「思想家としても偉くなって」菊池寛が100年前に雑誌『文藝春秋』を創刊した“第三の理由”
2023年01月31日 12時00分文春オンライン

佐々木味津三 Ⓒ文藝春秋
フランス文学者・鹿島茂氏の人気連載「 菊池寛アンド・カンパニー 」第14回「『文藝春秋』創刊秘話」の一部を転載します。(「文藝春秋」2023年2月号より)
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■「3日で売り切れた」創刊号
大正12年1月1日発行の奥付をもつ「文藝春秋」1月創刊号3000部は実際には大正11年の12月20日頃に定価10銭で書店店頭に並んだが、『文藝春秋六十年の歩み』収録の同人・佐々木味津三の回想によると、たった3日で売り切れたという。
同じ大正12年の「中央公論」新年特大号が1円、「新潮」の同号が80銭だったから、定価10銭というのは段違いの安さで、現在の貨幣価値に換算すると300円くらい。安さに魅かれて購入した読者も少なくなかった。
ただ、当たり前だが、たとえ定価10銭でも売れない雑誌は売れない。3000部完売の理由は安さ以外にあったはずなのである。つまり、行き当たりばったりに見えながら、その実、菊池寛は時代状況の劇的変化を本能的に察知して創刊に向かって進んでいったのである。
というわけで、今回は「文藝春秋」の根本的な創刊動機は何かを探ってみたいのだが、しかし、その前に「文藝春秋」というタイトルの由来と、巻頭エッセイというかたちでいまも残っている、五号ないしは六号活字の4段組みという体裁について触れておいたほうがいいだろう。
まずわかりやすいところで、雑誌タイトルの問題から行こう。これについては、同人の一人・佐々木味津三が回想で語っている。すなわち、佐々木は大正11年の年末に菊池から「蜘蛛」の同人と一緒に新雑誌の同人になれという手紙を受け取って、嬉しさのあまり「夜が明けた!」と叫んだエピソードを記してから翌朝の菊池宅訪問に筆を進めているのだが、そこにはタイトル決定についての証言があるのだ。
「帯をしめたやうなしめないやうな恰好で」あらわれた菊池は「ポケツトマネーの200円位はどうにでもなるからね。それで出すんだ。牙城といふ題はどうだらう。君、君、いかんかね」と尋ねたので、佐々木が「いかんです、文藝春秋がいいでせう」と、菊池の文芸時評のタイトルを口にすると、「それがよからう」ということで決まったというのである。これはかなり信憑性がある証言と見てよい(大西良生『菊池寛研究資料』)。
また、「文藝春秋」という題字、および目次がそのまま印刷された表紙については、同じく佐々木の回想によれば「蜘蛛」の同人だった船田享二がコンパスと三角定規を持ち出して即席につくったものだという。ただし、題字はともかく、目次を兼ねた表紙というアイディア、および五号活字と六号活字の4段組みという体裁には別のソースがあったようだ。
それは、マルクス『資本論』完訳版の最初の訳者として知られる高畠素之が尾崎士郎らとともに出していた国家社会主義の雑誌「局外」だった。菊池は「文藝春秋」創刊号の編集後記でも触れているように、この「局外」の体裁を借りることにして、大正11年暮れに自宅に招いた尾崎に許可を求めたばかりか、主宰の高畠素之に許可を懇請する手紙を出しているのである。
ことほどさように、創刊すべき雑誌の、少なくとも形式面でのコンセプトは菊池の頭にしっかりとできあがっていたのである。
また、発売元は春陽堂、発行所は文藝春秋社となっているが、これは名前のみで、菊池が制作費200円をポケットマネーで全額負担した純然たる個人雑誌であった。
■「私は頼まれて物を云ふことに飽いた」
というわけで、次は創刊の動機について考えてみたいのだが、これについては「創刊の辞」で菊池寛が率直に語っている。
「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅ/\してゐる人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした」
いかにも菊池寛らしい本音と建前の乖離のまったくないテクストだが、しかし、ここで菊池寛が創刊の理由として挙げている、(1)自分が考えていることを一切の掣肘なしに言えるメディアを作りたい、(2)自分のまわりにいる若い人達の発言メディアを確保したい、という二つの動機についてはさらに掘り下げて分析する必要があるだろう。というのも、菊池寛が無意識でしか捉えていない時代状況の変化がこれにはからんでいるからである。
