「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」父親は真言宗の僧侶、朝鮮戦争に出征したことも…ジャニーズ帝国の王「ジャニー喜多川」の肖像

「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」父親は真言宗の僧侶、朝鮮戦争に出征したことも…ジャニーズ帝国の王「ジャニー喜多川」の肖像

知られざる「ジャニー喜多川」氏の人柄とは? ©共同通信社

「クラシックをやったって飯は食えないからやめろ」戦後のミュージシャンにとって「ジャズ」こそが豊かな暮らしの近道だった理由 から続く

 2019年に逝去するも、いまだ存在感が色褪せないジャニー喜多川氏。日本の芸能史を塗り替えたと言っても過言ではない「ジャニーズ帝国の祖」は、どんな人生を歩んだのか?

 ライターの戸部田誠氏の新刊『 芸能界誕生 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

■ジャニー喜多川登場

「将来はミュージカルをやりたい」

 ロカビリーブームが下火になっていくと、「いい歳していつまでもロカビリーじゃないだろう」というムードもあって、ロカビリアンたちは決まり文句のようにそんな話を楽屋でしていたという(※1)。ムッシュはそれを「一種の免罪符」で言い訳のように感じ白んじて聞いていた。

 しかし、本気で若い日本人男性たちのミュージカルをやりたいと夢見ていた人物がいた。ジャニー喜多川である。

 ジャニーさんは、五反田の曲直瀬家でパーティーをしたときにビンゴゲームの賞品とかを用意してくれたり、いろいろ手伝ってくれていたんですよ。パーティーには、マナセプロの人たちだけじゃなくて渡辺プロの人たちもいたから、そこからジャニーさんは渡辺プロの人たちと知り合ったんだと思います。でも、ジャニーさんはすごくシャイでしたね。パーティーが行われているところで一緒になってしゃべるタイプではなくて、裏にダイニングキッチンがあって、そこにずっといた。だから私とは気が合って、キッチンでふたりで座って、ああだよね、こうだよねっていろんな話をしました。ステキな人でしたね。(曲直瀬道枝)

 ジャニー喜多川は1962年にジャニーズ事務所を立ち上げたが、そうした関係もあって、当初は渡辺プロの系列会社としてのスタートだった。

 ジャニー喜多川は、1931年にロサンゼルスで生まれた。父は真言宗の僧侶であった喜多川諦道。ロスの「リトルトーキョー」の一角にある米国高野山大師教会の三代目主監である。諦道は寺院にステージを作るなど、型破りな僧侶だったという(※2)。

『週刊文春』(2010年12月30日・2011年1月6日号)の取材によると、1896年に生まれた彼は8歳で出家し、1924年に渡米。のちに大阪から妻・栄子も渡米。1927年に姉のメリー(泰子)、その下に長男・真一、そして末っ子のジャニー(擴)が生まれた。

 3人姉弟は、それぞれ泰子、マー坊、ヒー坊と呼ばれていた。1933年、一家は帰国し大阪に居を構えた。しばらくして母が亡くなると、メリーが母親代わりのようになり、弟たちの面倒を見るようになった。戦時中は父の元を離れ、姉弟3人は和歌山で親戚筋にあたる大谷貴義の家に身を寄せた。児玉誉士夫と並び「戦後最大級のフィクサー」と称される人物だ。

 メリーは、17歳の頃大阪松竹歌劇団(OSK)に参加。ジャニーズのデビューにも大きくかかわることになる、のちの名和プロダクションの社長・名和純子とはこの時、知り合った。彼女もOSKにおり、近くで飲食店も営んでいた。そこによく姉弟はやってきたという。

 メリーは京マチ子のような普通では後輩が近づけない大御所にも臆せず、「おはようございまーす」と部屋に入っていき掃除をしていた。だから、先輩たちに可愛がられたという。京マチ子が主演した1956年製作のアメリカ映画『八月十五夜の茶屋』の撮影では付き人のように付きっ切りで世話をした。名和は彼女を「人間関係を築く天才」と称している(※2)。

 戦後、OSKは占領軍のキャンプ回りをしていたが、メリーは得意の英語を駆使して司会をしていた。森光子と出会ったのも、この頃だという。

 しかし1949年、3人姉弟は再びアメリカへ渡る。彼らはアメリカ人の日常生活の手伝いをするような仕事をしながら生活費を稼ぎ、学校に通って勉学にも励んでいた。

 そんな中、ジャニーに転機が訪れる。1950年頃になると、日本から美空ひばりを筆頭に笠置シヅ子、古賀政男、服部良一らが続々とやってきたのだ。彼らの目的は表向き「日米親善のため」というものだったが、実際には「少しでも多くの外貨を獲得できたら」というGHQの配慮によるものだったという(※15)。

