「ぜったい売れるから、辞めるんじゃねえぞ」まだ無名のピン芸人・綾部祐二を勇気づけた“立川談志”の言葉

「ぜったい売れるから、辞めるんじゃねえぞ」まだ無名のピン芸人・綾部祐二を勇気づけた“立川談志”の言葉

綾部祐二の人生を支えた「先輩芸人たちの言葉」とは?(Photo by Yuji)

「5日間入院しただけで800万円」「大戸屋のホッケ定食が3000円」ニューヨークに移住した綾部祐二が驚いた“アメリカの異常物価” から続く

「ぜったい売れるから、辞めるんじゃねえぞ」「おまえらが決勝にふさわしい芸人として選ばれただけだ」――立川談志やフットボールアワーの後藤輝基など、綾部祐二を救った「偉大なる先輩芸人たちの言葉」を紹介。

 綾部さんによる初エッセイ集『 HI, HOW ARE YOU? 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■相方・又吉直樹との出会い

 上京して吉本興業の養成所であるNSCを受験したとき、ぼくは22歳になっていました。

 1000人だか2000人だかの受験者がいて、1チーム20人とかで括られて、どんどんと面接を受けていくんです。

「最後にアピールすることはありますか?」と言われて、ぼくとタカ(「スキルトリック」時代の相方)がショートコントをやり、あともう一組、漫才をやったコンビがいました。そのコンビの片割れが、又吉でした。

 面接が終わって外に出たときに、「ネタをやったのぼくらだけだったね」と話しかけたのが、ぼくと又吉との最初の会話です。

 4月になって、当時まだ溜池山王にあったNSCに行ったら、そこに又吉がいたので、「お互い受かってよかったね」と言いました。これはいろんなところで話していますけど、そのとき、あいつの携帯電話に京都の知恩院のストラップがついていたんです。ぼくがいちばん好きなお寺です。

 それから紆余曲折あって、ぼくが先にコンビ別れをして、ピンで活動していたら、あいつもコンビを解散することになりました。わりとずっと仲が良かったので、話を聞いていたら、「芸人を辞めて、坊さんになります」と言うんです。「やめたほうがいいよ、坊さんもラクじゃないぞ」と止めました。

 そして、気づいたら誘っていました。

「だったらオレらで一緒にやってみる?」

 早朝の明治神宮でした。ラジオ体操をしているおばさんの前でそんな話をしたのをいまでも覚えています。

■大事な「前説の仕事」をすぐ辞めた理由

 ピースとしての下積み時代、前説の仕事がありました。

 無名の芸人にとって前説はチャンスなんです。テレビ局に入ることができて、スタッフさんとも知り合える。大勢の人たちに自分たちの芸風を認識してもらえる。

 前説でいちばん必要なのは、とにかく明るく元気にお客さんのテンションを上げることです。ふたりして「どうもみなさん〜!」とやるわけですけど、ご存知のとおり、相方はそういうタイプではないんですね。あきらかにしんどそうだったので、早い段階で会社に言って、前説の仕事は辞めさせてもらうことにしました。

 ぼくはぼくで、結果を出さねばと焦っていました。一方で、テレビで若手が求められるものとはことごとく真逆の要素を持つ相方も、いまでこそそれがスタイルになっていますけど、当時は大変だったろうなと思います。

 よく、「ピースのおふたりって対照的ですよね」と言われます。

 表面的にはそうかもしれない。

 ただ、ぼくが思うのは、コンビやパートナーの結束は、好きなものに対してよりも、嫌いなものに対してのほうが発揮されるのではないか、ということです。

 そういう意味で、ぼくと相方は嫌いなものがわりと似ています。好きなことはそれぞれなんですけど、あいつが嫌いなやつ、嫌いな仕事は、ぼくもぜったいに嫌いなんです。

 もっと言うと、敵が共通なんですよね。

 ふたりとも、芸能界というか芸能界の論理に抵抗したくなるところがあるんです。

 だからマネージャーにも、こう伝えていました。

「ぜひピースさんに、という指名で来た仕事だけを入れてくれ。間違っても、こちらから番組にねじ込むようなことだけはしないでほしい。もし、そんなことをしなければならないくらい仕事がないんだったら、オレたちはいつでも芸能界を辞めて、京都でふたりで古書店兼カフェをやるから」

 もちろん、売れたいとは思っているんです。

 下積み時代から、意識していろいろとやってきました。

 まず、ぼくがありがたかったのは、ライブで一緒にやっていた先輩たちが次々とテレビの世界に飛び込んでいったことです。

 彼らに導かれて、ぼくもいろんな番組の現場を覗いたり、いろんな業界の人たちに会いました。そこで思ったのは、「これ、本当に売れようと思ったら、ネタよりも平場が重要だぞ」ということでした。

 それで、平場でのトークや仕切りの力をつけたくて、ギャラは安くてもいいから、可能なかぎりすべての若手芸人のライブのMCをぼくにやらせてくれ、と事務所にお願いしました。

