「イケメンで国立大卒なのが気にくわない!?」WBC栗山英樹監督の “知られざるノムさんとのすきま風”と“メニエール病の克服”《同期入団・橋上秀樹が明かす名将誕生秘話》

「イケメンで国立大卒なのが気にくわない!?」WBC栗山英樹監督の “知られざるノムさんとのすきま風”と“メニエール病の克服”《同期入団・橋上秀樹が明かす名将誕生秘話》

橋上秀樹氏 ©文藝春秋

「縁あってヤクルトに同じ年に入団してから2年目まで、合宿所で同部屋だったオレたちが、片や監督、片やヘッドコーチとしてヤクルトとは違うユニフォームを着て相対する。人生って何が起こるか、本当にわからないものだな」

 2015年、橋上秀樹(現独立リーグ・新潟BC監督)は前年まで在籍した巨人を退団し、楽天の一軍ヘッドコーチとして09年以来6年ぶりの復帰を果たしていた。この年の札幌ドームの日本ハムとの第1戦の試合前、敵将だった栗山英樹と久々に再会し、こんな話をした。

 その通りですね、と橋上は栗山の話にうなずき、笑い合った。

■「上には上が…」プロ入団後、レベルの違いを思い知った

 今から40年前の1983年11月22日に開催されたドラフト会議の注目選手に挙げられていたのが、即戦力右腕と言われた東海大の高野光だった。ヤクルト、大洋(現DeNA)、阪急(現オリックス)、西武の4球団が競合し、クジの結果ヤクルトに決定。また2巡目ではこの年の夏の甲子園に出場した市立尼崎の池山隆寛がヤクルト、近鉄、巨人の3球団が競合して、高野同様、ヤクルトが当たりクジを引いた。橋上安田学園から捕手としてヤクルトから3位で指名され、栗山はドラフト外での入団だった。

 日本プロ野球(NPB)では、1965年にドラフト制度が導入された後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象に、スカウトなどの球団関係者が対象選手を直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。この制度そのものは90年限りで廃止されたが、江本孟紀、西本聖、大野豊、松永浩美、鹿取義隆、秋山幸二、石井忠徳(現琢朗)など、ドラフト外入団からプロの世界で実績を残した選手は数多くいる。

 右投げ右打ちだった栗山は、大学時代は投手として25勝を挙げるも、右ひじを故障して投手を断念。その後は打者として才能を開花させ、東京新大学リーグ歴代3位となる通算打率3割8分9厘の成績を残した。プロ入りに際しては、大学4年時に創価高校時代の恩師である稲垣人司監督(後に桐光学園、花咲徳栄で監督を務める)と親交のあった佐々木信也(元プロ野球選手で、当時の「プロ野球ニュース」のキャスター)を介して西武とヤクルトの入団テストを受けた結果、ヤクルトへの入団が決定。国立大学である東京学芸大学出身で、教員免許も取得しているプロ野球選手が誕生したということもあり、当時は話題を呼んでいた。

 だが、プロ入り後はあまりのレベルの高さに衝撃を覚え、「上には上がいることを嫌と言うほど思い知らされた」と栗山はメディアで語っている。このことは橋上も同様で、オープン戦でドラフト1位の高野のボールを受けた際、レベルの違いを思い知った。

「その日の試合で高野さんが登板することになっていたので、コーチから『橋上、高野のボールを受けてくれ』と言われてブルペンに向かいました。ところがストレートの伸びがすごくて、グイと浮き上がってきたのです。私はどうにか捕りましたが、『次はカーブ』とゼスチャーしてから放ってきた高野さんのカーブは、一瞬視界から消えたんです。『えっ⁉』と咄嗟に思ったのもつかの間、目の前にボールが落ちてきて、捕球するどころかキャッチャーミットに触れることすらできませんでした。

 それを見たコーチが、『もういい。橋上、代われ』と呆れたように言われ、以降キャッチャーをやることはなくなりました」

 以降、橋上は内野手、その後は強肩と俊足を評価されて外野へとコンバートされていく。

■合宿所では6畳和室の2人部屋

 一方で橋上と栗山は、入団1年目から2年目まで合宿所で同部屋だった。ヤクルトの合宿所は埼玉県戸田市にあった。当時は一戸建てのような造りで1階には食堂や風呂場、トイレ、洗濯スペースがあり、1階と2階に4畳半の和室3部屋、6畳の和室3部屋の合計6部屋があったのだが、橋上と栗山にあてがわれたのは6畳の和室だった。

「当時の合宿所は4畳半が1人部屋、6畳が2人部屋だったのですが、布団を敷いたら物が置けなくなってしまうような部屋でした。冷暖房もなかったので、冬は寒くて夏は暑いのは当たり前。年末年始と遠征で合宿所を離れるとき以外はこの部屋で過ごしていたことを考えると、よくやっていたなと思いますね」

