「な、な、なにこのコラボ……」心地よい自虐作『翔んで埼玉』が翔べなくなった日

「な、な、なにこのコラボ……」心地よい自虐作『翔んで埼玉』が翔べなくなった日

映画『翔んで埼玉』作中の「埼玉ポーズ」を披露する出演陣 ©時事通信社

 映画『翔んで埼玉』は多層的なメタフィクションとして作られている。昭和57年(1982年)から58年にかけて『花とゆめ』(白泉社)に掲載された魔夜峰央による未完の漫画作品を原作とし、映画の中では埼玉県に住む家族が結納に向かう車内に流れるローカルラジオから、巷に流布する都市伝説として紹介されるその物語を聴く構成が取られる。それはいわば関東一都六県を使った差別の戯画である。

■「ベルばら」と大河ドラマをミックスしたようなカタルシス

 東京が自らを中心とする価値観に君臨し、千葉や埼玉は分断して統治され、神奈川は『名誉都民』のごとく東京に阿諛追従する。それは差別構造のパロディであると同時に、その構造に立ち向かうレジスタンス映画、差別を告発するプロレタリア文学のパスティーシュにもなっている。

 替え歌が歌詞を入れ替えてもグルーヴを生むように、東京の支配下にありながら反目し相互監視していた千葉と埼玉が薩長連合のごとく過去の遺恨を乗り越えて手を組み、フランス革命のごとく東京に押し寄せるクライマックスには「ベルサイユのばら」と大河ドラマの明治維新をミックスしたようなカタルシスがある。


 良く出来た映画だった。そしてとても懐かしい匂いがした。こんな風に社会構造をパロディにし、同時にそれに抗う自らも俯瞰しつつ、徹底したおふざけの中に熱いエネルギーを失わない作品が昔はもっとあったような気がする。筒井康隆の小説の最も優れた部分、あるいは野田秀樹や鴻上尚史の演劇のいくつかを思い出したし、関東の地名を駆使したメタフィクションぶりはどこか押井守作品の文体を彷彿とさせたりもした。

 まるでロックンロールの名曲にヒップホップのリリックをのせたような、『翔んで埼玉』に流れるグルーヴに僕は心地よく揺られた。せっかくだからと自分のブログに映画で描かれる神奈川県民の名誉都民しぐさを自虐的に書いてそこそこウケたりもした。安心していたんだ。あの騒ぎが起きるまではね。

■批判が殺到した魔のコラボ

 3月13日、映画『翔んで埼玉』のツイッター公式アカウントはあるツイートを引用した。それは高須クリニックが運営していると見られるアカウントによる、映画『翔んで埼玉』とのコラボ企画としてオリジナルTシャツを20名にプレゼントするという趣旨のツイートだった。


 アカウントのツイートを遡ると、実は今回の企画のために作られたアカウントではなく、昨年の5月には東宝映画『のみとり侍』とのコラボ企画に使われていたことがわかる。映画『翔んで埼玉』の公開日は2019年2月22日で、高須クリニックのコラボについて最初にツイートされているのは3月13日だから、おそらくは初登場1位という予想を覆すヒットが話題になったあとに決まったコラボのために、以前別の映画でコラボした際に作ったアカウントを流用したのだろう。

 そして、このコラボには多くの批判が寄せられた。高須クリニックの院長、高須克弥氏が過去に繰り返してきた発言に関わる批判である。

■「南京もアウシュビッツも捏造だと思う」という過去ツイート

 一例を上げれば2017年、サイモン・ウィーゼンタール・センターは公式声明として彼のホロコーストに関する発言を理由にアメリカ美容外科学会の会員停止を要請し、自主的な退会か除名かは言い分が食い違うものの、実際に学会から外れている。

 そして今回のコラボが批判を受けた後にも、高須院長の「南京もアウシュビッツも捏造だと思う」という2015年の過去ツイート(現在に至るまで撤回も削除もされていない)に対し、ポーランドのアウシュビッツ記念館の公式ツイッターアカウントが2019年3月15日付けで「アウシュビッツは世界中の人々の心に絶えず忠告する史実です」と日本語でリプライを送る異例の事態になっている。

 映画『翔んで埼玉』の広報担当者(東映配給である)にしてみれば、去年同じように東宝さんとコラボした時は何も言われなかったじゃないですか、なんでうちだけという思いはあるだろう。そもそも高須クリニックのCMはTV雑誌問わず豊富な資金力で全面展開されているし、高須院長本人もテレビ番組に自ら出演している。ピーピー言ってる邦画、それも東映(ごめん)の広報担当者が担当者の一存で政治性を理由に断る方が困難なのかもしれない。法的に問題は何もなく、他社もみんなやってるのだ。少なくとも日本のメディアにおいては。

■『翔んで埼玉』の“翔び方”とは別物だったはず

 でも映画を見た観客としてこれだけは言える。『翔んで埼玉』の公式アカウントが「な、な、なにこのコラボ!!!そういえば#高須先生もいつも翔んでいらっしゃいますもんねぇ…。 」と高須クリニックとのコラボ企画を紹介する時、僕たちの心はもう翔んではいない。差別のシステムを透視図法のように寓話で解き明かし、分断された階級意識の中の対立、そして革命後のビジョンまでもナンセンスな笑いの中で語る鳥のような視点はもうそこにはない。

な、な、なにこのコラボ!!!?

