映画「ファースト・マン」でライアン・ゴズリングが“感情の読めない”ヒーローに徹した理由

映画「ファースト・マン」でライアン・ゴズリングが“感情の読めない”ヒーローに徹した理由

ライアン・ゴズリング ©getty

 人類で初めて月面に降り立った男が主人公の物語、となれば、何らかの英雄譚を期待しない方がおかしいだろう。しかしこの映画を見おわった際の余韻は、「大作」というよりも、むしろ、人の心の繊細な動きに焦点を当てた小品の与えてくれる感銘に近い。

■ライアン・ゴズリングが体現する「喪失の哀しみ」

 アポロ計画という人類史上でも特筆するべき巨大プロジェクトを舞台としているにもかかわらず、少数の演奏者によるとぎ澄まされた室内楽のような、簡潔で心にしみ入る作品に仕立てあげた作り手たちに、惜しみない賛辞を送りたい。そのアンサンブルの中心にいるのが、主演のライアン・ゴズリングだ。「ラ・ラ・ランド」のジャズピアニスト・セバスチャン、「ブレードランナー2049」の人造人間・K、そして今作の宇宙飛行士ニール・アームストロング――。ゴズリングの演じる主人公たちは、「喪失の哀しみ」という共通のモチーフを切なく奏で続ける。

 作品の冒頭、ニール・アームストロングは対照的な二つの顔を見せる。宇宙飛行を目指す前段階の超音速実験機に乗り込み、命懸けの飛行を繰り返すテストパイロットとしての顔。そして、病魔に取り憑かれ、放射線治療の副作用で嘔吐する2歳の娘の背中を優しくさすりながら「だいじょうぶだよ」と繰り返す父親としての顔。

 この二つの顔は本人の内面でどのように絡み合っているのか。

 観客がそんな疑問に思いを馳せる暇もなく、画面は無情にも、小さな棺が土の中に納められる様を映し出す。しかし、ニールは娘の葬儀の間もほとんど表情を変えず、妻のジャネットと悲しみを分かち合うわけでもない。彼がようやく自らの内面をさらけ出すのは、たった一人になった時だ。ニールは嗚咽する。人は本当に大切な存在を失った時、こういう泣き方をするのだ――。

 ゴズリングの演技は、実人生で深い喪失感を味わったことのある者であれば、誰もがそう納得せざるを得ない域に達している。そして思い至るのだ。「この作品の主人公は莫大な量の感情を抱え持っているにもかかわらず、それを他人と共有する術を知らない。その欠落は、この男の人生に濃い影を落とさざるを得ないだろう」と。

■月に行くことは「娘の死」を覆い隠してくれない

 ニールは娘の死後ほどなく、自らの意志で宇宙飛行士への道を歩み始める。「娘の死の悲しみを振り払い、新たな人生を切り開くため」と説明すれば物語として収まりはいいが、ことはそう簡単ではない。宇宙飛行士になって月に行くことは、娘の死という事実を決して覆い隠してはくれないからだ。

 その一方で、アームストロング家は新たな子を授かる。妻のジャネットは子育てに熱中することに生き甲斐を見いだしているかに見える。いつまでも娘を喪った悲しみに暮れているわけにはいかない。それは人として、母として自然なことであり、子どものために求められることでもある。

 しかし、ニールの魂はいつまでも娘の周囲だけを回り続ける。惑星の重力に囚われ、逃れる術を失ってしまった宇宙船のように。夫婦のズレ、親子のズレは物語の中で徐々に鮮明化し、やがて明らかな不協和音を奏で始める――。

 こうした登場人物たちの心の旋律とは対照的で、かつこの映画を貫くもう一つの主旋律が、ロケットの奏でる圧倒的な轟音だ。

 かつてワシントンD.C.のスミソニアン航空宇宙博物館を訪れた際、最も印象に残った展示品は、米国で初めて地球軌道の周回に成功した宇宙船、「マーキュリー6号・フレンドシップ7」だった。中央ホールの最も目立つ場所に置かれたそれは、直径2メートルにも満たない鉄のカプセルに、申し訳程度にさまざまな補助的機器や計器板、パイロット用のスペースが備えられただけの代物だった。時代の最先端技術の結晶、というよりも、素朴ないかだ舟に例えるのがふさわしい。米国人は57年前、こんな小舟で宇宙という大海に乗り出したのだ。ニールがアポロ宇宙船で月を目指すのは、それからわずか7年後のことだった。

 地球の強大な重力を振り切るためには、小舟が自壊しかねないほどの莫大な推進力を与えることが必要であり、そのために用いられたのが巨大なロケットだった。マーキュリーを打ち上げたアトラスロケットは全高約30メートル、アポロ計画の際のサターンVロケットは全高110メートルに達する。

 だが、この作品はロケットの威容や発射シーンのスペクタクルを再現するよりも、小舟に乗り込んだ宇宙飛行士たちの体験に肉薄することに全力を注ぐ。彼らはロケットがもたらす暴力的な振動と轟音、そして加速度にひたすら耐え続けるしかない。ようやく宇宙空間に到達してからは、機器の小さな異常が致命的な事態を引き起こす可能性に脅え、地球に帰還する際には宇宙船が摩擦熱で燃え尽きたり、地表に猛スピードで叩きつけられたりする可能性に脅える。それは、キリストの受難さえ連想させる。

■「ファースト・マン」たらしめた資質とは?