 また漢字は違えども、2人は「ひでき」という名前だったことで妙な親近感を覚えていた。コーチからも「下の名前で呼ぶと、どっちなんだかわからなくなるから、お前さんたちは名字で呼ぶからな」と言われたこともあった。

 栗山とは野球の話はほとんどせず、他愛もない話をよくしていたという橋上。それに体育会系の人にありがちな先輩風を吹かすということも全くなく、気さくにフレンドリーに接してくれた点は、「非常にありがたかった」と言う。ただ、入団1~2年目の頃の橋上は、部屋で長く過ごすことはほとんどなかった。

「高卒選手は洗濯や掃除などの雑用を多く任せられていたため、同級生の池山や桜井(伸一・ドラフト4位で入団)らと洗濯物を畳んでいるときや、あるいは食堂で後片付けをしているときにいろんな話をしていたことのほうが多かったですね。入団して1~2年目の頃は、部屋に戻るときには寝るだけのために戻る、なんてこともしょっちゅうありました」

■「スイッチヒッターをモノにできなければ自分の居場所はない」

 栗山はヤクルトに入団後は内野手、とりわけ二塁手として基礎練習を繰り返す日々を送っていた。当時を橋上はこう記憶している。

「技術的にはお世辞にもプロのレベルにはほど遠い感じでしたが、当時の内藤博文二軍監督が付きっきりで栗山さんと居残り練習をしていたのは覚えています」

 栗山自身、当時は「チーム内で一番下手くそだった」と振り返る中、内藤から守備だけでなく徹底的に鍛えられた。その甲斐もあって、1年目の終盤に神宮球場での大洋戦でデビューし、その年のオフにチームの野手最年長のベテランだった若松勉と、スイッチヒッターへの転向を図るため、左打ちの練習を始めた。その光景を橋上は今でもよく覚えている。

「とにかく死に物狂いで取り組んでいて、鬼気迫るものがありました。国立大卒で半ば練習生のような扱いでプロ入りしたことで、他の選手に大きく後れをとっていた。それだけに、『スイッチヒッターをモノにできなければ自分の居場所はない。だから左でひたすらバットを振るしかないんだ』と強い信念を感じました」

 2年目にはジュニアオールスターに選出され、3年目は開幕一軍の座をつかんだ。だが、2年目に発症したメニエール病が、現役生活を続けていく上での不安の種となっていく。栗山が病気で治療しながら現役を続けていることは、チームメイトの耳にも入っていた。入団4年目には一軍監督に関根潤三が就任。88年は規定打席に33打席不足していたものの、打率3割3分1厘を記録。89年にはおもに2番を任され、プロ入り初の規定打席に到達し、守備範囲の広さも評価されてゴールデングラブ賞を初受賞した。

「とにかくガッツあふれるプレーが魅力でした。地方での試合で外野のフェンスに激突して倒れたときも、立ち上がって懸命にプレーしている姿は、病気を感じさせないほどの迫力を感じていました。

 入団時こそ技術的に劣っていたプレーそのものも、日々の努力でプロの一軍レベルにまで到達させた姿勢は、当時一軍と二軍を行ったり来たりしていた私にとっても、大いに学ぶものがありました」

 橋上は当時をこう回想する。

■分岐点となった野村監督からの辛辣な評価

 栗山にとって現役生活の大きな分岐点となったのは、89年オフに新たに監督として就任した野村克也の存在だった。野村は選手の意識改革に取り組んだ。ときには選手から反発を食らうこともあったが、野村はどこ吹く風とばかりに自分の信念を押し通した。

 当時のヤクルトの主力となっていた池山を筆頭に、広沢克己、セ・リーグの新人王を獲得した笘篠賢治といったレギュラークラスの選手も例外ではなかった。当時、ベンチにいた橋上はこう振り返る。

「笘篠は野村さんに『大きいのを狙うな。脇役に徹するつもりでバットを短く持ってコツコツ当てていけ』と言われたことに反発して、バットを長く持って振り回していました。何度言っても聞く耳を持たない笘篠に野村さんは業を煮やし、ナゴヤ球場での中日戦で笘篠がいつも通りバットを長く持って打席に立っている姿を見て、

『笘篠! バットを短く持てって言っているのがわからないのか!』

 と三塁側のベンチから怒鳴ったんです。野村さんのあまりの剣幕に、三塁側のベンチはもちろんのこと、相手の中日のベンチも『何が起きたんだ?』と驚いていました」

 これで笘篠もバットを短く持つかと思いきや、バットを長く持ち続けた。以降、野村は笘篠に見切りをつけ、セカンドのレギュラーの座を追われてしまう。

 栗山についても野村は例外なく辛辣に評価していた。だが、橋上の目には栗山はチームに献身的にプレーしているように映っていた。

「私の目から見ても、栗山さんは関根監督時代と同じようにガッツあふれるプレーをしていたように見えましたし、野村さんにとっても使い勝手のいい選手のように思えた。それだけに、辛口の評価をしていたのはなぜだろう? と頭の中はクエスチョンマークでいっぱいでした」

