「クラシックをやったって飯は食えないからやめろ」戦後のミュージシャンにとって「ジャズ」こそが豊かな暮らしの近道だった理由

「クラシックをやったって飯は食えないからやめろ」戦後のミュージシャンにとって「ジャズ」こそが豊かな暮らしの近道だった理由

戦後まもない頃、なぜ日本ミュージシャンたちはジャズに傾倒していったのか? ©iStock.com

「クラシックをやったって飯は食えないからやめろ」

 終戦から間もない頃、日本のミュージシャンたちの多くが「ジャズ」に傾倒していった理由とは? ライターの戸部田誠氏の新刊『 芸能界誕生 』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)


◆◆◆

■戦前派と軍楽隊出身者たち

「これからはズージャだ。ズージャをやれよ」

「ズージャって何?」

「ジャズだよ。ジャズをやったらサンドィッチは食えるし、コーラは飲めるし、ルービーだって飲めるんだぜ(※1)」

 海軍軍楽隊員だった原信夫は18歳で終戦を迎え、途方に暮れていた。楽器の練習は欠かさなかったが、プロになるといった確固たる思いを抱けるような状況ではなかった。そんな時、軍楽隊仲間から「東京で音楽活動をしていて仕事もあるから出てこないか」という便りをもらい、すぐにアルト・サックス一本を持って上京。

 友人の紹介で帝国劇場の専属オーケストラ「東宝交響楽団」のオーディションを受けた。だが、オーディション会場を出ると、別の軍楽隊仲間のフルート奏者・野沢猛夫とばったり遭遇したのだ。「今、オーケストラのテストを受けてきたばかりなんだ」と原が言うと、野沢はきっぱり言い放った。

「クラシックをやったって飯は食えないからやめろ」

 東京は空襲で焼け野原。クラシックを演奏する機会なんてほとんどない、これからはジャズの時代だと。

 1945年8月30日、遂に連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、バターン号で厚木海軍飛行場に降り立った。コーンパイプをふかしながら、開襟シャツという軽装。そのラフな出で立ちとは裏腹に、マッカーサーとGHQは日本に対して絶大な権力を持っていた。約7年の占領期間中、日本政府に出した指令や覚え書は実に約2500件に及ぶ。1日1件の計算だ。

■進駐軍慰安を支えた「戦前のジャズメン」

 そのひとつに、1945年10月2日に発令した「調達要求の物資や役務の範囲」についての覚え書がある。「サービスの部」第10項には「特殊慰安(音楽・演劇・相撲など)」として芸能提供が掲上された。こうした要請に従う形で「RAA(特殊慰安施設協会)」に「食堂部」「キャバレー部」「慰安部」「遊戯部」「特殊施設部」「物産部」などと担当内容が拡充されていった。

 中でも重視され、需要が大きかったのが「芸能部」の一端を担う「音楽」だった。米軍の各施設ではバンドマンたちの演奏を欲した。日本人立入禁止の米軍向け歓楽街も次々生まれ、そこでもやはりバンドマンたちが求められた。そうした芸能人たちの出演料はすべて日本政府が賄った。

 だが、敗戦してすぐの頃。長きにわたる戦時中、娯楽を禁じられて日本人の中で楽器を演奏できるものは少なかった。そこで渡辺弘(1912年生まれ。日本を代表するサックス奏者)を始めとする戦前からのジャズメン、いわゆる「戦前派」とともに大きな役割を果たすことになるのが軍楽隊出身者たちだ。

 陸軍や海軍に所属し、戦意高揚などの目的で、行進曲、オペラの序曲などを演奏していた彼らは毎日のように楽器に触れ、その技術を高めていっていた。戦後、彼らの多くは「とても音楽なんてやれる状況ではなくなる」と不安を抱えながらも、民間での吹奏楽指導者や、NHK交響楽団や東京放送管弦楽団、東京都音楽団などクラシックの分野に職を求めていた。原も当初は、クラシック奏者を志向していたが、野沢の言葉に心を動かされた。

