世界でこそうまく機能する男性です。船上での生活においては、何かをほのめかしたり、皮肉めいたことを言ったり、誰かを艶っぽくからかったりという類のことはいっさい起こりません。すべては白か黒か、イエスかノーしか存在しない世界です。ですから、船の上ではヤコブはよきキャプテンとして、常に正しい判断を行うことができます。船の上こそ、彼にとってはもっとも落ち着ける「自分の家」なのです。

 ところが、一度リジーの世界である地上に降りたとたん、ヤコブは矛盾と官能が渦巻く世界に投げ込まれてしまいます。普通の人々にとっては、それは単なる「社会生活」に過ぎません。けれどそこにはとても複雑なルールがあり、その生活に慣れていない人にとってはとても居心地の悪い場所です。たとえばルイ・ガレルが演じるデダンのような男は、社会生活という複雑な迷路に根ざしている人であり、皮肉やほのめかし、ときには人を惑わすような幻想を口にすることに長けた人間です。対してヤコブは、その世界のルールを理解できず、自分が急に無力になったような屈辱感を感じてしまう。それが、ヤコブにとっての海上と地上の世界の違いなのです。

――前作の『心と体と』(2017年)と『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』は、物語の設定や製作規模という点ではまったく異なる2作に見えますが、本質的には、共通するテーマを扱っているように感じました。どちらも、異質な二人の男女がどうすればつながり合うことができるのか、その葛藤を、共感を持った視線で描いている映画ではないでしょうか。

エニェディ そう言っていただけて嬉しいです。実はアメリカでいくつか取材を受けた際は、そうしたことがうまく伝わらなかったんです。「なるほど、これは時代劇のラブストーリーね」という表面的な印象で片付けられてしまって、歯痒い思いを何度かしました。

 私は映画作家として、毎回ストーリーにあわせて異なる形式を選ぶタイプです。「これが私のスタイルです」というわかりやすいスタイルはないでしょうが、それぞれの形式は、これまで私がつくったすべての映画とつながっています。私がこの映画をつくりながら考えていたのは、「狂騒の1920年代」という懐かしい時代の景色の下に隠れたものを見てほしい、私がどうして今この映画をつくったのかを感じ取ってもらいたいということでした。おっしゃるように、この映画の表層の下には、まさに『心と体と』に通じる何かが隠れていると思います。そういうふうに日本の観客のみなさんにも見ていただけたら嬉しいです。?

Ildik? Enyedi/1955年、ハンガリー生まれ。初監督作『私の20世紀』(89)がカンヌ国際映画祭でカメラドールを受賞。2017年に発表した『心と体と』はベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた。

(月永 理絵/週刊文春 2022年8月11日号)

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