しかし、その前に、ここには挙げられていない第三の理由があったことを指摘しておかなければならない。それは、前年あたりから菊池寛が計画していた洋行が取りやめになったことである。大正11年の9月頃まで菊池寛は真剣に英仏独への洋行を考えており、大正10年11月には「大阪毎日新聞」の薄田泣菫に手紙を書いて、2年間の留学中だけ不定期通信員として通常の給与90円の倍の200円をもらえないかと打診していた。
「二年間位は居て勉強して充分偉くなって帰って来るつもりです。思想家としても偉くなって帰って来たいと思ふのです。(中略)どうもこのまゝ、日本に居ますと安逸な生活とつまらない虚名のために、駄目になってしまふやうな気がしますので、思ひ切って外遊し大成したいと思ふのです」(大西良生『菊池寛研究資料』)
この洋行計画は、結局、「大阪毎日」からOKが出なかったらしく、大正11年9月には頓挫し、菊池寛は自費での洋行を目指すことに方向転換して、「婦女界」の主幹・都河龍に対し、同誌への小説連載条件確認の手紙を書くことになる。
■婦人誌がもたらした「夢のような金額」
もし、このとき洋行が実現していたら、「文藝春秋」の創刊はなかったか、あるいは数年遅れていたはずである。その代わり、思想家として偉くなって帰って来た菊池寛にパラレル・ワールドで出合えたのだから、歴史の損得勘定はトントンかもしれない。いずれにしても、大正11年の時点で菊池寛が洋行を断念し、翌年4月から「婦女界」に「新珠(にいたま)」を連載するという選択をし、それが「文藝春秋」創刊につながったことだけは確かなのである。おまけに、「婦女界」への進出は菊池寛にさらなる富をもたらした。『半自叙伝』にはこんな記述がある。
「その稿料は、一定の稿料の外に、雑誌一部につき二厘五毛ずつ位の印税を呉れた。一万部で二十五円であるが、これを稿料に加算すると、稿料が七、八円になった。(中略)尤も『婦女界』の時は、三十万部位出していたから、相当なものであった。稿料としては、一枚三十円位であったと思う」
現在の貨幣価値に換算すると30円は1円=3000円のレートで9万円。まさに夢のような金額というしかない。たしかにこれなら、少し書き溜めれば洋行費用くらい簡単に捻出できたのである。しかも、大正11年からは、春陽堂から『菊池寛全集』全5巻の刊行が始まって印税は入ってくるわ、新聞小説の舞台化、映画化で上演料や映画化料が入ってくるわで、菊池寛の月収は1万円だと噂されたりもした。しかし、そうなればなったで、成功をうらやむ者も出てくるし、スキャンダルを暴いてやろうとするジャーナリズムの動きも活発化するのは当然である。
というわけで、ようやく(1)の理由が前面に出てくることになる。菊池寛は創刊号の編集後記で、おおよそ次のようなことを述べている。すなわち、去年あたりからいろいろな人から悪口を言われたが、いちいち反論するのも大人気ないと黙っていた。しかし、これからは自分に対する非難攻撃には「文藝春秋」の誌面で答えるつもりである、と。
菊池は元々、悪口や非難には敏感に反応するタイプだった。友人や知人に対しても腹を立てると速達葉書や電報でただちに抗議したことが知られている。友人たちはこうした抗議文を「菊池寛の速達」と呼んでいた。
たとえば、広津和郎は『同時代の作家たち』(岩波文庫)で、『真珠夫人』の大成功で菊池寛が故郷の高松に錦を飾ったころ(大正10年の4月)のことを回想し、共通の友人であった岡栄一郎の虚言が原因で、菊池寛から次のような抗議の速達を受け取ったことを記している。
「君は僕が今度国に帰って金をいくら使ったなどと言い触らしているそうだが、人のふところの中など計算しないでくれ。君との今後の交友のため一言注意して置く」
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鹿島茂氏による「 菊池寛・アンド・カンパニー 」第14回の全文は、月刊「文藝春秋」2023年2月号および、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
(鹿島 茂/文藝春秋 2023年2月号)
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