 橋上と同じことはヤクルトの他のチームメイトも同様に考えていた。ある選手は、「栗山さんが国立大卒なのを、監督は気に食わないんじゃないのか」と言う者もいれば、「女性人気が高く、イケメンなのが気に食わないんじゃないか」と口さがないことを言う者までいた。

 だが、理由が不明確なことを理不尽に思っていたのは当の栗山本人だった。シーズンが進むにつれて、野村と栗山の間にすきま風が吹くようになった。

「笘篠は野村さんに反発しましたが、栗山さんは反発せずに距離を置いてしまった。人格者の栗山さんでなければキレてしまってもおかしくなかったと思います」

 06年に野村が楽天の監督に就任したとき、橋上は野村の下で3年間、ヘッドコーチを務めた。このとき野村と行動を共にすることが多く、多岐にわたって話をする機会があった。あるとき、当時の栗山の起用法について野村に訊ねたことがあったが、核心を突いた答えが返って来なかったと言う。

■引退後は片や監督、片やヘッドコーチとして他球団で活躍

 野村の監督就任1年目の90年、最終戦が終わった翌日、橋上はスポーツ紙を見て驚いた。栗山がこの年限りで引退することを知ったからである。まだ29歳だった。

「当時は栗山さんが引退することを、チームメイトの全員が知りませんでした。すぐに栗山さんの自宅に電話して『本当に辞められるのですか?』と聞くと、『体が悲鳴を上げて限界だったんだよ』と話してくれたんです。いろいろ思うところもありましたが、ギリギリのところで野球をやっていたんだなと、ねぎらいの気持ちを持ったのと同時に、心底残念に思いました」

 以降、栗山はテレビ朝日の野球解説者やスポーツジャーナリストとして活躍する一方、白鷗大学の教授としても活動していた。12年より日本ハムの監督に就任して以降、21年までの10年間で、リーグ優勝2回、日本一1回を果たした。

 一方の橋上は野村野球のイロハを学び、92年、93年のリーグ優勝、93年の日本一に貢献。その後日本ハム、阪神を経て2000年限りで現役を引退。その後05年から09年まで指導者として楽天のユニフォームに袖を通すと、12年から巨人の戦略コーチに就任。この年、巨人は3年ぶり34度目のリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは栗山率いる日本ハムを破り3年ぶり22度目の日本一を達成した。その後、13年、14年とリーグ3連覇を果たし、15年から楽天の一軍ヘッドコーチとして大久保博元監督を支えた。そして冒頭の栗山との会話へとつながるのである。

■栗山が貫き通した信念

 実はこの年のシーズン中に、栗山は橋上にこんな相談を持ち掛けていた。1つは「中田翔を4番で使い続けるべきか」、もう1つは「大谷翔平を二刀流で起用し続けるべきか」ということだった。

 栗山が中田を4番に据えた当時、周囲から想像以上に批判の声が届いていた。

「4番なのに好不調の波が激しすぎる」

「他の選手のほうが確実性がある」

 大谷についても二刀流の選手など、長いプロ野球の歴史のなかでも前例がない。それだけに「どちらかに絞ったほうがいい」という意見が多数派を占めた時期もあった。だが、橋上はこう言った。

「栗山さんがこれでいいと思ったら、それを貫けばいいんじゃないですか?」

 大谷についてはさらにこう付け加えた。

「誰もやったことがないことができるのは、栗山さんしかいませんよ」

 そう言うと、栗山は「そうか! ありがとう」と笑顔で返した。その後、2人を使い続けたのは周知の通りである。

「おそらく栗山さんの頭の中では、『4番・中田』と『二刀流・大谷』で行くことは決まっていたはずです。それを後押ししてもらいたいがために、あえて私に聞いたんじゃないかと思うんです」

 こうした我の通し方ができるのは、貫き通す信念があるからだと橋上は分析している。

 今、世間はWBCの話題一色で盛り上がりを見せている。橋上自身も13年の第3回WBCで戦略コーチとして侍ジャパンのサポートに回った。それだけに世界の未知なる戦いの難しさは嫌というほど経験している。

 そして時を経て東京オリンピックが終わった後の21年11月30日、栗山は侍ジャパンの監督に就任した。橋上は栗山のここから先の戦い方に期待していると話す。

「私が入団した83年のドラフトでは、日本ハムに1位で指名された白井一幸さんが今回の侍ジャパンのヘッドコーチ、近鉄に2位で指名された吉井理人が侍ジャパンの投手コーチとなっています。全員で栗山さんをサポートして、侍ジャパンの3度目の世界一を達成することを期待したいですね」

 6畳の和室でプロの世界のスタートを切った若者2人が、指導者として世界一を目指すサクセスストーリーの「この先の結末」に注目していきたい。

(小山 宣宏/Webオリジナル(特集班))

関連記事(外部サイト)

  • 記事にコメントを書いてみませんか?