そういえば #高須先生 も
いつも翔んでいらっしゃいますもんねぇ…。 #翔んで埼玉 ? https://t.co/Rjkt8Fxms6

? 映画『翔んで埼玉』公式 (@m_tondesaitama) 2019年3月13日


「高須先生もいつも翔んでいる」と公式は語るが、『翔んで埼玉』を見ている時に感じたあの懐かしい浮遊感、作品が描かれた80年代の文化を彷彿とさせるパロディとパスティーシュ、価値相対主義の最も良質な部分は高須院長の『翔び方』とは別のものだったはずなのだ。そんな所には着地しない、もっと高いところまで上り、遠くまで心を翔ばすという約束のもとに、僕たちは沖縄や福島という、寓話でもなんでもなく東京中心主義の犠牲になっている多くの地域のことをいったんおいて、関東一都六県のファッショナブルな差異を題材に差別の構造を語る『翔んで埼玉』という物語を見ていたのではなかったのか。

■ヒットから魔のコラボは平成史の早回しに見えた

 映画『翔んで埼玉』が公開された2019年2月22日から、映画が予想を覆す大ヒットを見せ、そして高須クリニックとのコラボが発表される3月13日までの1ヶ月に満たない時間は、まるで80年代に花開いたサブカルチャー、価値相対主義の理想が現在の政治状況に飲み込まれるまでの平成史を早回しするように見えた。

 何よりもまず自分自身を疑い、自分自身を笑うはずだったあの文化が(今回の『翔んで埼玉』は埼玉県で最もヒットしたそうだ)いつの間にか自分の属性を全肯定してくれる出鱈目な政治性を乱立させ、仲間に所属しない他者を嘲るようになるまでの30年間。かつて名作を生み、天才と呼ばれた作家たちが不況と経済構造の中でなすすべなく社会の波に飲み込まれていく平成史。

 「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た」

 引用するのも気が引けるが、これは百万回語られた角川文庫発刊における角川源義氏の辞である。でも僕にはこれが戦前の日本文化のみならず、まるで自分たちの世代のサブカルチャーについて書かれた言葉のように感じる。

■サブカルチャーの理想が、スクリーンの外で敗北した

 僕たちはたぶん『翔んで埼玉』という映画の中にサブカルチャーの理想を見て、そしてスクリーンの外でその理想の退廃と敗北の現代史をもう一度体験したのだと思う。

 僕はそれがこの映画を作ったスタッフの責任だとは思わない。映画は確かに翔んでいた。政治構造の重力から身をはがし、自由で高い視点をスクリーンの中で見せた。翔ぶことに失敗したのは現実にいる僕たちの側だ。


 僕たちは映画の中でローカルラジオから流れる、カースト構造の中でアイデンティティにしがみつき憎み合う都市伝説の中に今もいる。きっとこの宇宙のどこかで島崎遥香に似た女神が(「こいつらマジで馬鹿じゃねえのか」という表情をさせたら今日本でナンバーワンの女優だと思う)僕たちを眺めて呆れているのだろう。そしてここからの脱出は、GACKTにも二階堂ふみにも頼ることはできないのだ。

 今回の騒ぎのあと、僕は映画『翔んで埼玉』を映画館にもう一度見に行った。映画は何も変わらない。脚本と演出はクールなウィットと熱い情熱を両立させ、千葉解放戦線リーダーを演じた伊勢谷友介も、映画『ギャングース』で心正しき貧困のギャング少年を演じた加藤諒も素晴らしい演技で東京から切り捨てられた人々を演じていたし、島崎遥香は変わらず最高の表情で身分制度をめぐるバカ騒ぎに呆れ返っていた。

 僕は原作が描かれた昭和と映画が作られた平成の境目にリリースされた、ブルーハーツの『青空』という歌をずっと思い出していた。こんなはずじゃなかっただろ? 映画はいつもそんな風にして僕たちを問い詰める。スクリーンの向こうに広がる、東京都民と埼玉県民が手を取り合って暮らす差別のない虚構の日本の、まぶしいほど青い空の真下で。

(CDB)

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