学校で「なんでだろう禁止令」が出たことも…テツandトモ(52)が明かした「2003年の超多忙ぶり」

学校で「なんでだろう禁止令」が出たことも…テツandトモ(52)が明かした「2003年の超多忙ぶり」

学校では「なんでだろう禁止令」が出たことも…テツandトモの2人に20年前の超多忙ぶりを聞いた ©深野未季/文藝春秋

 テツandトモが、「なんでだろう」で流行語大賞を受賞してから20年――。

 同作は2003年1月にアニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のエンディングテーマに起用され、子供たちの間で大ヒット。シングルCDは20万枚超えを記録し、NHK紅白歌合戦の出場にもつながった。

 忙しすぎて「当時のことはあまり記憶がない」という2人に、その「売れっ子ぶり」を振り返ってもらった。(全3回の1回目/ #2 、 #3 を読む)

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■33歳で大ブレイク! 「なんでだろう」誕生秘話

――2003年は、「なんでだろう」が大ブレイクした1年でした。33歳になった年ですね。

トモ 僕たちが縁あってお笑いの世界に入ったのは、どちらも27歳の時と遅め。「お笑い」の作り方が全然わからず、漫才とかコントとか、やってみたけどどれもパッとしませんでした。最終的にテツが元々、歌手志望だったこともあって歌ネタをやろう、それで駄目だったらもう辞めようと決意したんです。

――背水の陣で、歌ネタにたどり着いた。

トモ 歌ネタも最初は時事的なトピックで作ってみたけど、まるでウケず(笑)。模索していたら、あるあるネタで面白い芸人さんたちを見て、そういった共感性の高いものも取り入れられたらウケるかもなと思いました。

 ある時、お手洗いで「仮面ライダーいつ免許取ったんだろうな、無免許だったら面白いな~」なんて考えていたら、現在の「なんでだろう」のメロディがふと浮かんだんです。Q&Aスタイルで、最初にできたネタは「テツの顔が結構長いのは、なんでだろう~?」でした。

テツ 「それは遺伝だろう〜♪」とか答えたりね(笑)。おでんとか感電とか、デン繋がりの言葉遊びもいろいろ試しました。ただ手の動きは、メロディを聴いた時にビビッと自然に降りてきたんです。

――歌ネタのなかでも、試行錯誤を重ねたんですね。

トモ それまでずっと落ち続けていたオーディションに受かるようになったのは、小学校時代のあるあるネタを「なんでだろう」にしてからです。

テツ 同時に、わざわざ答えを言い切らなくてもいいんじゃないかということで、なんでだろうを繰り返しながら、合いの手を加えていく形ができました。

――結果、ブレイクにつながるわけですが、「オレら売れ始めたな」と実感し始めたのはいつ頃でしたか?

トモ 2002年2月に、『めちゃ×2イケてるッ!』内の企画の「笑わず嫌い王決定戦」に出演したら、若者たちにブワァーッと広まりました。さらに同番組でコーナーを持たせていただくと、何か感覚が今までと違うなと思うことが増えました。その頃は学園祭も毎年40校ぐらい行きましたね。

テツ 1日3校とかもありました。イベントでも、今までとは桁違いのお客さんが見に来てくださる。それを目の当たりにして、変化を感じました。

■「なんでだろう禁止令」が出た学校も

――ターニングポイントは2002年だったんですね。

トモ その年の『M-1グランプリ』に出場(6位)し、2003年1月から『こち亀』のEDで起用されると、さらに広い層に広まりました。

テツ デビュー翌年から出させていただいていた『爆笑オンエアバトル』は深夜帯だったし、コアなお笑い通の人が見るような番組。ゴールデンの『めちゃイケ』に出たことで、急に認知度がバーンと上がりました。

『こち亀』に起用されてからは、幼稚園ぐらいのお子さんに一気に火がつきました。主人公の両さんが「なんでだろう」を踊ってくれたのを、皆さんが真似してくれたんです。さらに年配の方も、孫が真似てるのは何だって興味を持ってくださいました。

 当時は情報番組や『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)のような音楽番組など、バラエティ以外の番組にもよく呼んでいただきましたね。

――段階的にさまざまな層のファンを着実につかみ、やがて社会現象に。子供たちにも広まったな、と実感したエピソードはありますか?