 そんな苦行の最中にあって、家庭にいる時よりもはるかに冷静に、かつ的確に振る舞うことができるのが、ニールという男を「ファースト・マン」たらしめたずば抜けた資質であり、同時に彼が背負った十字架でもあった。

 ニールは娘を喪う前から孤独だった。彼が最も自分自身でいられる実験機や宇宙船での時間を、愛する人々と共有することは決してできなかったからだ。彼は日常にあっては、自らのぎこちなく不器用な有り様を家族にさらし続けるしかない。ライアン・ゴズリングの、穏やかであると同時にどこか諦念を抱くかのようなたたずまいは、観る者にニールの孤立を理屈抜きに実感させる。

 そんなニールが唯一、「死と隣り合わせの時間」を共有できる可能性のある相手は、仲間の宇宙飛行士たちを除けば、実のところ死者しかいない。

 ニールは娘と死別することによって初めて、愛する者を自分の世界に迎え入れることができたのではないか。月面への旅は、娘と最も親密に、多くの時間を共有できるひとときではなかったのか。それを決して「幸福」と呼ぶことはできないだろうが。

■「ラ・ラ・ランド」に続く監督と主演のタッグ

 監督のデイミアン・チャゼルとライアン・ゴズリングの組み合わせは、大ヒット作「ラ・ラ・ランド」に続くものだ。チャゼルは「ファースト・マン」を「ミッション遂行の物語」として捉えたが、ゴズリングは「ニールの喪失の物語」と解釈していたという。結果的にどちらの思いが前面に出たかは、映画を観れば明らかだ。たぶん、チャゼルは、「ラ・ラ・ランド」に登場したフリージャズのセッションのように、自然な形でゴズリングに主導権を譲り、彼の演技を支える側に回ったのだろう。

 この映画全体を彩る切なさや主人公の性格設定は、「ラ・ラ・ランド」よりもむしろ、異なる監督による「ブレードランナー2049」に近い。そして驚くべきことに、「2049」と「ファースト・マン」のラストシーンは、まったく同じシチュエーションで展開される。偶然の産物だろうが、それだけでは説明しきれない「ゴズリングの磁場の強さ」をも実感させる。「映画は監督のもの」という固定観念を覆し、その存在が自然と作品全体のトーンを決定づけてしまう――。ゴズリングはそんな稀有な資質を備えた役者ではないか。

■どこまで現実のアームストロングを反映しているのか?

 ゴズリングの演じるニールは、どこまで現実のニール・アームストロングを反映しているのか。映画の価値は本来、現実の再現度によってではなく、現実をモチーフとして人間の真実をどこまで掘り下げたか、ということで測られるべきものだ。だが、現実のアームストロングも、作中同様に自己主張を嫌い、感情表出が下手で、どこか浮世離れした人物だったことは疑いない。

 作中、アポロ11号の発射前に行われた記者会見で、月面を最初に目指すことの感想を問われたニールは「I’m pleased(うれしい、満足している)」と愚直に繰り返す。今作のベースとなった伝記によれば、現実の会見でもアームストロングは月着陸への意気込みを聞き出そうとする矢継ぎ早の質問に対して「感情の読めない答え」を繰り返し、ある記者は彼のことを「陰険な秘密主義者」と評したほどだった。

 物語の重要な鍵となる「ニールが月旅行に持ち込んだささやかな私物」についても、実際にはアームストロングが記念品として最も重視していたのは、「ライト兄弟が作った史上初の航空機の木片」であり、他に持ち込んだのは妻と母に贈るアクセサリーぐらい。2人の息子に、「月旅行のおみやげ」になるような品を与えることさえしなかった。

 その一方でアームストロングは、月面から戻った直後の1969年10月にロンドンを訪れた際、柵にはさまれて警官に抱き上げられた2歳の幼女に歩み寄り、群衆の面前でキスをしている。娘のカレンが亡くなったのも2歳の時だった。

 果たして現実のアームストロングは、作中のニールのような切ない思いを娘に対して抱き続けていたのか。私が思い起こすのは、室生犀星が愛する子どもの葬儀について綴った「靴下」という詩だ。

毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちやをも入れ
あみがさ、わらぢのたぐひをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ。

おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐へがたくなり
煙草を噛みしめて泣きけり。

 深い悲しみを知る内面と沈着冷静な外面の両立。それこそが、真に困難な局面に立ち向かうための「ライトスタッフ(正しい資質)」に他ならない――。ニール・アームストロングとは対極にあるような、空疎で自己主張ばかりが激しい政治的指導者が目立つ時世にあって、作り手たちは、そのことも静かに訴えたかったのではないだろうか。

(小石 輝)

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