山下達郎が語った、ユーミン「MISSLIM」録音現場での《匿名的でないコーラス》の豪華な顔ぶれ

山下達郎が語った、ユーミン「MISSLIM」録音現場での《匿名的でないコーラス》の豪華な顔ぶれ

コンサートのチケットは入手困難で有名

■ファンの悲壮な顔に愕然とした


――来年70歳を迎えられる達郎さんですが、コンサートではファンに「みんなかっこよく年を取っていこう」と呼びかけるのが、近年の恒例になっているようですね。

山下「ちゃんと健康管理して、身体と心を平穏に、という呼びかけです。僕は、お蔭さまで体は丈夫です。タバコは35歳でやめたし、歯もいまだに自前。8020も夢じゃない。まずは健康第一、それが大前提。

 と同時に、『後半生をどう生きるべきか』という哲学的な問いも、あの言葉には込めています。2008年のリーマン・ショックの後、コンサートを観に来てくれるお客さんの顔つきに愕然としたことがあって。特に男性ですね、表情に悲壮なものがありました。そんな人たちを前にすると、お互い頑張って生きていこうよ、という以外に言葉が出ない。

 その人なりの夢を手放さずに努力を続けることが難しい時代になって久しいですよね。バブル時代には、それこそ『夢を持とう』『壁を乗り越えていこう』の大合唱だったのが、今や経済格差は拡がるばかりだし貧困だって見過ごせない。夢を持つどころか、『俺なんかが頑張ったところでやれるわけない』というシニシズムに陥りかねないわけです」

■次の世代に返してやらなきゃならない

――震災があり、直近ではコロナによるパンデミックがありました。老いも若きも生き抜くことに困難を感じる時代がずっと続いています。

山下「音楽業界も同様で、若い人が音楽で食べていくことが、ものすごく難しい時代になってきました。昔だったら音大を出て、中学や高校で音楽教師をやることで生活の糧を得る。そういう最小限のセーフティネットがあったのが、今は少子化でしょ。教えるといったって、そもそも子供がいないんだから教えようがない。オーケストラが狭き門なのはもとからなので、音大を出ても職がない。結果、音楽行為をする人間の数がどんどん減っていくという、負のスパイラルが続いているんです。

 そういう時代に、じゃあベテランと呼ばれる立場にいる人間は何をするべきか。同世代同士、懐古的でもなく、傷のなめ合いでもなく、未来へ向かってどういう音楽を行為して行くか。昔は良かった、というような懐古主義が嫌いでね。僕自身、若い頃に『今時の若いやつは〜』みたいな決まり文句を浴びるほど聞かされたので、自分が年取った時、それだけは言うまいと心に決めてきた。還暦を過ぎた頃から、余計にそう思うようになりました。

 ジェームズ・ブラウンの有名な言葉で“自分はどん底から這い上がってきた。今度は次の世代にそれを返してやらなきゃならない”というのがあるんですが、要はジイさん、バアさんになった時に、次の若い世代に向けて果たすべき責任があるということ。僕が自分のバンドのサックスやドラムに若い人材を起用しているのにはテクニックの問題だけでなく、そういった理由もあるんです」

■新宿のゴールデン街の飲み屋で坂本君が…

――達郎さんの世代は、いまだ“現役”の音楽家が多いですよね。日本のポピュラーミュージックを牽引してきた“戦友”は数多いと思いますが、同世代で「友人」と呼べる存在を挙げるとすると。

山下「坂本(龍一)君かな。彼がYMOのメンバーになる前、70年代半ばから2年半ほど、それこそ毎日のように会っていた時期がありました。数年前、久しぶりにゆっくり話す機会があったんですが、距離感はまったく同じだった」

 ――『戦場のメリークリスマス』に出演、音楽も担当して以来、“世界のサカモト”と呼ばれて久しい存在ですよね。今となっては、ちょっと意外な人脈とも思えますが。

山下「初めて会ったのは1974年頃で、福生にあった大瀧詠一さんのスタジオでのリハーサルでした。それまで面識はなかったんですが、坂本君は新宿高校、僕は竹早高校で、同時期に高校紛争を経験しているんです。年齢的には坂本君が一級上。僕が高校をサボって、茗荷谷の喫茶店のテレビで三島(由紀夫)自決の臨時ニュースを観ていた1年前、坂本君は学校に3人だけだった某マイナー新左翼のメンバーとして、長髪・下駄ばきで校内を闊歩してたそうです。ちなみにあとの2人は、後年衆議院議員になった塩崎恭久さんと、『アクション・カメラ術』で有名になった馬場憲治さん。