テツ ある学校で「なんでだろう禁止令」が出たという記事が新聞に掲載されたことがありました。あまりにもみんなが学校で「なんでだろう」をやるから、授業の妨げになってしまったようです(笑)。テレビの影響力の凄さに衝撃を受けたのは覚えています。

トモ 今はSNSが発達したから、売れてから飽きられるスピードはあっという間。でもあの頃は、一度売れると結構長かったんですよね。

■寝ながら「なんでだろう」を踊っていたことも…

――YouTubeもSNSもなく、娯楽が今よりも限られた時代でした。あまりの人気で睡眠時間もなかったのでは?

トモ 元々『オンバト』時代から営業がたくさん入っていたのですが、そこへテレビの仕事が入ってきたので、寝る時間はほとんどなくなりました。食事も、お弁当かテイクアウトの牛丼ばかり。移動車の中で、牛丼を食べながら取材を受けるようなこともありましたね。

テツ ある時、疲れ果てて寝て、ぱっと目を覚ましたら、タオルケットが手にぐるぐる巻き付いていたんです。寝ながら、手をネタの時のように動かしてたみたいで。さすがにその時はヤバいと思ったし、自分で自分が怖かったです(笑)。

――下世話な話ですが、収入もすごかったのでは?

トモ 当時はやっぱり入りましたね。『なんでだろう』のCDが20万枚以上売れて、印税もありましたし。

――収入が増えたことで、生活は変わりましたか?

トモ そこが、全くなんですよね。

テツ 牛丼の大盛を、心おきなく頼めるようになるぐらい?

トモ 2人ともお金がない時代が長かったし、以前より大きな缶コーヒーが買えるようになったくらいの変化でした。忙しくて使う暇もなかったですし。

■「何も残せない自分」に落ち込む日々

――「なんでだろう」が浸透する裏で、苦労もあったのでは?

テツ 当時は芸歴も浅いし、テレビのバラエティ番組ではトークの引き出しがなくて何も残せない。そういう自分が嫌で、落ち込む日が多かったですね。焦燥感ばかりが募っていました。

トモ ネタ番組以外では、なかなか……。視聴者に楽しんでもらいたいという思いはあったのですが、あまりうまくいってなかったと思います。番組から頼まれたことをただ消化するだけでした。

――プレッシャーもあったのでしょうか。

テツ プレッシャーはありました。僕は、いつも元気な姿で前に出ているから、普段でも“陽キャラ”と思われているフシがあって……。

 実際の僕は、飲み会に行ってもあまり喋らないし、何なら注目されたくないタイプです。でも認知度が上がったことで、普段の自分を見られた時に、不思議に思われたらどうしようと考えてしまう。だから素の部分を見せないように、極力人にも会いたくなくなって……とにかく逃げていました。あの頃はどこにも自分を出せず、辛かったですね。

――でも、トモさんが歌い手として前に出る形にはならなかったんですね。NHKのど自慢チャンピオンになったこともあるなど、トモさんも歌はうまいのに。

トモ テツはギター弾けないんですよ。練習してと頼んでもしない(笑)。

テツ 実はトモが弾いているギターは、僕が中学時代に買ったもの。歌のコンテストの賞金3万円で買ったんですが、Fコードでつまずいてギターは諦めたんです。結局3ヶ月しか弾かなかった(笑)。ただカッコよく言うと、トモが「監督」で、僕は「俳優」みたいな関係性なんです。だから、僕はトモに付いていくだけ。

■「紅白出場」では瞬間視聴率50%を記録

――そして2003年の流行語大賞を受賞。年末には54回NHK紅白歌合戦にも出場し、瞬間視聴率で3位(50.1%)を記録。1位は大トリでSMAPの『世界に一つだけの花』(57.1%)、2位が小林幸子さんの『孔雀』(50.6%)でした。

トモ 僕たちはその頃毎年10個目標を立てていて、紅白歌合戦に出るのが最終目標でした。僕は本気で、テツは半分冗談だったらしいんですけど(笑)。

「『毒がなくて面白くない』と散々言われましたね」それでもテツandトモ(52)が25年生き残れた「スゴい理由」 へ続く

(吉河 未布)

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