 そして、MCをするときは、いかに身内ネタに頼らないで、わかりやすく伝えるか、出演者全員をきめ細かく面白くできるか、そういうテーマを持って臨むようにしていました。

 さらに、先輩やほかの事務所のライブにもどんどんブッキングしてもらいました。

 とにかく知らない人たち相手でもぐいぐい入り込み、スベってもいいので、前に出てトークする。そういう場数を踏むようにしたんです。

 テレビでは、売れれば売れるほど、上に行けば行くほど、スターがひしめく中に入っていく必要があります。

 しかも、相手は芸人の大御所だけではなくて、俳優やスポーツ選手、ミュージシャン、芸術家、あらゆるジャンルのスターがそこにいるわけです。

 ぼくの場合、下積み時代に、そこのトレーニングを重ねていたので、いざ番組に呼ばれると、物怖じしないでガンガンいくことができました。ここは抑えて引いておいたほうがいい場合には、そういう判断もできました。

 売れるためではなく、売れたあとにどう立ち回るかという準備をあらかじめしておいたことが、功を奏したのです。

 結果、ネタとか関係なく仕事がたくさん回ってくるようになりました。

■綾部を救った「フットボールアワー後藤の言葉」

 2010年には、キングオブコントとM-1の両方で、決勝に進出しました。

 キングオブコントは惜しくも準優勝でしたが、それでも自分の中では優勝に勝るほどの爽快感がありました。

 決勝のセカンドステージでは、自分たちの持ちネタでもいちばん好きなネタを、さらにブラッシュアップしてぶつけたんです。

 手応えはありましたが、結果は準優勝でした。

 でも、くやしさは1ミクロンもありませんでした。むしろ自分たちのベストが出せたという、清々しい気持ちと満足感でいっぱいでした。

 よくオリンピック選手が、「金メダルは獲れませんでしたが、後悔はないです」と言いますが、あの気持ちがはじめてわかりました。

 一方で、M-1では決勝に選ばれたとき、自分たちがいちばん驚いたかもしれません。

 正直、漫才についてはコントほどの自信はなかったですし、同期や先輩、後輩たちが死ぬ気で漫才にかけているのを見ていたので、それを差し置いてなんで自分たちなのか、という戸惑いもありました。

 その頃たまたまフットボールアワーの後藤さんと飲む機会がありました。後藤さんはM-1優勝者でもありますから、相談してみたんです。

 後藤さんはおっしゃいました

「あのな、考えてみろ。何千組といる中で、おまえらが選ばれた。ネタをやって、選ばれるだけの何かがあったんだ。それは何だ? おまえがテレビ局のお偉いさんの息子だからか? 違うだろ。トータルで、おまえらが決勝にふさわしい芸人として選ばれただけだ。だから、出るからにはスベらないように、ちゃんと調整しておけよ」

 この後藤さんの言葉には、当時、救われました。

■「いつか売れるんだろうな」と漠然と信じていた

 賞レースやネタ番組というのは、野球で言えば、ホームラン競争です。

 誰がもっとも飛距離を出したり、本数を多く打ったかを競うものなんです。このホームラン競争で1位になった人は、無条件でチームに入れます。

 この「チーム」というのは、芸能界のことです。だから、売れるきっかけとしてはいいんです。

 芸能界というチームに入って、最初はホームランを見せてくださいと言われて、パカーンと打ちますよね。

 でも、3ヵ月ぐらい経つと、今度はバントしてみてください、レフトを守ってみてください、ランナーコーチはできますか……、そうやっていろんなポジションを振られるようになります。そして、それぞれうまく結果を出さないと、チームには残れないんです。

 つまり、芸能界で売れ続けている人たちは、ホームランが打てるし、エースでもあるし、キャッチャーだってできる、という人たちばかりなんです。

 だから、ぼくはホームラン王は目指さずに、早い段階からキャッチャーもセカンドも代走もベンチのスコアラーも全部やっておこうと思ったんです。

 下積み時代はそれなりにいろいろありましたが、どこかで、「いつか売れるんだろうな」と漠然と信じていました。

 何ごとも運命、という母親の教えも大きかったと思います。

 また、思いがけずある方からかけられた言葉を、勝手に支えにしていました。

■無名の綾部を勇気づけ立川談志師匠

 2002年のM-1グランプリでのことです。ぼくはまだピン芸人で活動しており、当日、前説の役目で現場に入りました。

 その年は、審査員に立川談志師匠もいらっしゃったので、楽屋に挨拶に行ったんです。

 ガチャッと扉を開けると、おそらくお孫さんでしょうか、談志師匠は小さなお子さんといらっしゃいました。

「本日、前説をやらせていただきます、ピン芸人の綾部祐二です!」

 そう挨拶をして楽屋を出ようとしたときに、談志師匠は「おい」と声をかけ、こうおっしゃられました。

「おまえ、いい目してるよ。ぜったい売れるから、辞めるんじゃねえぞ」

 まだ前説をやる前ですし、ぼくのことなど、何ひとつご存知なかったと思います。

 こんな話、証人もいないですし、「?つけ!」と言われてもかまわないんです。

 ただ、重要なことは、ぼくはその談志師匠のお言葉を聞いて、その後、何年間も泣かず飛ばずでも、「あの談志師匠が言ってくれたんだから、きっと売れるだろう」と漠然と思えたということなんです。

 いつか、また談志師匠にお会いできたら、「どうしてあんなことを言ってくださったんですか?」と聞いてみたかったんですが、お亡くなりになってしまったいま、それは叶いません。

 たまたま渡米する前に、談志師匠と近しい方にお会いする機会があったので、この話をしてみました。

 その方はこうおっしゃってくれました。

「誰にでもそんなことを言う人じゃなかったし、ましてや、思ってもいないことを誰かに言うような人じゃなかった」と。

(綾部 祐二)

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