 原はそれまでジャズなど聴いたこともなかった。だが、横浜のキャバレーなど進駐軍向けにジャズを演奏するようになり、やがて「シャープス&フラッツ」を結成し、日本のジャズを牽引していく。原のような軍楽隊出身のバンドマンが進駐軍慰安を支えたのだ。

 つい数か月前までは、“鬼畜米英”への戦意高揚を煽る演奏をしていた彼らにとって、それは屈辱的なことだったのかもしれない。昨日まで「敵国」だったアメリカ兵たちを喜ばせているのだ。

 キャンプでの演奏経験のある三木鶏郎(1914年生まれ。伝説的なラジオ番組『日曜娯楽版』の構成・演出・作詞・作曲・出演で人気を博した「冗談音楽」やコマーシャルソングの第一人者)は米軍のパーティーの様子を見て「豪華絢爛たるアメリカ社会の一端を目の当たりに見て、敗戦下の実感と屈辱をひしひしと感じた」と綴っている(※2)。

 それでも彼らは、進駐軍施設で演奏するのをやめなかった。もちろん、当時の日本人には考えられないような高待遇だったことも大きな理由のひとつだろう。また、好きな音楽を目一杯やれるというのも大きかったはずだ。

 加えて、当時のバンドマンは日本では「楽隊屋」などと呼ばれ、「河原乞食」扱いされていた。けれど、一歩足を、進駐軍クラブに踏み入れると、ミュージシャンとして最大限、尊重され、喝采を浴びるのだ。音楽と娯楽を愛する者にとって、そこは楽園だったのだ。

■ジャズは“おいしい”仕事

「これからはジャズの時代。アメリカの兵隊さんが持ってきたラジオから流れてくるのは何だか知ってるか。ジャズばっかりや。日本でもはやるぞ(※3)」

 1944年に早稲田大学法律学科に入学した渡邊晋は、在学中に終戦を迎えた。敗戦の影響は渡邊家に深刻な影を落とした。父・泰は日本銀行に勤めたエリート。戦中は北支の銀行に出向していたが、戦争協力者として公職追放の憂き目に遭ってしまう。家長が失業したことにより一家はたちまち困窮した。晋の元に生活費はおろか学費が届かなくなってしまった。なんとかして、自分の学費や生活費を稼がなくてはならない。

 そこで晋が目をつけたのが「ジャズ」だった。

 下宿先でトロンボーンを吹いていた2年先輩の塩崎達成の「ジャズがはやる」という言葉に「音楽でメシが食える時代になるということですか」と晋は目を光らせた。晋が音楽を始めたのは、最初から金のため、ビジネスのためだったのだ。

 そのため、晋は需要と供給のバランスも冷静に判断できた。ある程度弾けるようになったギターに早々に見切りをつけ、すぐにベースに転向したのだ。現在、「ベース」といえばギターとほぼ同じサイズのものを想起する人がほとんどだろうが、当時のジャズバンドの「ベース」はコントラバスのこと。地味な上に、大きくて持ち運びが不便なため、担当するプレイヤーは多くはなかった。だったら楽器素人の自分でも付け入る隙はあるかもしれない。晋は徹底的にビジネスライクに考えて、ベーシストになったのだ。

 もっとも良い報酬を得られたのはやはり進駐軍関係の仕事だった。東京・横浜だけでも83か所ものキャンプが存在しており、そのキャンプ回りは晋のようなアマチュアバンドマンにとっても“おいしい”仕事だった。

 キャンプには軍人の階級によってOC(将校クラブ)、NCO(下士官クラブ)、EM(兵員クラブ)といった飲食と芸能ショーを提供するクラブが多数存在していたため、バンドの需要が膨れ上がっていた。従って、前述したような“戦前派”のジャズメンや、軍楽隊出身のバンドマンだけではとても供給が追いつかない。だから、演奏技術に目をつぶってでも、アマチュアバンドが仕事にありつけたのだ。