 ロスでは、諦道が作った高野山寺院のステージで公演が行われた。その際に彼らをアテンドする役割を担ったのがジャニーだった。これがジャニーにとってショービジネスとの最初の接点となった。多くの芸能人が予算ギリギリで渡米してくるという事情を知ったジャニーは、あるアイデアを思いつく。ロス在住の親戚のカメラマンに頼み、渡米してきた芸能人のポートレイトを撮影し、それを観客に売ったのだ。その売り上げはすべて芸能人本人に渡した。それで随分感謝されたという(※4)。

■朝鮮戦争に出征したことも

 だが、2年後の1952年、さらなる転機が訪れる。米国籍を持つジャニーは朝鮮戦争に徴兵され1年2か月にわたり戦地に赴き、除隊後は日本に戻りアメリカ大使館で勤務することになった(※4)。米軍宿舎だった代々木の「ワシントンハイツ」に住み、そこにあった広大なグラウンドに近所の少年たちを集めて、一緒に野球で遊ぶようになった。

 ジャニーの野球との関わりも父・諦道に由来する。彼は1946年に創設された大阪のプロ野球チーム「ゴールドスター」の創設メンバーでマネージャーを務めていたのだ。ジャニーのもとに集まった少年たちは、仲間内でふざけて「オール・エラーズ」だとか「オール・ヘターズ」などというチーム名をつけていたが、父のコネで呼んだ中日ドラゴンズの森徹や国鉄スワローズの徳武定祐といった名選手のコーチを受けてメキメキと上達。ユニフォームを作る際、チーム名として少年たちが提案したのが、「ジャニーズ」だったのだ(※5)。

 ジャニーの活動は、やがて少年たちによる野球大会が開かれるほどまで拡大していった。その大会には当時、国民的ヒーローになっていたプロレスラーの力道山も応援に訪れた。日に日に代々木のグラウンドに集合する少年たちの数は急増していった。

 力道山が応援に訪れたのは、彼とメリーが懇意にしていたからだ。この頃、メリーは四谷三丁目で「スポット」というカウンターバーを営んでおり、力道山はそこの常連だった。ジャニーが米軍から仕入れてくるウイスキーやバーボン、メリーのアメリカ料理が評判になり、力道山だけでなく、芸能関係者、財界人なども足繁く通い、メリーは人脈を広げていった。ちなみに夫となる東京新聞記者の藤島泰輔とメリーが出会ったのもこのバー。渡辺プロ新卒1期生の工藤英博も「スポット」時代のメリーを知るひとりだ。

 渡辺プロから帰る途中にあったので、最初は誰かに誘われて行ったのか覚えてないんですけど、何回か行きましたね。そうしたら、「工藤さん、山形からおいしい漬物を昨日もらったんだけれども、これを美佐さんに渡してあげて」って包んでくれたりしたのはよく覚えてますね。(工藤英博)

■ウエスト・サイド・ストーリー

「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」

 1962年1月、ジャニーは、野球で集まった少年たちの中から光るものを感じた4人を連れて有楽町の映画館・丸の内ピカデリーにやってきた。ブロードウェイを沸かせたミュージカルを映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を観せるためだ。ジャニーと4人はスクリーンに釘付けとなり心を躍らせた。

「こいつはゼッタイなんだ。ゼッタイにすごい!(※5)」

 ジャニーは確信した。自分は、この横に座っている4人の少年たちを中心にしてミュージカルを作るのだと。その4人こそ同じ代々木中学に通う真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、そしてあおい輝彦。彼らがアイドルグループ「ジャニーズ」のメンバーとなるのだ。

 この年の春、ジャニーは有名無名の少年タレントたちを集めて、ミュージカルの勉強グループを作った。もちろん4人も一緒だ。さらに、ジャニーは旧知の名和プロダクション・名和純子が「新芸能学院」をやっていると聞きつけ、彼らを預けることにした。名和プロは2階建ての木造住宅で、1階が30畳ほどの稽古場になっていた。

 少年たちは学校が終わると池袋の稽古場へ毎日駆けつけ、ジャニーはアメリカのチョコレートなどのお菓子、缶詰、飲み物など、子供たちが喜びそうなものを愛車の白いクライスラーに積んで稽古場に姿を現したという(※6)。

 ジャニーは後年、4人の姿を見たときのことをこう振り返っている。

「何か凄いことが可能になる気がしたんだ(※4)」

※1:ムッシュかまやつ『ムッシュ!』(文春文庫)

※2:『週刊文春』「ジャニーズ『アイドル帝国』を築いた男(後編)」(2011年1月13日号)

※3:『潮』「進駐軍への芸能慰安──原節子らに何が起こったのか」(1981年9月号)

※4:小菅宏『「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(講談社)

※5:『ミュージック・ライフ』「ジャニーズの若い涙」(1964年12月号)

※6:『現代ビジネス』「ジャニーズ事務所はなぜSMAPを潰したのか」(2016年10月7日)

(戸部田 誠)

関連記事(外部サイト)

  • 記事にコメントを書いてみませんか?