 そういう背景もあって、坂本君とは初対面からウマが合った。新宿のゴールデン街の飲み屋で、彼が東京藝大で専攻していた現代音楽について客と論議を戦わせているのを眺めていたり、行きつけのライブハウスの酒を飲み尽くしたり(笑)」

――「政治の季節」を共有された。

山下「坂本君にしても僕にしても、70年安保で人生が狂ったクチなんです。これはよく言われることですけど、60年安保を機にドロップアウトした人たちが流れた先が雑誌メディア。雑誌文化は60年代安保世代が作ったと言えるんです。同じ世代が年を重ねるのに合わせて、雑誌も対象年齢が上がっていってますよね。育児雑誌、中年雑誌と来て、今や老人雑誌が花盛りになっている。

■リベラル系の運動に参加しようとは思わないけど

 一方、われわれ70年代安保世代が流れたのは音楽メディア。たとえば、そうだな、谷村新司さんは、元々は佐藤春夫に憧れて詩人を目指していたところに、ビートルズが出てきたせいで、アリスを結成することになったそうです。60年代の音楽にはそういうパワーがあった。その圧倒的な衝撃に引き寄せられて、本来ミュージシャンになんかならないでいいやつが音楽業界に入ることになったんです。その後の音楽業界が革命的に爆発した背景には、そういう歴史的事実があります。

 そういった濃厚な時代を共有していると、それから何年経とうと、何年会わなかろうと、友達は友達なんです。今となっては政治的なスタンス、意見の違いというのはそれなりにあって、僕としては彼がやってるリベラル系の運動に参加しようとは思わない。人間というのはおもしろいもので、そうした立場の違いが分かつ関係もあれば、分かたない関係というのもあるんですよね。僕と坂本君の場合は後者でね。たまさか、彼のほうから声をかけられることもなくはないけど、“ごめんなさい。ダメです”と答えればいいだけで。だからって友達でなくなることは、決してないんです」

――いい関係ですね。

山下「あの人がまた、その手の運動が好きだから。あるでしょう、野坂(昭如)さんとか大島(渚)さんとかのような、何というか、おっちょこちょいな感じ。でも憎めない(笑)」

――達郎さんからすると知的な“おっちょこちょい”に見えるんですね。

山下「同じ高校紛争を経験してはいても、彼と僕では家庭環境も違いますからね。坂本君のお父さんは、三島由紀夫を担当した河出書房の名編集者。聞いたところによると、親戚は軒並み東大という家系だそうで。

 僕の家は真逆でね。祖父の代から没落続きなんです。祖父も父親も工場経営に失敗して、小学生の頃から両親は共働き。ずっと鍵っ子でした。しかもひとりっ子なので、おのずとひとり遊びが上手になる。ラジオで落語を聞いて物まねをしたりするような孤独な小学校時代を送ったことは、間違いなく僕の人格形成に影響していると思います。高校時代は留年すれすれのところまで行って、未来のことなんて何も考えられない時期を数年過ごしたし」

■ユーミン『12月の雨』のコーラスがきっかけで…

山下「ただ、たとえ背景が違っていても、音楽をやってる者同士の“縁”が不思議な繋がりを作っていったのが70年代の音楽業界のおもしろいところで、僕の場合だと、たとえばユーミン(松任谷由実)がそうですね。彼女と知り合ったのも坂本君と同じ1974年頃です。彼女が結婚して松任谷姓に変わる前、荒井由実として活動していた時代。『12月の雨』という曲のコーラスを依頼されたのがきっかけだった」

――ユーミン初期の名アルバム『MISSLIM(ミスリム)』収録の曲ですね。

山下「ちょうど僕がコーラスのスタジオ仕事を始めたばかりの時で、あの時代、僕のようなタイプの男性コーラスは他に1人もいなかったんです。当時のスタジオミュージシャンのコーラスと言えばグリー・クラブ直系。一時代前のコーラス・スタイルしかなかったので、ロックやフォークのコーラス仕事は相当数やりました。

