「親にも真実は言えないわけですよ」『川口浩探検隊』幻の“ネタばらし”特番が放送できなかったワケ

「親にも真実は言えないわけですよ」『川口浩探検隊』幻の“ネタばらし”特番が放送できなかったワケ

『川口浩探検隊』シリーズで隊長を務めた、俳優・川口浩さん ©AFLO

「包帯を取り替えようとしたら、指がズルッとずれて」本当の事故だった…『川口浩探検隊』隊員が明かす“危険すぎる撮影の裏側” から続く

 かつて、水曜夜7時30分からの90分間、子どもたちをテレビの前に釘付けにした「川口浩探検シリーズ」(1978~1985年)。未知との出会いを巡る男たちの冒険は、「ヤラセ」と揶揄されることもあったが、そこに「真実」はあったのであろうか。

 ここでは、時事芸人のプチ鹿島さんが「川口浩探検シリーズ」の裏側に迫った『 ヤラセと情熱 水曜スペシャル『川口浩探検隊』の真実 』(双葉社)より一部を抜粋。番組の黎明期から関わり、隊員として出演もしていた小山均が語る「真実」とは——。(全2回の2回目/ 前編を読む )

◆◆◆

■「みんなはどこまで喋ってるの?」

 まずこれまで取材に応じてくれた元隊員の名前をあげながら小山に取材意図を説明した。世の中からは時として半笑いにされていた川口浩探検隊かもしれないが、そこにエネルギーがあったことは確かではなかったか。そして視聴者のテレビを楽しむメタ目線を生んだのは、この番組の功績が大きいのではないか、と。

 すると小山は我々にこう尋ねた。「みんなはどこまで喋ってるの?」

 これまで語ってくれた元隊員たちとは異なる言葉の響きにゾクッとした。

「探検隊についてはね、これまでも何度か書籍化しようという動きがあったんですよ」いきなり初耳の話である。いつ頃の話だろうか。

「番組が終わってからすぐ。そのあとも何回か話があったんですよ。探検隊のDVDシリーズ(2005年)が出たあとにも気運があったけど、事件があってヤバいとなったんだよなぁ」

 小山が語る事件とは「テレ朝、1億3000万所得隠し…番組制作を架空発注」(読売新聞・2006年9月28日)のことだ。この事件での“チーフ・プロデューサー”は、『川口浩探検隊シリーズ』のプロデューサーでもあった、加藤秀之氏である。

「そうそう、加藤事件もそうだし、ほかでもヤラセがあってね。世の中がちょっとピリピリして」 ここで言う“ヤラセ”とは2007年1月に放送された『発掘!  あるある大事典』での“納豆ダイエット・データねつ造”である。この件で社会的にも大きな批判を浴びて、番組は打ち切りになっている。

 小山の言葉を整理するなら、探検隊の書籍化の企画は番組終了直後(1986年)から何回かあり、最後に企画があったのは2006年後半から2007年初頭だったのだろう。

「探検隊に関しては別に墓場まで持っていくみたいな重い物をみんな背負ってるわけじゃなくてね。本を出そうかってなったのも『もう全部バラそうよ』っていう意図だったんですよ」

 そんな計画が進んでいたとは。

「そもそもテレビで特番をやろうということになってましたからね。探検隊シリーズが終了したあとに全部バラす特番をね」

 え……?

 探検隊が自分たちで“全部バラす特番”を考えていた?  ネタばらしを!? 驚きのあまり私は声をあげてしまった。こんな特番が放送されたら誰だって仰天する。その経緯を詳しく知りたい。

■「川口浩探検隊」ネタばらし特番の真実

「85年に川口浩さんがガンになって番組をお休みして1年間くらい療養してたんですよ。それで、復帰したときにすべて本当のことを話そうっていうことになったんです。特番を組んで」

 ──それは誰の考えだったんですか?

「加藤プロデューサーのアイデアです。番組をやっていた当時も『ヤラセ、ヤラセ』ってバカにされてるところもあって。まあ当然そういう番組なわけですよ。あのときはずっと本当だって言って放送したけども、そのままそれをやり続けるのは得策ではないというか、もう限界っていうかね。みんな嘘だってわかってるわけだから。じゃあ全部バラそうって。それでもうネタも決めたんですよ」

 私はいま、とんでもない事実を聞いている。呆気にとられたまま小山の話を聞き続けるだけだ。

 ──ネタばらし特番のネタはどういうものだったのですか?