 戦後のはしりのときは軍楽隊上がりね。それに影響されて、渡邊晋さんたちが第2ジェネレーションになるのかな。第2世代になると、慶應大学とか学習院という割合いいところの人たちが、バンドをやりはじめたんです。楽器が高くて手に入りにくい時代だからね、あまり豊かじゃない家庭の子には買えないわけ。(堀威夫)

 年間7000円の学費を払えず、単位も取ることができなかった晋は、大学に見切りをつけ、音楽で生計を立てることを決意する。1948年のことだ。晋は東京駅の丸の内北口に出かけていくのが日課になった。

 そこには毎日「U.S.Army」と書かれたトラックが何台もやってくる。トラックはその日のショーで演奏するバンドマンをキャンプに連れて行くためのものだ。“売れっ子”のバンドにまず声がかかり、その後、足りない要員を補っていく。晋は「スイングボックス」というジャズバンドのメンバーとなった。単独でいるより、バンドの一員のほうが有利だからだ(※3)。

「トランペット吹けるやつはいるか?」

 そこで手を挙げればその日の仕事にありつける。中には楽器すら弾けない“立ちん棒”などと呼ばれる者もいたが、何しろ人が足りない。数合わせのため連れて行かれることもあった。

■米軍キャンプで育ったミュージシャンたち

 こうしたバンドマンを集めトラックで迎えに行く仕事は俗に「拾い」と呼ばれた。市場が生まれると、新たな仕事が生まれるのは自然の摂理。そのひとつが「楽器の一時預かり所」。その名のとおり、バンドマンが「拾われる」までの間、楽器を保管してもらう場所だ。東京駅北口と並ぶ「拾い」の拠点だった新宿駅南口にも3軒の「預かり所」ができたという(※2)。

 そんな新宿駅南口に通っていた者のひとりが、かまやつひろし(ムッシュかまやつ)だ。彼は高校生になった1955年頃から新宿駅南口に通うようになった。かまやつは以下のように回想している。

 新宿の南口にあった小荷物預かり所に楽器を預けておき、夕方四時とか五時に新宿駅南口に行くと、兵器や弾丸を運ぶ米軍のトラック、ウェポン・キャリアがやって来る。そこに手配師がいて、集まっている連中に声をかけるのだ。

「今日は上瀬谷のオフィサーズ・クラブでカントリーやるぞ。ヴァイオリン弾けるヤツいるか」

「きょうは厚木だ、ギターはいるか、ベースは? ドラムは?」

 そういいながら、一人ひとり拾われていき、そこで初めて会った連中と、ウェポン・キャリアに乗せられて、キャンプや、わけのわからない米兵専用の酒場に連れて行かれ、演奏して帰って来る。そういう、ちょっと恐い“拾いの仕事”をずいぶんやった。カンペキに日雇い労働者である(※4)。

 そのようにして、ミッキー・カーチスや平尾昌晃、雪村いづみ、江利チエミ、寺内タケシ、クレイジーキャッツ、堀威夫、相澤秀禎、そして田邊昭知……、数多くのミュージシャンが米軍キャンプに「拾われ」て、育っていったのだ。

※1:長門竜也『シャープス&フラッツ物語』(小学館)

※2:東谷護『進駐軍クラブから歌謡曲へ』(みすず書房)

※3:軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』(文藝春秋)

※4:ムッシュかまやつ『ムッシュ!』(文春文庫)

「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」父親は真言宗の僧侶、朝鮮戦争に出征したことも…ジャニーズ帝国の王「ジャニー喜多川」の肖像 へ続く

(戸部田 誠/Webオリジナル(特集班))

関連記事(外部サイト)

  • 1

    ミュージシャン十把一絡げは失礼じゃね?

すべてのコメントを読む