 ユーミンから声がかかったのも、僕がバックコーラスで参加していたライブを、たまたま彼女が観に来ていたからなんです。そのとき一緒にコーラスをやっていたのが、僕が当時やっていたバンド、シュガー・ベイブのメンバーの大貫妙子さんと村松邦男さん。“あのコーラスは誰? おもしろいから呼んできて”ということになって、3人してレコーディングに参加することになった。

 縁は異なもので、そのちょうど1週間前、ター坊(大貫)が仕事で吉田美奈子さん(シンガー・ソングライター。70年代半ば以降、山下の作品に歌詞を提供)と初めて会ったんです。その流れで美奈子もユーミンのレコーディングをのぞきに来て、彼女も結局コーラスで参加することになった」

■矢野顕子さんも“鈴木顕子”名義で参加してます

――「あなただけのもの」「生まれた街で」「たぶんあなたはむかえに来ない」など、『MISSLIM』の決して“匿名的でない”コーラスが、今ではあり得ないくらい豪華な顔ぶれだったのには、そんないきさつがあったんですね。

山下「ター坊、美奈子と並んで、矢野顕子さんも“鈴木顕子”名義で参加してますから」

――そういう現場での出会い、ダイナミクスがあってこそ、70年代のポップスの質が飛躍的に向上した。

山下「当時は生活のため、少しでもお金を稼ぎたくて無我夢中でやっていたんだけど、結果的に質的な向上につながった面は間違いなくある。あとはCMの仕事。シュガー・ベイブ解散後ソロになってからも売れない時代が70年代末期まで続いたので、CM音楽もずいぶんやりました」

■筒美京平を怒らせた男

――現在でもドラマや映画の主題歌など、広い意味でのタイアップ曲を手掛けられてますよね。

山下「厳密に言うと、僕はシンガー・ソングライターじゃないんです。作曲家、あるいはプロデューサーとしての好奇心のほうが大きいし、向いているとも思う。近松(門左衛門)のような、というと口はばったいけど、要は“座付き作者”ですよね。自分が前に出るより、誰かをバックアップして、その人の才能にプラスアルファする。そういう役回りにいずれは落ち着いていくんだろうなと、かなり後になるまで予想していました。ありがたいことに、今もって自分名義の作品を発表することができて、受け入れていただいてもいるんですけど」

――“座付き作者”とおっしゃいましたが、ジャニーズ・アイドルにも数多く作品提供されています。KinKi Kidsの「硝子の少年」であったり、あとは何といっても近藤真彦さんに書いた「ハイティーン・ブギ」であったり。

■『すいません、先生。オリコン1位を取れないんで』

山下「歌謡曲の作曲ということで言ったら、僕なんか、いまだに小僧っ子ですけどね。『ハイティーン・ブギ』にしたって、筒美京平さんだったらどういう風に書くだろうって、その一点で考えてますから。『硝子の少年』もしかりで、そういう意味では筒美さんの生徒みたいなもので。

 筒美さんがマッチ(近藤真彦)の曲を仕上げていく現場は、かなり見学させていただいてるんです。当時所属していたRCAのディレクターの小杉理宇造さんは僕の担当だったけど、同時にマッチも担当していたので。小杉さんはマッチのレコーディングのプロデューサーで、『スニーカーぶる~す』の演奏を切り張りして、筒美さんが当初書いた曲の進行を変えたと聞いた時には驚きました。温厚な筒美さんもさすがに不満をもらして。今ならエディットという分野の話ですけど、当時はあり得なかった。しかも筒美さんの曲ですよ(笑)。でも、小杉さんは『すいません、先生。けど元のままじゃ、オリコン初登場1位を取れないんで』って」

――すごい逸話ですね。

山下「当時のアイドル歌謡には、そういう名物ディレクターがいたんですよね。小杉さんしかり、山口百恵を手掛けた酒井政利さんしかり。

 痛感したのは、アイドルというのは歌唱力うんぬん以前に、どれだけの“切迫感”を歌に込められるか、その一点にかかっているということなんです。マッチだったら『ブルージーンズ メモリー』で“バカヤロー!”と絶叫するくだりとか」

 山下達郎さんのロングインタビュー「坂本君と大瀧さんと…70年安保世代の音楽交遊録」の全文は、「文藝春秋」8月号と「 文藝春秋digital 」に掲載されています。

(真保 みゆき/文藝春秋 2022年8月号)

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