「台本(になる)まではいってないけどね。ロケ先は決まって、それで2班編制で撮ろうと。いつもは1カメでやるんだけど」

 ──え!  すごい!

「すごいでしょ。この話は内輪でもあまり知られていない。それで、1台のカメラはいつものように川口隊を撮ると。で、もう1台のカメラは、俺がやるはずだったんだけど、レポーターのコーナーが あったじゃないですか、女の子の。その女の子がホテル前に立ってると。で、『我々はいまなんとか ホテルの庭に来ていますけども、ちょっとこちらをご覧ください』ってカメラを振ると、探検隊がホ テルの庭でオイオイとか掛け声かけながら隊列組んで行進してきて(笑)。『庭でロケをやってますが、どんな画面になるんでしょうか』って言うと探検隊の絵がデデンと」

 つまりロケの様子と、その映像が“完成”されたあとを公開してしまうというのだ。早すぎた『大改造    劇的ビフォーアフター』でもある。それにしても長く続いた人気番組の“作り方”を見せてしまうなんて、どう考えても前代未聞の番組ではないか。

「隊員が『おりゃー!』とか『木が邪魔だー!』とか言ったりしてね(笑)。正月特番だったんだけどね。正月に全部バラそうって。それ以降、川口探検隊はドラマをやろうって決めてました。海外で撮影した冒険ドラマをね」

 そういえば元ADだった内藤が「『川口探検隊』は『インディ・ジョーンズ』をやりたかったんです。バラエティでもない、ましてやドキュメンタリーでもない。目的は娯楽大作」と言っていた。その言葉がよみがえる。

 川口浩探検隊は特番でネタばらししたあと、堂々と“和製インディ・ジョーンズ”の制作に取り掛かるつもりだったのだ。これは“30年後のスクープ”である。

■「ネタばらし」が幻になったワケ

 ──つまり、完全にエンタメ宣言をして、それまでのネタばらしをしてリセットしようと?

「そうそう。特番をやって告白して、それ以降は川口隊でドラマをやろうっていう構想でした。冒険ドラマという形で海外ロケをしてね」

 そこまで話が進んでいたとは。放送を考えていたのは「88年の正月」だという。川口隊長の病気療養明け、復帰での特番。まさに華麗なる転向である。川口隊長復帰とともに番組も再デビューならインパクトは大きい。タイミングとしても絶好だったはずだ。しかし特番は結局のところ幻となった。なぜか。

「川口さんが亡くなったからです(87年11月)。なので特番の計画もなくなりました」

 ──あぁ……。

「川口さんは1年間番組を休んで体力も戻ってきた。じゃあ、いよいよロケに行こうとなったんです。出発前に念のために病院で検査したらガンが転移していて……。再手術したけどそのまま病院から出てこれなくなって」

 ──そのあとも特番をやるという計画は一切なかったのですか?

「川口さんは世間に対しては『我々は本当の冒険をやってる』っていう立場で亡くなったわけですよ。だから、そのあとにネタばらしをやっちゃうと、川口さんのことを茶化すことになってしまいかねない。いまだにそうですよ。あれから30年近く経ったけど番組の内容をいろいろ話してしまって、結果的に川口さんがインチキだみたいに思われるのは、僕らはすごく……」

 このときわかった。小山が最初に「みんなはどこまで喋ってるの?」とこちらに聞いた意味が。どこか重みのある響きだった意味が。

「川口さんはあのまま(ネタばらしのないまま)亡くなられたからね。それで番組は終わっちゃったから、みんな喋っていいかわからないんじゃない?」

 確かにそうだった。いままで私に話をしてくれた元隊員たちは、青春の思い出のように明るく楽しく話してくれた方が多かった。もう時効だろうという方もいた。しかしそれらの笑顔の陰で「どこまで話していいんだろう」という逡巡も、時に垣間見えた。過去の自分と探り合いをしてるふうな瞬間を感じたのも事実だった。

 だからこそ私は、川口浩探検隊は歴史的に過小評価されてないか、いまこそ再検証したいのです、という気持ちを彼らにぶつけたのである。その意気込みに納得してもらいすべてを話してもらったのである。今回の小山も同じ説明をしたら理解してくれた。

■川口さんは本当の探検家になりたかった

 あえて言うが、小山のような立場は特殊ではないはずだ。“世の中に見えている自分の仕事”の内実をどこまで話していいのかという葛藤。それは政治家だろうと鮮魚店だろうと会社員だろうと、どんな仕事にも“世の中には見せていない部分”はあるだろう。

 いわんや、ヤラセと言われる宿命を持った探検隊なら。

 ──川口隊長はスタッフにはどう見えていたのですか。

「川口さんは役者だからねぇ。あくまで演者ですよ。でも、グループのまとめ役だったことは間違いない。最年長じゃないですか。これどうする?  みたいな部分では年長者のリーダーとして動いたり とかね。番組の内容に関してはディレクターがいて、作家がいて、そちらが尊重されるんだけれども、チームをまとめるみたいなところは川口さんでした」

 サバイバルの技術に詳しかったのは川口さんという証言もこれまでにあった。

「川口さんは本当の探検家になりたかったんですよ。そういう夢があった。こういう番組をやっていたら、世間からいろいろ言われるけども、場所にはちゃんと行ってたわけだから。川口さんは、いつかは本当の探検をしたいって言われてたんです」

 ──それは常々言葉にしておっしゃってたんですか?

「ああ、言ってましたねぇ。いつか南極に行こうみたいな」

 ──それはどういう意味なんでしょう。世の中を見返してやりたいという?

「いや、そういう気持ちよりも、純粋に本当にすごいところにちゃんと行きたいって。言ってたねぇ」

 いつかはガチをやりたいと願っていた隊長の復帰回として、ネタばらし特番が考えられていたのだ。

■もし台本の存在を世の中に告白していたら…

 ──特番の許可は川口さんからはいただいていたんですか?

「はい。だから、あの頃に川口プロを作ったんです。川口さんは探検隊はずっとやるつもりでいたから、川口プロを作って自分のところで制作をするはずだったんです。プロデューサーになろうという意味ではなくて、ライフワークとしてね」

 ──もし探検隊が放送しているときに、台本の存在を世の中に告白してたら、どうなっていたと思いますか?

「……心に葛藤を持たないでね。チクチクしないようになっただろうね」

 ──心がチクチクしてたんですか?

「してた」

 小山は即答した。そして、天井を見上げながら続けた。

「フルハウス(制作会社)で僕を指導してくれたディレクターとか、そういう人たちが言ってたんです。『探検隊はテレビ界の面汚しだ』と。テレビの影響力ってやっぱり大きいじゃないですか。そういう中であんなものをやってはいけないって言ってる人たちが、業界の中にもいて。彼らのお師匠さんたちはテレビマンユニオンを作った人とかで、そういう流れを汲んだ会社だったんです。だから『お前たちに志はあるか』ってよく言われたよ」

 小山は79年に大学を卒業して1年半ほどフルハウスに在籍した。『出没おもしろMAP』(77年~79年・テレビ朝日)に携わったが、番組が終了すると出向で「川口浩探検隊」に行くことになった。

 以前にも出向した社員はいた。しかし彼らが「あんなところ、人間のいるところじゃない」と2、3カ月で戻ってきたので、小山に話がまわってきたという。

「フルハウスで探検隊について、さんざんひどいこと言われてるのに『お前行かない?』って。しょうがないから行くけど、番組は“本当のこと”だって言って仕事してるから親にも真実は言えないわけですよ。『今度はメキシコに行ったんだって?  大変だったね』って聞かれても『いや、俺は今回はメインじゃないから、仕込みを手伝ってからロケの最初のほうだけ参加して先に帰ってきた』って正直に言えない」

 人気番組には秘密があった……。探検が“本当のこと”だと思っている人がいる以上、たとえ相手が親だとしても“本当のこと”は言えない。小山の葛藤の始まりだった。

(プチ鹿島/Webオリジナル(外部転載))

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